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(通常の日記はこのエントリの下から始まります)

◆ 鎌倉「ヒグラシ文庫」での常設棚 ← 2018/5/20で古本販売は終了しました。

 2011年5月末より7年間、どうもありがとうございました。
 (お店は変わらず、営業中。古本T以外の本の販売も継続中)


# by t-mkM | 2024-12-31 23:59 | Trackback | Comments(0)

最近の収穫

ということで、最近読んだ本から、とくに良かったと思えた本を。

若林恵・畑中章宏「『忘れられた日本人』をひらく」(黒鳥社、2023)

『忘れられた日本人』とは、もちろん宮本常一の代表的な著作であり、岩波文庫にも入っている。
宮本常一って、もちろん名前は知っているし、何をしたのかも漠然とはわかっているつもりではあったけど、この本を読んで民主主義とのつながりを認識させられた。まあ、目ウロコ、であったということ。

この本の意図として、著者の若林氏は「本書は、畑中章宏『宮本常一』と宇野重規『実験の民主主義』の副読本」ということを書いている。
で、アマゾンのページを見ると、その本も含めて3冊一緒に並んだ画像がある。

https://www.amazon.co.jp/%E3%80%8E%E5%BF%98%E3%82%8C%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%80%8F%E3%82%92%E3%81%B2%E3%82%89%E3%81%8F-%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E5%B8%B8%E4%B8%80%E3%81%A8%E3%80%8C%E4%B8%96%E9%96%93%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%83%87%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%BC-%E8%8B%A5%E6%9E%97%E6%81%B5/dp/4991126096

そのアマゾンのページにも、本書からいくつか引用があるけど、特に興味深かった箇所を、以下に写経しておく。

若林 …ソーシャルメディアが浸透し誰もが気軽に情報発信ができるようになっていくなか、「フェイクニュース」や「誤情報」の問題が長らく問題化しています。それに対する多くの論調は「真実」というものをもって偽情報や誤情報を調伏しなくてはならないとするものですが、個人的にはそれはまったく徒労ではないかと感じます。
 それよりも、わたしたちの社会が、宮本常一が書いたような、ウソも本当も見分けがつかない、すべてが「噂」としてあるような、いわば中世的な無字社会に向かっていると考えたほうがいいのではないかと思おったりします。
畑中 この社会は無字社会に向かっていると。
若林 もちろん文字がなくなって、すべての人が非識字者に戻っていくようなことはないと思うのですが、ただ、例えば絵文字やInstagramやYoutube、あるいはポッドキャストといったものに見られる映像や音声による情報の交換が、文字による情報のやり取りの優位性をどんどん低下させているという状況になっているとは思います。ピエール・レヴィという人類学者は『ポストメディア人類学に向けてーー集合的知性』という本のなかで、こんなことを言っています。
 相互作用なマルチメディアが明らかに提起しているのは、ロゴス中心主義の終焉という問題や、他のコミュニケーションの様式にたいして、なんらかの優位に立っている言説が格下げされるという問題である。(ピエール・レヴィ『ポストメディア人類学に向けてーー集合的知性』)
 わたしはこれを、書き文字によって規定された文明が、そこから離脱し始めることとして理解していますが、これは逆に言えば、「真実」というものは、それが文字化・文書化されることによって担保されてきたということでもあるかと思います。デジタルメディアとインターネットの登場によって、その基盤が大きく崩れ始めているというのは、メディアの仕事をやっている身としても実際にリアリティがあります。
畑中 それはたとえばどういうところで感じます?
若林 わたしはポッドキャストで音声コンテンツをつくったりもしていますが、ポッドキャストというものがなぜ、特に海外で大きな趨勢になっているのかは、いまのところあまりうまい説明がないんですね。海外の状況などを見ると、若い世代がニュースを文字で読むのではなく音声で聴くことのほうに安らぎを感じるといったことが言われたりしますが、それを踏まえて思うのは、音声言語の処理というのは、文字言語との比較では、「真実らしさ」の感覚がまったく違うのだろうということです。
 話し言葉は、定着するということがないので、ふわっと漂っていきますよね。しかも、それが自分の頭のなかの声だったり誰か別の人が語っていた別の声だったりと、重なってぐにゃぐにゃと不定形が、ある意味無時間的なものとして、自分のなかに残ります。そこには、おそらく確定的な「真実」のようなものが存在しないか、もしくは、あったとしても、それは文書化された真実とはまったく異なるのだと感じます。
(p130-134)

文字言語の地位低下に入れ替わるように、音声や映像配信の急速な普及とフェイクニュースの蔓延がある、と。
この視点での言及は、はじめて読んだ気がする。
若林氏の活動には、今後も注目していきたい。



# by t-mkM | 2024-02-29 02:09 | Trackback | Comments(0)

『思想』2024年1月号 磯崎新 から

少し前の雑誌から、ということで今回は、岩波書店の『思想』2024年1月号。
この号では「磯崎新」が特集されている。

巻頭にある「思想の言葉」は、劇団主宰で演出家の鈴木忠志が書いていて、1978年に岩波ホールで行われた公演『バッコスの信女』に寄せた磯崎新の文章に驚かされたとのことで、”今でも鮮明に思い出す”と書いている。
で、その文章を引いておく。

 私の鈴木忠志にたいするシンパシーは、彼が演劇のありとあらゆる様式を、廃墟とみたてて、その残骸である形式をひろいあつめ、独自の組み合わせのなかから、演劇が発生以来ただひとつの本質として所有してきた「劇的なるもの」の構築をこころみていることである。これはあるいは私の現代建築の置かれた状況への対応からの類推かも知れないが、定型化した個別の様式をささえる序列が解体してしまったという状況認識は、すぐれて今日的であるようにみえる。とすれば、様式の廃墟と渡り合うことだけが残されているとみてもいい。その具体化は、複合や折衷、本歌取りや地口やブリコラージュと、多様な手法としてあらわれているが、鈴木忠志は、それを演劇の領域において、もっとも明確に意識化して独自の世界をつくりつづけているといえるだろう。(後略)
(p2-3)

この号には他にもさまざまな論考、論文が掲載されているが、目次を見て個人的に興味を惹かれたのは、

「磯崎新と1950年代サークル運動・文化運動の接点」町村悠香(p62-72)

という論文。
サブタイトルとして、「リアリズムの系譜から読み直す戦後美術史・建築史の可能性」とある。
ここで、「1950年代サークル運動ってなに?」という方にいるでしょうし、ワタクシも説明しにくいので、この著者による説明を引くと、以下のようになる。

 ここでいう「サークル」とは、戦後の民主主義社会を自らの手で作り上げようとした草の根の文化運動を担った集団である。当時の共産党は分裂状態にあったものの影響力は非常に大きく、1950年代前半の共産党主流派(所感派)の文化方針に影響を受けた知識人や学生が、民衆のなかへ分け入りサークル結成を促したり、労働者、農民、学生、地域の人々が党の方針に共鳴してサークル活動を行ったりする事例は少なくなかった。2000年代から「サークル運動」をめぐって思想、歴史学、文学、社会学などで研究が学際的に進展した。戦後美術史研究は、こうした成果を学びとり周縁化されたリアリズム美術の系譜を位置付け直す途上にあり、筆者は民衆版画運動の研究を通じてこの歴史の読み直しに寄与しようとしている。
(p62-63)

それで、つづけて、

…磯崎新の1950年代前半の経験に注目する意義として、以下の2点を指摘したい。ひとつは、磯崎にとって1950年代前半の文化運動の経験は「敗戦」「廃墟」とリンクしていたと考えらることだ。
(p63)

として、磯崎の初の著作集『空間へ』(美術出版社、1971年)に掲載された「年代記的ノート」から引用している。
そして、その意義のもうひとつは、

 磯崎の1950年代に着目するもうひとつの意義は、彼の体験を追うことで戦後の建築史を美術史の双方でこれまであまり検証されてこなかった、社会主義リアリズムの影響を辿ることができる点だ。
(p64)

として、ここから論考が展開されていく。
以降の詳しいところは、『思想』2024年1月号を当たっていただく他ないけど、こんな研究をされている方がいるんだなぁ。
挙げられている参考文献など、ちょっと漁ってみようかと思わされたので、以上、メモ的に書いた次第。



# by t-mkM | 2024-02-16 01:46 | Trackback | Comments(0)

自炊者になれるのか

ちょっと変わった本で印象的だったの、備忘録的にメモ。

『自炊者になるための26週』三浦哲哉(朝日出版社、2023)

以下はアマゾンに載っている、本書の「料理したくなる料理」からの文章のコピペ(一部)。

https://www.amazon.co.jp/自炊者になるための26週-三浦哲哉/dp/4255013608

本書は自炊の入門書です。
提示しようとしているのは、料理したくなる料理です。
レシピを覚えたり、技術を学んだりする以前に、料理したくなるのでなければ、そもそも自 炊は始まりません。始まったとしても、楽しめず、つづけるのがむずかしくなります。
本書は、どうすれば料理したくなるかについて考え、一緒にその答えを探ってゆきます。
料理したくなる料理とは何かを理解し、楽しく自炊しつづけるようになることが目標です。
大きな方針をお伝えします。
「風味の魅力が私たちを動かし、料理したくさせる最大の動機である。本書はそう考えます。「風味の魅力」とは何か。それが本書の問いです。(…)
「風味の魅力」についての理解を深めながら、それを最大限に楽しむことのできる料理の作り方を、なるべく簡単なものから順番に、テーマごとにお伝えしてゆくのが、本書の構成の特長です。あわせて、日々の台所での作業を快適に進めるための方法を、ステップごとに示します。
料理をすることにまだ興味が持てないという方に、この本を読んでほしいと思います。読んでいただければ、料理の何が楽しいのかを理解していただけるでしょう。
(以下略)


ここで言われる「風味」、この「風味」こそが自炊をする、つまり料理をし続けていくための最大の動機づけになる、とのこと。
そう言われても、よく分からないかとは思うけど、読んでいると「なるほど」と思わされる。
ここで本書の目次を挙げておくと、こんな感じ。
(これは紀伊国屋書店のwebサイトから。

目次
においの際立ち

においを食べる

風味イメージ

セブンにもサイゼリヤにもない風味

基礎調味料

買い物

蒸す

焼く

煮る

揚げる、切る

動線と片付け

カイロモン

日本酒

ワイン

青魚

白身魚など

1+1

混ぜる

春夏の定番レシピ

秋冬の定番レシピ

乾物

発酵

うつわとスタイル

ファーム・トゥ・テーブルとギアチェンジ

索引と徴候

家事と環境

このうち、「基礎調味料」までの最初の6章、ここに自炊を続けていく(いける)ようになるためのメッセージが詰まっている。
また、この後に続く「蒸す」「焼く」といった、料理の具体例を解説する章も興味深い。何せ、通常の料理本だと当然あるような写真、イラストの説明、レシピの列挙、等々は全くない。途中に挟まれるのは、ワタナベケンイチ氏によるシンプルな挿画のみ。あとは文字、文章だけだ。

…どんなささやかなものであっても、感動がなければ、手を動かそうという気にはならないものです。感動があり、それが面倒を上回ること。自炊を成立させる定式は、「感動>面倒」です。これをたえず念頭に置いていただきたいです。では、どうすればこの定式を成り立たせられるのか。風味がその最大の鍵を握っているというのが本書の考えです。風味はいわば心の燃料です。だから、風味の魅力を最重視するのです。
(本書、p60-61)

読んでいると、つねにこの「風味」の魅力に立ちもどって自炊の感動を確認しつつ、進んでいく。26週(半年だ)、それを続けていけば、たしかに自炊者になれるかも、と思わせる。

…で、こちらは自炊者では無いけど、酒飲みではあるので、目次でいうと「日本酒」「ワイン」に目が行く。その中の一節。

 つぎのような、ほとんど一瞬でできてしまう料理を頭に思い浮かべてみてください。きゅうりの塩もみ。薄く切ったこんにゃくをフライパンで軽く炒りつけて、しょうゆを少しまぶしたやつ。油揚げを網に乗せて炙り、七味唐辛子をかけたやつ。単体ならば、おいしくはあれども、そこまでの感動を呼びはしないでしょう。
 ところがその横に、飽きのこない穏やかな味わいの日本酒が、絶妙にお燗をされて出されていたら。単なる平凡なきゅうりだったもの、こんにゃくだったもの、油揚げだったものが、とたんにものすごく好ましい何かに変わります。
(p162)

うん、うん、そうだよなぁ。
だから、日本酒は(ワイン、ビール、などなども…)やめられない。

とはいえ、本書を読んでもなお、自炊者になるにはまだまだだなとも感じてしまうけど、得るところは多々あった。



# by t-mkM | 2024-02-07 01:55 | Trackback | Comments(0)

直接行動とは

近所の図書館でこんな本を借りて、読んだ。

『直接行動の想像力 社会運動史研究5』大野光明・小杉亮子・松井隆志 編(新曜社、2023)

最初のほうに「座談会 運動史から考える直接行動」が掲載されていて、参加者は以下。
 阿部小涼+酒井隆史+大野光明・小杉亮子・松井隆志

以前、暴力に関する酒井隆史氏の著作が印象にあったので、読んだけど、この座談会も知らないことは多く、興味深い議論が多々あった。
目に止まった酒井隆史氏の発言を以下に写経しておく。

 いっぽう2010年代で気になっていたことの一つが、運動とデモがあまりにも結びつけられ論じられていたことです。デモは運動のごく一部にすぎない。普段のビラ刷り、ビラまき、会議、クラス入り、討論とかがあって、たまにデモがある。デモ=運動という語られ方について、運動の幅の切り縮めが気になっていた。
(p19)

阿部さんの言われるように、大衆の抗議行動に関する議論は、そもそも国連をはじめとする諸機関-ー多様ではありますが、各国の司法体制を含む諸機関ですらも-ーですでに前提とされる規範、あるいは争点そのものが、日本ではあまり分節されていないという問題があります。抗議行動と権利、違反と正当性をめぐる、論争空間がまるごと排除されているように思えます。そもそも「直接行動」とは厳密な意味では区別される「市民的抵抗」ですら、違法行為を前提とすること、それを踏まえて正当性が争われるのは、権威主義的体制、独裁体制は別として、基本的に国際的常識だと思います。ところが日本では、とりわけ代用監獄システムをはじめとする抑圧体制もあいまって、こうした大衆的抗議行動の幅そのものがきわめて制約されています。しかも、制約されていることにすら気がつかないような空間になっているのです。
(p21)

逃げることの自由、抜けることの自由、離脱することの自由は、あらゆる自由や自律の基盤ですよね。
(p23)

まず理念、運動と抗議行動一般と事実のあいだの峻別をしなければなりません。私たちはここでは研究者として集まっているわけですし。ケースが何度も述べているように、暴動というのはある。大衆は蜂起する。これは揺るがし難い事実問題です。誰かが戦略を立てて運動を組織するというものじゃなくて、暴動はある。フーコーがイラン革命をめぐって言っていたように、大衆は反乱する。知識人はそれに対していつも遅れるし、活動家も遅れる。
(p28)

問題提起的にくり返しておきたいのですが、2010年代以降、気なるのが民衆蔑視の傾向です。左派はリベラル化し、ますます無意識化された民衆蔑視が蔓延したと思っています。
 この社会に差別があるのは社会構造的に当然で、知識人にも活動家にもある。だから、民衆にもそのようなものがあるのは当たり前なのですが、それでも、どこにだってそれを解体する契機はある。かつての民衆史は差別や暴力を解体する契機に着目していました。また、現在のアナキストの運動は、民衆のつくる差別や暴力を解体する契機や局面を重視し、そこに依拠しながら、いま・ここに新しい世界を構築しようとしてきたわけですよね。2010年代以降の日本の言説は、民衆は暴力的、差別的であるというイメージを前提にしてしまっていて、やばいなと思う。
(p33)

…なぜ内ゲバが激化するかというと、国家暴力を模倣しようとするからです。国家暴力を解体しようとせず、国家の主体をすげ替える枠組みでやっているからです。そもそもヒエラルキーを維持する社会を解体していくというビジョンと結びついていなければ、暴力の行使はそうなってしまう。
(p35)

日本で反原発運動が盛り上がり、世界の動きと一見して同じに見えたのですが、原発問題を「日本の問題」にできてしまい、内閉していったと考えています。人びとの関心は連動してよいはずの気候変動などにはほとんど向かわなかった。世界では互いに学び合い、完全に麻痺している議会制に対して新しい闘争形態を模索していたのに、日本だけが旧態依然とした議会主義にどんどん収斂していった。言説レベルでもそのような動向を批判できなかった。そもそも批判的議論のできる基盤が貧しくなっていった。
(p38)

日本で運動的な基盤が希薄になっているのはしょうがない。それでも、あちこちに分散している動きはあるじゃない。それらにどうやって言葉やイメージを与えるかが重要だと思う。イメージというのは見栄えを良くするという話ではなく、どういう概念で、何を言うかということです。というのも、いまの資本主義社会はもう物質的基盤がなくて、資本主義によって世の中が良くなるなんていえない状況になり、ますます精神論になってきていると思う。だから、あんな膨大な金を投じて、プチスターの右派メディア知識人が続々と現れ、世論操作が行われている。支配層はすごい危機感をもっている。
(p39)


これ以外に掲載の諸論考も、いろいろ参考になるところがあり、面白かった。

なお、本書の表紙は「A3BC:反戦・反核・版画コレクティブ」というグループ?の作品が使われているのだけど、内容ともあいまって、いい表紙だと思った。
彼らのサイトは以下。




# by t-mkM | 2023-12-07 01:46 | Trackback | Comments(0)