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シモーヌ・ヴェーユのことば

図書館で、新版として出たシモーヌ・ヴェーユの『重力と恩寵』(春秋社)が目に止まり、借りてきた。
シモーヌ・ヴェーユの名前をはじめて見たのは、たしか10数年前、高村薫『レディ・ジョ−カー』を読んだときだ。主役のひとりである合田刑事が、夜おそく仕事を終えて自宅に帰ってきてひもとく本として、何度か描写されていたことで印象に残っている。


それ以来、シモーヌ・ヴェーユという名前は「気になる著者」として記憶されている。ただ、この『重力と恩寵』という、なんともいえないタイトルの本のことは知ってはいたものの、まともに読むのはこれが初めてだ。

アフォリズムというか、思索の断片の集まりとでもいうのか、決して取っつきやすい本ではない。小説のように続けて読んだり、順番に読むのに適しているとも思えない。それでも、気になる文章があちこちにでてくる。
たとえば、あとがきでも触れられていた「対象なしに欲求すること」という章の、

亡き人の現存は想像上のものだが、その不在はまさしく現実である。その人が死んでからは、不在がその人のあらわれかたになる。

「遡創造」という章から、

「私」であってはならない。いやそれ以上に「われわれ」であってはならない。
(中略)
場所がないところに根をもたねばならない。

あげていくとキリがないので、関連したネタをもうひとつ。

この『重力と恩寵』を出している春秋社のPR冊子『春秋』8・9月号で、「いま、ヴェーユを<読むということ>」という特集があり、巻頭に前回芥川賞を受賞した津村記久子が文章を寄せている。で、これがこの作家の「人となり」の一端をあらわしているようで、なかなか読ませる。
以下、一部分だけ引いてみる。

 ここ一年半ぐらいの間、賞の結果を待ったり、人前で話したりという仕事で東京に行く機会がたくさんあったのだが、もうとにかく気が重いそういった上京の際には、必ず、好きな曲のファイルと一緒に、「重力と恩寵」を持って行っていた。読むわけではないのだが、ヴェーユの考えたことが鞄に入っているというだけで、いくらか安心した。これでいつでも失望できると思っていた。今もそれは変わっていない。もう自分は終わりだな、と考えるたびに、ヴェーユの本をぱらぱらめくる。そして、終わりがなんなんだ、と思って元の場所に戻しに行く。

高村薫と津村記久子、小説の作風としては対極にあるように思えるふたりが、(時期は違うものの)そろってヴェーユを取り上げているというのは、ちょっと興味深い。
by t-mkM | 2009-10-02 00:56 | Trackback | Comments(0)


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