中井久夫の「踏み越え」という概念

先月だったか、出版社のウェブ限定連載をまとめた、

 『考える練習』保坂和志(大和書房、2013)

を読んだ。この春に出た本だけど、刊行後けっこう話題になっていた覚えがあったので。ちなみに、大和書房のサイトではウェブ連載時の冒頭部分がまだ読めるようだ。
http://www.daiwashobo.co.jp/web/html/hosaka/backnumber2.html


編集者との対談で始まるのだけど、ほぼ保坂さん一人でしゃべり続けている。いかにも”らしい”展開に笑っちゃうけど、「支配的な価値観に抗う」とか「分析や批判なんて単に頭を働かせているだけ、考えているとは言えない」とか、刺激的な文章が並ぶ。読んでいる途中、巷で「善」とされる事柄(常識的な価値観、とでもいうか)にどれほど縛られているのか、幾たびも指摘されたような気になった。

なかでも印象に残ったのが、本の後半で保坂さんが力をいれて紹介していた、

 『徴候・記憶・外傷』中井久夫(みすず書房、2004)。

この本にある「「踏み越え」について」という論考からの引用に深く惹かれた。それで、さっそく図書館から借りだして読んでみた。この本自体はタイトルからも想像できるとおり、精神医学に関するハードで専門的な書物ではある。
ただ、先日のエントリで取りあげた 『永山則夫 封印された鑑定記録』堀川惠子(岩波書店) とも響き合うような箇所があったので、断片的になるけど「「踏み越え」について」からいくつか引用しておく。


 「踏み越え」transgression とは、あまり聞きなれない言葉かと思う。しかし、オクスフォード英語辞典(OED)によれば、十五世紀から「法やルールの埒外に出る」という今の意味で、心理学より法学のほうで使われてきたようである。(中略)私の意味では、広く思考や情動を実行に移すことである。
(p304)

 戦争への引き返し不能点は具体的に感覚できるものである。太平洋戦争の始まる直前の重苦しさを私はまざまざと記憶しており、「もういっそ始まってほしい。今の状態には耐えられない。蛇の生殺しである」という感覚を私の周囲の多くの人が持っていた。辰野隆のような仏文学者が開戦直後に「一言でいえばざまあみろということであります」と言ったのは、この感覚からの解放感である。
(p308)

 私たちは、イデアからイメージ、言語化を経て行動というコースを普通であると思い込みやすい。それは心理テストなどの場合に暗黙の前提としているコースであるけれども、果たしてそれは妥当であろうか。一つの理想型にすぎないのではなかろうか。現実には、あるコースから別のコースへの移動に順序はない。行動化が先行して後に、イメージ、言語化コースに移ることもある。例えば、行動の追想であり、後悔であり、合理化である。審判や裁判はこの過程に社会的に通用する形式を与えるものである。裁判はそのために存在するとさえいってよい。行為はすべて因果論的・整合的な成人型のナラティブ(語り)で終わらなければならないという社会的合意が裁判の前提である。
(p309)

 事実について争わない時には、友人のある弁護士は「被告が聞いて納得して刑に服するような判決をかちとる」ことを目標として弁護を行うと私に語った。これは重要なポイントであり、多くの場合に刑を生かす力になるであろう。被告は判決文を一字一句聞いて忘れないことが多い。見当外れの判決文あるいはおざなりな判決文は、被告に憤懣を覚えさせるであろう。常套句ではなく、具体的な細部に入り込んで、被告の置かれた状況を描きだす「血が通った」状況的理解にもとづく判決が望ましい。それは、妄想それ自身は理解できなくとも、それが生まれた状況や、もしそのように状況を(妄想的に)とらえたならば世界がどのように見え、人はどのように対処し、行動するであろうかは理解できるのと同じである。それは心の闇を成人言語で描きだすことと同じではない。実際は、被告のなかですでに明文的に存在するものに一致した言明ではない。被告のなかにある混沌に秩序を与え、その説明ならば被告は「納得して」刑を受けるようなストーリーである。そのような判決は事後的だが、踏み越えに言葉を与え、人生の中に位置づけて、人生に意味を与え直すから治療的なのである。
(p311)

このあとに「踏み越えによる犯罪」などの具体的な考察がつづいて、キモではあるのだけれども、長くなるのでこの辺で。専門的ではあるけど、深くしみ入ってくるような文章なので、ぜひとも全文を読むことをオススメする。この本自体は大著だけど、「「踏み越え」について」は24ページほどの論考だし。
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by t-mkM | 2013-12-17 01:45 | Trackback | Comments(0)
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