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水族館劇場、3週目~千秋楽へ (そして小沢昭一的芸能史など)

先週末の6月1日(土)につづき、楽日である昨夜4日(火)も三軒茶屋で水族館劇場を観た。
『NOSTROMO あらかじめ喪われた世界へ』
 劇団サイト→ http://suizokukangekijou.com/news/

1日の舞台、2週目に観たときと比べてシーンも登場人物もさらに増えており、そのぶん公演時間がちょっと長めになったか。
そして千秋楽。
ここに至っても、セリフや演出が変えられ、シーンが増え、舞台装置にも細々と手が加えられている。大枠は同じストーリー展開、同じ舞台装置・演出なのにも関わらず、1日に観たときとはかなり異なった印象で、(千秋楽ゆえなのか)芝居としてのまとまりが格段に増した感じを受けた。
舞台はナマものだとはいえ、不思議なものである。

それにしても今回の舞台を何度か観ていて、桃山さんという人は、つねに物語を変転させつづけながら"理解"や"解釈"といったものが定まるのを許してくれない人なんだなぁと、つくづく思い至った。

ここで話しは変わるけど、先日、岩波書店のPR誌『図書』2013年5月号をなにげなく見ていたら、山路興造という人が「小沢昭一的芸能史」というタイトルで一文を寄せていた。
小沢昭一による『私は河原乞食・考』『ものがたり 芸能と社会』『日本の放浪芸』といった著作に言及しながら、ここ3、40年の間に芸能者に対する眼差しが大きく変容したこと、小沢の視点が本来の芸能史研究に生かされていないことなどを綴っていて、興味深く読んだ。
この一文の終わりにこんな箇所がある。

 非日常の世界に生きるからこそ、芸能者は非日常の世界を生み出し、人々を別の世界に誘える。それこそが芸能の世界なのである。彼らが日常の世界の人々と区別され、差別されるのは、ある意味で必然であり、それ故に強烈な芸能世界が描けるのである。

つづけて、テレビが普及してからの芸能者に対する眼差しの変化について、こう書かれている。

 芸能人が差別の眼差しを向けられなくなり、反対にタレントとして、少年少女の憧れの対象となり、親も率先して応援するように変化するのは、テレビの出現以降である。テレビは芸能を日常世界に引きずり下ろすとともに、その出演者を差別の対象ではなくしたのである。「私は河原乞食」と自認して、それを立脚点とした小沢にとっては、茶の間に入り込んだテレビドラマに出演することは、ある意味での屈辱であったに違いない。

これまで劇団の方と話していて、小沢昭一のことが出たことは無かったように思う。ただこの一文を読んで頭をよぎったのは、公演の中途まで三軒茶屋駅の改札付近に貼られていたポスターに、
「現代の河原者、三軒茶屋にあらわる!」
という惹句があったこと。
1日と千秋楽の舞台でも、あちら側とこちら側を繋ぐかのように「シャリーン、シャリーン」と鐘を鳴らしながら、河原者とおぼしき朧な人物が登場する場面があった。"河原者"、その言葉を4日の舞台では何度か聞いたりもした。

自らを「現代河原者」という水族館劇場。
テレビはおろか、いまではインターネットという虚実の皮膜をさらに溶解させてしまうかの舞台装置も張りめぐらされたなか、彼らがどういう変転、流浪を重ねていくのか。これからも見つづけようと思いながら帰ってきたのだった。
by t-mkM | 2013-06-05 01:45 | Trackback | Comments(0)


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