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宗教という視点から見る世の中

著者の本はいくつか読んできたけれど、この本はまずもってタイトルに興味を魅かれたので手に取ってみた。

『サバイバル宗教論』佐藤優(文春新書、2014)

目に見える政治や経済の動きを追うだけでは、世界は分からない。民族や国家の原動力となり、実際に世界を動かしているのは、しばしば目に見えない宗教だ。宗教を知ることは単なる教養のためではない。今後の世界を生き抜くために必須の智慧だ。禅宗寺院の最高峰、京都・相国寺で行った特別講義の全4回テキスト!

以上はアマゾンにある内容紹介。つまりはお坊さんたちを相手に行なった講義の書籍化、である。
まず、著者のような人を呼んで話を聞いてみようという、この臨済宗・相国寺派という宗派が面白い。でも読んでみると、お坊さんたちとはいえ(というのも失礼なんだが)、現時点の世界情勢から他宗教のことまで、突っ込んだ質問をあれこれと繰り広げていて、その守備範囲の広さには恐れ入る。

構成としては、大きく4章からなっている。
 第一講:キリスト教、イスラーム教、そして仏教
 第二講:「救われる」とは何か
 第三講:宗教から民族が見える
 第四講:すべては死から始まる

両親の宗教的バックグラウンドからはじまって、全体としてはあんまり論理的な展開とはいえないものの、話題は古今東西あちこちへと広がる。興味深いエピソードが満載で、終始ひきつけられた。
ただ、参考文献など情報の出どころが明確にはされていないところが多々あるので、独自にトレースしようとするのは難しいかな。それでも、著者独特のロジックによる話の展開は説得的で、腑に落ちるところが多いのもたしか。

第一講の冒頭で、「一神教は不寛容で多神教は寛容」は本当か? とあってこんなことが書かれている。

…本来、一神教というのは寛容なんです。それは、無関心に基づく寛容です。神様と自分との関係において自分だけが救われればいいと考えているわけですから。他人が何を信じているかということには関心が向かないんです。(p37)

その一方で多神教たる仏教はどうなのかというと、

…スリランカの内戦はどう見たらいいのか。双方とも多神教のヒンドゥー教と仏教徒ではないですが。あるいはタイの暴動は、これも仏教徒が行なっていることです。特定の宗教が寛容であるとか、特定の宗教が強権的であるというレッテルを貼ることは、実証的に見ればすぐに否定される意味のないことです。しかし、そういうことが流通してしまうんですね。重要なのは、相互理解の前提として、相手の側の内在的な論理をつかむことだと思います。(p39)

この「相手の側の内在的な論理をつかむ」というのは、著者の本を読んでいると繰り返しでてくるフレーズである。それこそ、言うは易く行なうは難し、ではあるけども。

いろいろとメモしておきたいところがある本だったけど、いちばん印象に残ったのは、最後で言われている「中間団体こそ民主主義の砦」という部分かな。
モンテスキューの『法の精神』(岩波文庫で全3巻)、とりわけ下巻が重要だとして、民主主義を担保するのは個人の人権ではなくて中間団体だとモンテスキューは考えていた、と著者は言う。
では、中間団体とは何か。それがどう役割を果たすのか。

…国家と個人の間にあるもので、自分のためにだけ働いているのではなく、国家の代表でもない、ギルドや教会のような組織や団体のことです。自己完結していて、自分たちの生きる糧は自分たちでつくり出している、あるいは畑を持って農業をやって自給できる、あるいは檀家の布施やネットワークをつくって自立している、国家と構えても、基本的に自分たちの助け合いのネットワークでやっていくことができるような組織のことです。
 こういう組織がいくつもあることによって、民主主義は担保されるのです。近代になると、人間は一人一人がばらばらの存在になってしまって、個人が国家と直結してしまいます。そういう形になると、国民の権利も守れないし、中間団体というものの場所がなくなります。国家は本質的に中間団体が嫌いで、国家に依存するような個人が好きなんです。モンテスキューはそのことを喝破しているのです。(p255-256)

言われてみればフーンというくらいの主張なのかもしれないけれど、「中間団体こそ民主主義の砦」なんていうセリフは、この本で初めて見た気がする。

かなり偏った紹介になったけれども、興味深い本ではある。
by t-mkM | 2015-02-17 00:45 | Trackback | Comments(0)


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