『新潮』4月号での「特別鼎談 浅田彰+中沢新一+東浩紀」

例によって、ちょっと前にでた雑誌から。

先日、図書館で借りてきた『新潮』2015年4月号に、「現代思想の使命」と題した標記の鼎談が載っていたので、読んでみた。
このメンツで対談というのは初めてらしいけど、どのテーマにも長ーいつっ込みを入れてくる浅田彰の疾走ぶりが目立つかな。以前、寝ながら対談していたようだけど、体調は戻ったのだろうか。

鼎談のなかで、浅田氏のスタンスをよく表しているのが、自身でも言ってる「マイルドなニヒリズム」。

浅田 人間は死ぬまで何かしようと足掻くべきなんだろうとは思うものの、ぼく自身はニーチェのいう「最後の人間」(末人)そのもので、世の中も自分も大したことはないし、そこそこ苦痛なく生きて死ねればそれでいい、ときどき少量の毒で暇つぶしができればいい、としか思えないし、多くの人に一定の生活水準が保証されれば幸か不幸かそういう人が増えるだろうと思っていた。それなら、再配分+承認ですむはずでしょう。しかし、どうやらそうはいかないらしい。でも、ぼくにはそこで命がけの闘争に身を投ずる人たちの心理がまったく理解できないんですよ。
(p100)

ということで、再配分とか承認というのも主要なテーマとして議論が進んでいく。このなかでは、中沢氏とともに、かつて「ニューアカ」と呼ばれた二人から、ピケティ本に対するニューアカからの批判といったものも出てくる。

それと、承認をめぐることでは、つぎの東氏の指摘は「そうだよなぁ」と思えた。

東 多文化主義のなかでマイノリティの承認をどのように捉えたらよいのかというのはむずかしい問題です。たとえば、ぼくの記憶では、90年代の前半まではゲイやクイアやLGBTの運動の重点はメインストリームの性的規範からずれることの肯定にあったように思うんです。つまり「普通」の問い直しに重点が置かれていた。ところが、いまやLGBTでも「普通に」結婚したいという言葉がメディアを賑わしている。それこそ、ゼクシィのような結婚産業の演出のもと、青山かどこかの結婚式場で男性同士でタキシード、あるいは女性同士でウェディングドレスを着て結婚してみんなに花を投げられたい、ということになっている。むろんそれはそれでいいのですが、マイノリティをいかに承認するかという時の「承認」のニュアンスが若干変わってきている感じがします。
(p104)

これを受けて浅田氏は、「現在の「承認」は、マジョリティに加えてやる、アゴラに入れて発言権を認めてやる、というニュアンスです。と言い、こう指摘する。

浅田 …公民権運動の一環としてLGBTが権利を主張するのは正しいとして、「そんな正しい市民になんかなりたくない、オイラ/アタイはあくまでクイア(変態)だ」というので「クイア」という言葉が出てきたわけでしょう。正しい市民として結婚式を挙げるなんて絶対に御免だ、クイアな存在としてアゴラの外でフーコーの言うようにマジョリティとは違う社会関係を発明していきたいんだ、と。(中略)...マジョリティが、そういう困った奴ら放置しておこう、存在は認めて棲み分けよう、というのが第二の承認かもしれませんね。
(p105)

メインのテーマは他にもいろいろあったけど、この辺にしておく。
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by t-mkM | 2015-04-28 01:16 | Trackback | Comments(0)
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