Mの日記@古本T「たまにはストレート・ノー・チェイサー」
2024-02-29T09:25:53+09:00
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ときどき古本屋「古本T」のMによる日記。
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◆ 鎌倉「ヒグラシ文庫」での常設棚 ← 2018/5/20で古本販売は終了しました。
2011年5月末より7年間、どうもありがとうございました。
(お店は変わらず、営業中。古本T以外の本の販売も継続中)
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最近の収穫
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若林恵・畑中章宏「『忘れられた日本人』をひらく」(黒鳥社、2023)
『忘れられた日本人』とは、もちろん宮本常一の代表的な著作であり、岩波文庫にも入っている。
宮本常一って、もちろん名前は知っているし、何をしたのかも漠然とはわかっているつもりではあったけど、この本を読んで民主主義とのつながりを認識させられた。まあ、目ウロコ、であったということ。
この本の意図として、著者の若林氏は「本書は、畑中章宏『宮本常一』と宇野重規『実験の民主主義』の副読本」ということを書いている。
で、アマゾンのページを見ると、その本も含めて3冊一緒に並んだ画像がある。
https://www.amazon.co.jp/%E3%80%8E%E5%BF%98%E3%82%8C%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%80%8F%E3%82%92%E3%81%B2%E3%82%89%E3%81%8F-%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E5%B8%B8%E4%B8%80%E3%81%A8%E3%80%8C%E4%B8%96%E9%96%93%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%83%87%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%BC-%E8%8B%A5%E6%9E%97%E6%81%B5/dp/4991126096
そのアマゾンのページにも、本書からいくつか引用があるけど、特に興味深かった箇所を、以下に写経しておく。
若林 …ソーシャルメディアが浸透し誰もが気軽に情報発信ができるようになっていくなか、「フェイクニュース」や「誤情報」の問題が長らく問題化しています。それに対する多くの論調は「真実」というものをもって偽情報や誤情報を調伏しなくてはならないとするものですが、個人的にはそれはまったく徒労ではないかと感じます。
それよりも、わたしたちの社会が、宮本常一が書いたような、ウソも本当も見分けがつかない、すべてが「噂」としてあるような、いわば中世的な無字社会に向かっていると考えたほうがいいのではないかと思おったりします。
畑中 この社会は無字社会に向かっていると。
若林 もちろん文字がなくなって、すべての人が非識字者に戻っていくようなことはないと思うのですが、ただ、例えば絵文字やInstagramやYoutube、あるいはポッドキャストといったものに見られる映像や音声による情報の交換が、文字による情報のやり取りの優位性をどんどん低下させているという状況になっているとは思います。ピエール・レヴィという人類学者は『ポストメディア人類学に向けてーー集合的知性』という本のなかで、こんなことを言っています。
相互作用なマルチメディアが明らかに提起しているのは、ロゴス中心主義の終焉という問題や、他のコミュニケーションの様式にたいして、なんらかの優位に立っている言説が格下げされるという問題である。(ピエール・レヴィ『ポストメディア人類学に向けてーー集合的知性』)
わたしはこれを、書き文字によって規定された文明が、そこから離脱し始めることとして理解していますが、これは逆に言えば、「真実」というものは、それが文字化・文書化されることによって担保されてきたということでもあるかと思います。デジタルメディアとインターネットの登場によって、その基盤が大きく崩れ始めているというのは、メディアの仕事をやっている身としても実際にリアリティがあります。
畑中 それはたとえばどういうところで感じます?
若林 わたしはポッドキャストで音声コンテンツをつくったりもしていますが、ポッドキャストというものがなぜ、特に海外で大きな趨勢になっているのかは、いまのところあまりうまい説明がないんですね。海外の状況などを見ると、若い世代がニュースを文字で読むのではなく音声で聴くことのほうに安らぎを感じるといったことが言われたりしますが、それを踏まえて思うのは、音声言語の処理というのは、文字言語との比較では、「真実らしさ」の感覚がまったく違うのだろうということです。
話し言葉は、定着するということがないので、ふわっと漂っていきますよね。しかも、それが自分の頭のなかの声だったり誰か別の人が語っていた別の声だったりと、重なってぐにゃぐにゃと不定形が、ある意味無時間的なものとして、自分のなかに残ります。そこには、おそらく確定的な「真実」のようなものが存在しないか、もしくは、あったとしても、それは文書化された真実とはまったく異なるのだと感じます。
(p130-134)
文字言語の地位低下に入れ替わるように、音声や映像配信の急速な普及とフェイクニュースの蔓延がある、と。
この視点での言及は、はじめて読んだ気がする。
若林氏の活動には、今後も注目していきたい。
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『思想』2024年1月号 磯崎新 から
http://tmasasa.exblog.jp/33685375/
2024-02-16T01:46:00+09:00
2024-02-16T10:49:59+09:00
2024-02-16T10:49:59+09:00
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この号では「磯崎新」が特集されている。
巻頭にある「思想の言葉」は、劇団主宰で演出家の鈴木忠志が書いていて、1978年に岩波ホールで行われた公演『バッコスの信女』に寄せた磯崎新の文章に驚かされたとのことで、”今でも鮮明に思い出す”と書いている。
で、その文章を引いておく。
私の鈴木忠志にたいするシンパシーは、彼が演劇のありとあらゆる様式を、廃墟とみたてて、その残骸である形式をひろいあつめ、独自の組み合わせのなかから、演劇が発生以来ただひとつの本質として所有してきた「劇的なるもの」の構築をこころみていることである。これはあるいは私の現代建築の置かれた状況への対応からの類推かも知れないが、定型化した個別の様式をささえる序列が解体してしまったという状況認識は、すぐれて今日的であるようにみえる。とすれば、様式の廃墟と渡り合うことだけが残されているとみてもいい。その具体化は、複合や折衷、本歌取りや地口やブリコラージュと、多様な手法としてあらわれているが、鈴木忠志は、それを演劇の領域において、もっとも明確に意識化して独自の世界をつくりつづけているといえるだろう。(後略)
(p2-3)
この号には他にもさまざまな論考、論文が掲載されているが、目次を見て個人的に興味を惹かれたのは、
「磯崎新と1950年代サークル運動・文化運動の接点」町村悠香(p62-72)
という論文。
サブタイトルとして、「リアリズムの系譜から読み直す戦後美術史・建築史の可能性」とある。
ここで、「1950年代サークル運動ってなに?」という方にいるでしょうし、ワタクシも説明しにくいので、この著者による説明を引くと、以下のようになる。
ここでいう「サークル」とは、戦後の民主主義社会を自らの手で作り上げようとした草の根の文化運動を担った集団である。当時の共産党は分裂状態にあったものの影響力は非常に大きく、1950年代前半の共産党主流派(所感派)の文化方針に影響を受けた知識人や学生が、民衆のなかへ分け入りサークル結成を促したり、労働者、農民、学生、地域の人々が党の方針に共鳴してサークル活動を行ったりする事例は少なくなかった。2000年代から「サークル運動」をめぐって思想、歴史学、文学、社会学などで研究が学際的に進展した。戦後美術史研究は、こうした成果を学びとり周縁化されたリアリズム美術の系譜を位置付け直す途上にあり、筆者は民衆版画運動の研究を通じてこの歴史の読み直しに寄与しようとしている。
(p62-63)
それで、つづけて、
…磯崎新の1950年代前半の経験に注目する意義として、以下の2点を指摘したい。ひとつは、磯崎にとって1950年代前半の文化運動の経験は「敗戦」「廃墟」とリンクしていたと考えらることだ。
(p63)
として、磯崎の初の著作集『空間へ』(美術出版社、1971年)に掲載された「年代記的ノート」から引用している。
そして、その意義のもうひとつは、
磯崎の1950年代に着目するもうひとつの意義は、彼の体験を追うことで戦後の建築史を美術史の双方でこれまであまり検証されてこなかった、社会主義リアリズムの影響を辿ることができる点だ。
(p64)
として、ここから論考が展開されていく。
以降の詳しいところは、『思想』2024年1月号を当たっていただく他ないけど、こんな研究をされている方がいるんだなぁ。
挙げられている参考文献など、ちょっと漁ってみようかと思わされたので、以上、メモ的に書いた次第。
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自炊者になれるのか
http://tmasasa.exblog.jp/33675587/
2024-02-07T01:55:00+09:00
2024-02-07T11:04:06+09:00
2024-02-07T11:04:06+09:00
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『自炊者になるための26週』三浦哲哉(朝日出版社、2023)
以下はアマゾンに載っている、本書の「料理したくなる料理」からの文章のコピペ(一部)。
https://www.amazon.co.jp/自炊者になるための26週-三浦哲哉/dp/4255013608
本書は自炊の入門書です。
提示しようとしているのは、料理したくなる料理です。
レシピを覚えたり、技術を学んだりする以前に、料理したくなるのでなければ、そもそも自 炊は始まりません。始まったとしても、楽しめず、つづけるのがむずかしくなります。
本書は、どうすれば料理したくなるかについて考え、一緒にその答えを探ってゆきます。
料理したくなる料理とは何かを理解し、楽しく自炊しつづけるようになることが目標です。
大きな方針をお伝えします。
「風味の魅力が私たちを動かし、料理したくさせる最大の動機である。本書はそう考えます。「風味の魅力」とは何か。それが本書の問いです。(…)
「風味の魅力」についての理解を深めながら、それを最大限に楽しむことのできる料理の作り方を、なるべく簡単なものから順番に、テーマごとにお伝えしてゆくのが、本書の構成の特長です。あわせて、日々の台所での作業を快適に進めるための方法を、ステップごとに示します。
料理をすることにまだ興味が持てないという方に、この本を読んでほしいと思います。読んでいただければ、料理の何が楽しいのかを理解していただけるでしょう。
(以下略)
ここで言われる「風味」、この「風味」こそが自炊をする、つまり料理をし続けていくための最大の動機づけになる、とのこと。
そう言われても、よく分からないかとは思うけど、読んでいると「なるほど」と思わされる。
ここで本書の目次を挙げておくと、こんな感じ。
(これは紀伊国屋書店のwebサイトから。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784255013602)
目次
においの際立ち
においを食べる
風味イメージ
セブンにもサイゼリヤにもない風味
基礎調味料
買い物
蒸す
焼く
煮る
揚げる、切る
動線と片付け
カイロモン
日本酒
ワイン
青魚
白身魚など
1+1
混ぜる
春夏の定番レシピ
秋冬の定番レシピ
乾物
発酵
うつわとスタイル
ファーム・トゥ・テーブルとギアチェンジ
索引と徴候
家事と環境
このうち、「基礎調味料」までの最初の6章、ここに自炊を続けていく(いける)ようになるためのメッセージが詰まっている。
また、この後に続く「蒸す」「焼く」といった、料理の具体例を解説する章も興味深い。何せ、通常の料理本だと当然あるような写真、イラストの説明、レシピの列挙、等々は全くない。途中に挟まれるのは、ワタナベケンイチ氏によるシンプルな挿画のみ。あとは文字、文章だけだ。
…どんなささやかなものであっても、感動がなければ、手を動かそうという気にはならないものです。感動があり、それが面倒を上回ること。自炊を成立させる定式は、「感動>面倒」です。これをたえず念頭に置いていただきたいです。では、どうすればこの定式を成り立たせられるのか。風味がその最大の鍵を握っているというのが本書の考えです。風味はいわば心の燃料です。だから、風味の魅力を最重視するのです。
(本書、p60-61)
読んでいると、つねにこの「風味」の魅力に立ちもどって自炊の感動を確認しつつ、進んでいく。26週(半年だ)、それを続けていけば、たしかに自炊者になれるかも、と思わせる。
…で、こちらは自炊者では無いけど、酒飲みではあるので、目次でいうと「日本酒」「ワイン」に目が行く。その中の一節。
つぎのような、ほとんど一瞬でできてしまう料理を頭に思い浮かべてみてください。きゅうりの塩もみ。薄く切ったこんにゃくをフライパンで軽く炒りつけて、しょうゆを少しまぶしたやつ。油揚げを網に乗せて炙り、七味唐辛子をかけたやつ。単体ならば、おいしくはあれども、そこまでの感動を呼びはしないでしょう。
ところがその横に、飽きのこない穏やかな味わいの日本酒が、絶妙にお燗をされて出されていたら。単なる平凡なきゅうりだったもの、こんにゃくだったもの、油揚げだったものが、とたんにものすごく好ましい何かに変わります。
(p162)
うん、うん、そうだよなぁ。
だから、日本酒は(ワイン、ビール、などなども…)やめられない。
とはいえ、本書を読んでもなお、自炊者になるにはまだまだだなとも感じてしまうけど、得るところは多々あった。
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直接行動とは
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2023-12-07T01:46:00+09:00
2023-12-07T07:56:53+09:00
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『直接行動の想像力 社会運動史研究5』大野光明・小杉亮子・松井隆志 編(新曜社、2023)
最初のほうに「座談会 運動史から考える直接行動」が掲載されていて、参加者は以下。
阿部小涼+酒井隆史+大野光明・小杉亮子・松井隆志
以前、暴力に関する酒井隆史氏の著作が印象にあったので、読んだけど、この座談会も知らないことは多く、興味深い議論が多々あった。
目に止まった酒井隆史氏の発言を以下に写経しておく。
いっぽう2010年代で気になっていたことの一つが、運動とデモがあまりにも結びつけられ論じられていたことです。デモは運動のごく一部にすぎない。普段のビラ刷り、ビラまき、会議、クラス入り、討論とかがあって、たまにデモがある。デモ=運動という語られ方について、運動の幅の切り縮めが気になっていた。
(p19)
阿部さんの言われるように、大衆の抗議行動に関する議論は、そもそも国連をはじめとする諸機関-ー多様ではありますが、各国の司法体制を含む諸機関ですらも-ーですでに前提とされる規範、あるいは争点そのものが、日本ではあまり分節されていないという問題があります。抗議行動と権利、違反と正当性をめぐる、論争空間がまるごと排除されているように思えます。そもそも「直接行動」とは厳密な意味では区別される「市民的抵抗」ですら、違法行為を前提とすること、それを踏まえて正当性が争われるのは、権威主義的体制、独裁体制は別として、基本的に国際的常識だと思います。ところが日本では、とりわけ代用監獄システムをはじめとする抑圧体制もあいまって、こうした大衆的抗議行動の幅そのものがきわめて制約されています。しかも、制約されていることにすら気がつかないような空間になっているのです。
(p21)
逃げることの自由、抜けることの自由、離脱することの自由は、あらゆる自由や自律の基盤ですよね。
(p23)
まず理念、運動と抗議行動一般と事実のあいだの峻別をしなければなりません。私たちはここでは研究者として集まっているわけですし。ケースが何度も述べているように、暴動というのはある。大衆は蜂起する。これは揺るがし難い事実問題です。誰かが戦略を立てて運動を組織するというものじゃなくて、暴動はある。フーコーがイラン革命をめぐって言っていたように、大衆は反乱する。知識人はそれに対していつも遅れるし、活動家も遅れる。
(p28)
問題提起的にくり返しておきたいのですが、2010年代以降、気なるのが民衆蔑視の傾向です。左派はリベラル化し、ますます無意識化された民衆蔑視が蔓延したと思っています。
この社会に差別があるのは社会構造的に当然で、知識人にも活動家にもある。だから、民衆にもそのようなものがあるのは当たり前なのですが、それでも、どこにだってそれを解体する契機はある。かつての民衆史は差別や暴力を解体する契機に着目していました。また、現在のアナキストの運動は、民衆のつくる差別や暴力を解体する契機や局面を重視し、そこに依拠しながら、いま・ここに新しい世界を構築しようとしてきたわけですよね。2010年代以降の日本の言説は、民衆は暴力的、差別的であるというイメージを前提にしてしまっていて、やばいなと思う。
(p33)
…なぜ内ゲバが激化するかというと、国家暴力を模倣しようとするからです。国家暴力を解体しようとせず、国家の主体をすげ替える枠組みでやっているからです。そもそもヒエラルキーを維持する社会を解体していくというビジョンと結びついていなければ、暴力の行使はそうなってしまう。
(p35)
日本で反原発運動が盛り上がり、世界の動きと一見して同じに見えたのですが、原発問題を「日本の問題」にできてしまい、内閉していったと考えています。人びとの関心は連動してよいはずの気候変動などにはほとんど向かわなかった。世界では互いに学び合い、完全に麻痺している議会制に対して新しい闘争形態を模索していたのに、日本だけが旧態依然とした議会主義にどんどん収斂していった。言説レベルでもそのような動向を批判できなかった。そもそも批判的議論のできる基盤が貧しくなっていった。
(p38)
日本で運動的な基盤が希薄になっているのはしょうがない。それでも、あちこちに分散している動きはあるじゃない。それらにどうやって言葉やイメージを与えるかが重要だと思う。イメージというのは見栄えを良くするという話ではなく、どういう概念で、何を言うかということです。というのも、いまの資本主義社会はもう物質的基盤がなくて、資本主義によって世の中が良くなるなんていえない状況になり、ますます精神論になってきていると思う。だから、あんな膨大な金を投じて、プチスターの右派メディア知識人が続々と現れ、世論操作が行われている。支配層はすごい危機感をもっている。
(p39)
これ以外に掲載の諸論考も、いろいろ参考になるところがあり、面白かった。
なお、本書の表紙は「A3BC:反戦・反核・版画コレクティブ」というグループ?の作品が使われているのだけど、内容ともあいまって、いい表紙だと思った。
彼らのサイトは以下。
https://a3bcollective.org/
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『ハンチバック』のインパクト
http://tmasasa.exblog.jp/33558355/
2023-11-29T02:06:00+09:00
2023-11-29T15:09:04+09:00
2023-11-29T15:09:04+09:00
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『ハンチバック』市川沙央(『文藝春秋』2023年9月号所収)
2段組とはいえ、全文36ページなので、そう時間かからずに読める。
著者ご自身が障害者でもあることから、すでに各方面で話題にもなっていて、それらをいくつか見かけてもいる。
で、改めて小説を読んで、いやまあ、絶賛にも近い状況となっていることについて、もさもありなん、と思った。強烈なインパクトである。
扱われている事柄も、その具体的な描写も、主人公が周囲を見ている目線、そして内面のありようも、全くもってなかなかにすごい。
…”すごい”というのも舌足らずではあるのだけど、ちょっと言葉が見つからない感じ。
芥川賞の選考委員である吉田修一が、この小説を「とにかく小説が強い」と評していたけど、まさしくその通りで。
一方、他の選考委員では(少数だけど)異論もあって、松浦寿輝は、
…複雑な層をなしているはずの主人公の心象の、いちばん激しい部分を極端に誇張する露悪的表現の連鎖には辟易としなくもない。この辟易感は文学的な感動とはやはり少々異質なものではないか。
と書いていたけど、この感じもまあ分かる。
とはいえ、各選考委員も揃って評価しているとおり、そういう”辟易感”をも超えて、読み手の内部を抉るかのようなインパクトがあることも明確ではないか。
なお、受賞者インタビューのなかで、著者はこんなことも言っている。
— 読書だけでなく「書く」ことにもマチズモを感じることもありますか?
市川 これはあります。そもそも西洋由来の理性主義は、ものを考えて発信することを人間の基本としていますが、私はそれは人間の定義として狭すぎると思う。人間から生まれて人間の総体の一部を成すものは人間なんです。ものを考えなくても、喋れなくても、書けなくても。しかしこの社会は、読むこと、書くこと、話すことを基礎として出来上がっている。話せる人、書ける人の言葉が影響力を持ってしまう。だから重度心身障害者の大量虐殺のようなことが起きるんです。書くことの神聖視は理性主義を強化してしまう一面があるので、私は好きではありません。
(『文藝春秋』2023年9月号、p222)
著者の次作が楽しみだ。
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『日本の歪み』を読む
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2023-11-16T02:43:00+09:00
2023-11-16T12:47:56+09:00
2023-11-16T12:47:56+09:00
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『日本の歪み』養老孟司 x 茂木健一郎 x 東浩紀(講談社現代新書、2023)
いろいろと興味深い箇所があったのだけれど、印象に残っているところを、少し長くなるが写経した。
日本語は事実確認に向いていない
養老 言葉は社会を規定できるか、というのが憲法問題の根底にあるという話をしてきましたが、言葉の問題についてもう少し掘り下げて話してみたいと思います。
昆虫の分類をやっていると、ここがどうなっているとか、いちいち言葉で書かなくてはいけません。(中略)解剖学でも分類学でも、根本的に問題はどう言語化するかです。
なぜかといえば、ヨーロッパの学問は、物と言語の結び付きが強いからです。裁判でも欧米は証言主義で、何を言ったかが証拠になるから、弁護士は余計なことを喋るなと言う。逆に日本は心情主義で、その人がどう思っているかが重要になる。
「事実」「言葉」「言葉を使う人」の三つがあるとしたら、日本の場合は「言葉」と「言葉を使う人」の関節が硬いけど、欧米では「事実」と「言葉」の関節が硬い。「事実」と「言葉」の関節が硬いからこそ、法律にも公文書にも意味があるわけです。でもそこがずるずるな日本では、公文書もクソもないから、そんなものはどっかいってもおかしくない。
(後略)
東 今のお話を哲学的な言葉に引きつけて言うと、言葉には「事実確認的機能」と「行為遂行的機能」があると言われます。そこで日本語では「行為遂行的機能」がとても強い、だからだから事実確認の言葉として使いにくい、ということだと思います。
言葉と現実がどう結びつくかというさきほどまでの話とも関係しますが、日本語では言文一致もあまりうまくいっていません。外国の学会では講演原稿を作って読み上げることがあります。でも日本語でそれをやると「原稿を読み上げている講演」になってしまって、聞き手の理解を阻害してしまう。これは話しての技術の問題ではなく、じつは言葉そのものの問題なんですよ。
多くの人があまり意識していないのですが、日本語は、書く言葉と話す言葉にかなり明確な違いがあります。「だ、である」「です、ます」の違いもその一例ですが、それ以上に語彙も違う。耳で聞いても理解できないけれど、読んだらわかるという言葉がたくさんある。プレゼンやスピーチが苦手な人が多いのはそれが理由だと思います。明治以降の日本語の標準化のプロセスで、何か失敗したように思います。
養老 日本は昔から「読み書きそろばん」ですから。つまり、「読み書き」が日本語であって、お喋りは入っていない。ところが古代ギリシャでは、ソフィストという、弁論術を教えることを仕事にしている人たちがいた。そのくらい話すことに対する考え方が違いますね。日本でそんなことしようとしたら、「お前、落語家にでもなるのか」で終わってしまう。
東 たしかに「話す」のを職業にするというと、落語をやるくらいの受け取られ方をしますよね。いまは弁論術イコール論破みたいに受け取られてしまっていますが、本来は話す技術とは、聞く技術でもあります。だから、話す技術が教えられていない日本人は必然的に聞く技術もなくて、インタビューもすごく苦手なように思います。
僕はゲンロンカフェを10年以上やって、たくさんの人の話を聞いてきましたが、そこで気付いたのは、日本のアカデミシャンは聞く力が弱いということです。自分の主張ばかりする。話し相手がいつも生徒や同僚なので、自分の研究の内容を「教える」という関係しか持ったことがなく、対等な対話の訓練を受けていないように思います。このことと養老さんのお話はすごくかかわっている。
厳密には異なるのですが、さきほど述べた「事実確認的な言葉」と「行為遂行的な言葉」の違いは、「書く」と「話す」の違いに重なるところがあります。話すことには必ず発話者がいます。話を聞いているときは、発話者が目のまえにいる。けれども書くことは逆に発話者を消すものです。日本語で言文一致がうまくいっていないのは、この二つの用途の言葉が別々に発達しているためだと思うんですよね。「目の前の人間に対して話し言葉で客観的なことを伝える」というのができない。だから僕は、書く日本語と話す日本語が違うことを教育課程できちんと教えるべきだと、昔から思っています。しゃべるように書いてはだめだし、書いたまましゃべってはだめなんです。意識的に使い分けられるようになると、みんなもっと日本語がうまくなるはずです。
(中略)
東 …日本語は第三人称を作れていないという話になる。客観的記述に向いた日本語が作れていない。
茂木 どういうことですか?
東 日本語の張り紙って文章が長いですよね。「No Smoking」で済むことが、「ここでは煙草はご遠慮ください」になる。「ここは禁煙である」と書くことが失礼に当たるように感じてしまうからです。事実をそのまま述べると失礼になるというのはすごく変なのですが、日本語ではそういう感覚がある。それはつまり、日本語では「事実確認的な言葉」も「行為遂行的な言葉」として受け取られがちだということです。ツイッター(現X)なんかでも、「AはBである」と言うと「そういう断言はいかがなものか」という批判が返ってくることがあるでしょう。「AがBであることが事実稼働か」ではなく、単に言い方がよくないというリプライが来ちゃう。そういうことがすごく多い。つまり、日本語には「AはBである」とだけ淡々と書く言葉の形がないんですよ。でも、「ここは禁煙である」と書いたらおかしいということが、本当はおかしい。
養老 明治はそれを漢文にしてなんとかしましたね。
東 おっしゃる通りで、伝統的にはそういうものは漢文にアウトソースしていたのだと思います。「煙草は吸うな」はダメでも「禁煙」は許された。それが「禁煙」だけでも失礼だということになり、どんどんぼんやりとした表現になっていった。
これは、日本語話者のほとんどが日本語ネイティブであることにも関係していると思います。皆が細かい差異に敏感で、イントネーションや語尾などに過剰なメッセージを読み取りがちです。日本語の張り紙に併記されている英語表記がしばしばPleaseから始まる奇妙な文になりがちなのも、「ご遠慮くださいませ」みたいなニュアンスを無理に直訳しようとしてしまうからでしょう。
(以上、p133~138)
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最近の雑誌から
http://tmasasa.exblog.jp/33439791/
2023-09-12T01:42:00+09:00
2023-09-12T07:49:14+09:00
2023-09-12T07:48:41+09:00
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これが紙媒体では最終号となるようだ...
近年の雑誌の中では、充実した論説等が載る数少ない「紙の雑誌」だと感じていただけに、たいへん残念である。
で、その中から、目に止まった箇所をピックアップ。
「忘れる、繰り返す、変化する」藤山直樹 から
…東京の江戸前の鮨屋には圧倒的に「おまかせ」のスタイルが隆盛している。基本的に予約制で、座ったら客は飲み物だけを注文する。すると、何品かの抓みがでて、そのあと鮨が供され、最後に巻物で玉子で一通り、ということになる。昔からあった江戸前の鮨のシステム、すなわち「お好み」のスタイルは、とにかく客が食べたいものを言えば親方が出してくれる、というシステムだ。抓みを食べずにいきなり握ってもらってもいいし、おいしいと思えば何貫か同じネタを握ってもらってもいい。つまり親方は客の注文に合わせて仕事をする。それに対し、「おまかせ」では親方は自分のペースで抓みと鮨を出していけばいいので接客がずいぶん楽になる。しかも、人数分の食材を仕入れておけばいいので食材の無駄が省ける。一方、客は好きなものを食べたいだけ食べる自由が奪われるのだが、食材の無駄が少ない分、払う金が少なくなることが期待できる。また、接客やデートが目的で鮨屋に行く客にとっては、次に何を食べるか考えることなく、自動的に鮨が出てくるほうが都合がよいかもしれない。
(中略)
そうした「おまかせ」の店では、抓みがどんどん洗練されてきた。店がそれぞれ差異化に向けて努力しているのは言うまでもないが、この二十年、日本酒が飛躍的に洗練され、細かな差異を競いながら進化してきたことに影響されてもいるだろう。昔ながらの鮨屋が、握りの前にちょっと飲みたければ、白身でも切ってよ、とか、蛸切ってよ、とか注文して、あとはすぐに握ってもらう場所であったのに対し、いま流行りの「おまかせ」タイプの店は凝った抓みを何品も食べてからいよいよ鮨になる場所である。お酒が好きな人にとってはたまらないかもしれないし、ひとつの方向としてはありだろう。だが、ほとんどの店がその方向を向いているのが、ちょっと奇妙な気もする。
「おまかせ」のシステムの、抓みに凝った店は結局値段が高くなる傾向にある。実際、魚は全体的に高くなっている。「おまかせ」で食べて日本酒を一、二合飲むだけで三万を超えるのは当たり前だし、四万を超えることも珍しくない。「おまかせ」の客とってのメリットが、食材の無駄を減らすことで払う金の減少につながることだったはずなのに、なんだか納得がいかない。
(中略)
昔、私が鮨というものを意識的に食べはじめた頃によく通った鮨屋の親方たちは、うちは寿司屋であって、飲み屋ではない、というようなことを言っていた気がする。たしかにあの頃の日本酒といまの日本酒を比べたら、全く別物と言っていいほどの洗練を遂げているから、鮨屋のうまい魚で酒を飲むことを目的とする人がいても不思議ではない。でもやはり、鮨屋は飲み屋ではないというあの親方たちの言葉は、いまも私のこころのなかで響いている。
(p73-74)
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「国家」の再生とMMT
http://tmasasa.exblog.jp/33424781/
2023-09-05T01:49:00+09:00
2023-09-05T08:54:36+09:00
2023-09-05T08:54:36+09:00
t-mkM
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『ポスト新自由主義と「国家」の再生』ウィリアム・ミッチェル+トマス・ファシ /
中山智香子 監訳、鈴木正徳 訳(白水社、2023)
副題に「左派が主権を取り戻すとき」とあるので、スタンスのはっきりした著書、と言うことは分かる。第一著者はMMT(現代貨幣理論)の提唱者の一人。
本文だけでも370ページほどのボリュームで、経済学のシロウトにはなかなか歯応えのある内容でもあり、手短かに紹介するのはちょっとしんどいので、監訳者の中山氏によるあとがきを手がかりに、以下、まとめてみる。
本書は第1部(第1章から第6章)と第2部(第7章から第10章)からなる。本書の意義は、MMTが必ずしも一枚岩ではないこと、またMMTが特にイギリス、フランスなどEU地域の新自由主義の台頭と展開の歴史に即して考察を行い、MMTが現代のグローバル世界の文脈において意味を持つこと示した点にある。
特に第1部で論じられるのは、国家が本来は人々の暮らしや権利、デモクラシーを守るための枠組であるにもかかわらず、1970年代前後から資本やそれを操る富裕層に収奪され、国家がグローバリゼーションを隠れ蓑に資本に従属してきた歴史である。これがケイインズ主義的政策を変質、衰退させた新自由主義の正体とする。それに対し、さまざまな思想を援用して新自由主義を批判的に考察し、社会公正や社会生態学的転換をめざす進歩的で解放的な国家主権のヴィジョンの再生をめざす。そこで、通貨主権を有する政府の能力を正しく理解することは、その必要条件の根幹である。
(p370~371の文章を元に、自己流でまとめてみた)
…、とまあこんな感じ。
MMTというのが、うまく紹介しにくいのだが、比較的分かりやすく書かれている部分を以下に引いておく。
現代の通貨は、政府が貴金属との交換を約束していないため、法定不換通貨と呼ばれる。(中略)その価値は「命令」によって宣言される。つまり、政府は、ある硬貨の価値は例えば50セントだと発表するだけでよく、50セントの価値に相当する貴金属の準備を保有している必要はない。その結果、自国通貨を発行する政府は、もはや自らの支出を「賄う」必要はない。技術的には、必要な資金を「無」から生み出すことができる。こうした政府は、システム内の流動性の水準が金準備などによって制限されていないため、租税や民間部門への国債売却を通じて自らの支出を「賄う」必要はないのである。言い換えれば、政府はブレトン・ウッズ体制下では存在していた収入の制約を受けない。現実には、オーストラリア、イギリス、日本、アメリカのような通貨発行国の政府は、「資金不足に陥る」ことや支出不能に陥ることはない。これらの政府は常に、自国通貨で支出する無制限の能力がある。つまり、自国通貨建てで売られる財やサービスがある限り、政府は何でも好きなものを買うことができる。少なくとも、遊休労働力をすべて購入し、生産的用途に戻すことができる。
(p252)
本書の第8章は、MMT入門の章で、上記の引用もそこからだけど、他にも第9章では”ジョブ・ギャランティ”という仕組みが紹介されており、それはいわゆる”ベーシック・インカム”よりも優れている点が説明される。
本書は、最後の「結論 国家へ回帰せよ」で、こんなふうに結ばれる。
今日、右派が勝利しているのは、国家主権を移民排斥主義的、ナショナリズム的、さらには人種差別的な言葉で定義する、集合的アイデンティティの強力な物語を紡ぐことができているからでもある。したがって、進歩主義者は、帰属意識や連帯感に対する人間の欲求を認識した、同じように強力な物語や枠組みを提供できなければならない。その意味で、国民主権の進歩的ビジョンは、文化的・民族的に均質化された社会ではなく、(中略)国民が「民主的な保護、民衆支配、地方自治、集合財、平等主義的伝統」に避難できる場所として、国民のための国家を再構築し再定義することを目指すべきである。これは、相互に依存しながらも独立した主権国家を基礎とする、新たな国際(主義)的世界秩序を構築するための必要条件でもある。
(p368)
類書とも比較して読んで、もう少し勉強してみたい。
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「芸術史」における伏流水たるアナキズム
http://tmasasa.exblog.jp/33414672/
2023-09-01T01:31:00+09:00
2023-09-01T08:36:56+09:00
2023-09-01T08:36:56+09:00
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『アナキズム美術史』足立元(平凡社、2023)
副題に「日本の前衛芸術と社会思想」とある。
480ページ近いボリュームで、本文に限っても430ページほどあるんだけど、図版も(小さくてモノクロだけど)ふんだんに盛り込まれており、わりとサクサク読んでいける。
どんな本なのか? 最後の「結」で書かれてあるところを以下に引く。
本書『アナキズム美術史』は、拙著『前衛の遺伝子 アナキズムから戦後美術へ』(ブリュッケ、2012)を、加筆修正して復刊するものである。
本書のテーマを簡単に述べると、今日の世界的なアートにおける社会的・政治的な側面について、その先駆と減衰を日本近代美術史の内に見出し、明らかにすることである。いわゆる社会派的な現代アートは、決して戦後から始まったのではなく、日本の近代において始まっていた。その起源と忘却と伏流水のように流れるものを、作品や文献資料から捉えることを試みたのが本書である。
この歴史の出発点であり中心となるのが、アナキズム思想である。ただ、後でも述べるように、歴史のなかで決定的なのはアナキズムの純粋で理想的なあり方ではなく、むしろアナキズムを様々に否定・拡張する営みであった。
(p429)
そして、ちょっと飛んで「結」の終わり部分でこうも書いてある。
「アナキズム」に関しては、たしかに本書ではそれを出発点とし、その歴史を重視している。だが、大杉栄がそれを「どうかすると少々厭になる」というように、単純にアナキズム万歳を訴えているわけではない。むしろ本書では、アナキズムが敗れて伏流水となり、見えなくなっていく有様を描くところが大部分を占める。「美術史」に関しては、本書ではむしろ絵画や彫刻といった「美術」の枠をはみ出したものに注目し、むしろ多領域をまたいだ「芸術史」を標榜している。
(p432)
で、最後にはこう結ばれる。
現在の、成功や経済効果ばかりを喧伝するアートとその旗振りにはうんざりだ。権力や流行へは批判的に、無名でも地味でも貧乏でもいい、社会的な意識があっても硬直したイデオロギーからは自由に、たとえ失敗しても何かを残す。そのような表現をしたい、見たいという人々と、本書が描く歴史の物語を分かち合いたい。
(p433)
たまたま見かけて読んだ本だが、全編にわたって興味深く読んだ。
中でも、
「第2章:大正アナキズムの芸術運動ーー望月桂と黒耀会の人々」
「第6章:大東亜モダニズム建築」
「第7章:占領期の前衛芸術をめぐる統制と分裂」
そしてこの復刊で追加された「第10章:超克と回帰ーープロレタリア美術運動から日本美術会へ」
などが印象に残ったかな。
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エビデンス? 数字は? その意見は客観的? という思考に抗するために
http://tmasasa.exblog.jp/33384939/
2023-08-10T01:14:00+09:00
2023-08-10T08:17:59+09:00
2023-08-10T08:17:59+09:00
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『客観性の落とし穴』村上靖彦(ちくまプリマー新書、2023)
当初、このタイトルから、「異なる角度や別の視点から”客観性”の問題を探り、その”落とし穴”を指摘、分析する」ような本かな、と思っていたら、まったく違う場所へ連れて行かれた、そんな感じ。
あとがきで著者も、
本書は「私にとっての現象学入門」とも言うべき性格を持つことにもなった。
と書いていて、たしかにそんなふうにも読める。
前半と後半でトーンが全く異なるのだけど、とりわけ、後半の第7章において、”現象学入門”的な箇所があるので、いくつか抜書き。
客観とは異なる視点、<経験の内側に視点を取る思考法>をここから提案していきたい。ただし、この「経験の内側」とは、いくつかの理由で「主観」ということではない。
一つ目の理由は、これは自分自身についてだけでなく、他の人の経験についてもその人の位置から出発して記述する方法だからである。他者を客体化するのではなく、しかも他者に共感や感情移入するのとも異なる仕方で、他者の経験についてもその人の視点の内側から個別的に記述していく。
二つ目は、この方法は、心のなかという意味での主観を描くのはないからである。ある人の経験は、他の人との交流や葛藤、どこからか降りかかる出来事や、社会、経済、歴史が複雑に絡み合った状況のなかで生じる。誰かの経験は、その人の心のなかに閉じこめることができない。経験の内側に視点をとることは、対人関係や社会、歴史のからみ合いの拡がりを描き出す試みでもあるのだ。
<経験の内側に視点を取る思考法>は、私たち一人ひとりの経験の個別性と重さを重要視する。たとえば、病や障害、被差別の当事者の経験、そして苦境にある人をサポートするケアワーカーの実践は、苦しみや困難が一人ひとり異なる。それらは、個別の社会状況や人間関係のなかで生まれるものだ。そのため、客観的な診断名や職種名で一般化して議論することはできない繊細なディデールがある。この思考法はこのようなディデールを大切にするのだ。
(p135-136)
他者について言及しながら、他者に対して侵害にならないような言葉はどのようなものだろうか。これは非常に難しい問いである。「共感すれば良い」という人がいるかもしれないが、共感はそんなに簡単なものではない。感情移入は単なる思い込みかもしれない。相手の意図をゆがめ、カタルシスを手にすることで相手を消費してしまうことがある。共感は語り手の経験を色眼鏡で見てゆがめうるのである。では、どうすればよいのだろう。
他者を研究しつつ尊重するためには、次のような条件を満たす必要がある。
(1)語り手の言葉を、繰り返しや言い間違いなども含めて可能な限り尊重して再録する。そうすることでその人の身体性・個別性が保存される。
(2)語られた文脈を重視するため、ただ一人の人の語りを大きく引用しながら論文化する(複数の人の語りを断片的にトピックごとにまとめて引用することをしない)。
(3)語りのディデールを尊重した分析を行う(外部からの理論や概念図式から借りた説明をあてはめない)。
(4)分析する研究者自身がどのような社会的立場に立ち、語り手とどのような関係に立つのかを吟味する。
この四つの条件を満たす方法はいくつかあるだろうが、現象学もその一つである。
(p141-142)
個別の経験は、真理から切り離されているのだろうか。多数のなかの共通項や平均値とは異なるタイプの真理があるのではないだろうか。私は医療福祉現場で長年にわたって調査を行ってきて、実は経験の個別性がもつ真理は、他の誰にとっても真理であるのではないか、と感じている。弱い立場へと追いやられた人の経験はつねに意味を持って響いてくるからだ。ベンヤミンのいう「極端なものに由来する」「概念」は、倫理的な方向性を指し示している。つまり個別の経験が生む「概念」が、誰にとっても意味がある共通の「理念」として、倫理的「普遍」を指し示すのだ。
この倫理的な普遍は「人権」と呼ばれるものと重なることになる。個別的経験を尊重することは、あらゆる人を尊重することを意味する。誰も取り残されない世界を目指すということにつながるのだ。
(p148)
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ヘンリー・カウ、という”現象”をとおして70年代を感じる読書体験
http://tmasasa.exblog.jp/33377975/
2023-08-04T01:12:00+09:00
2023-08-04T07:15:49+09:00
2023-08-04T07:15:49+09:00
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『ヘンリー・カウ 世界とは問題である』ベンジャミン・ピケット/須川宗純(月曜社、2023)
以下は版元の紹介文から。
https://getsuyosha.jp/product/978-4-86503-164-5/
英国のバンド、ヘンリー・カウは、オープン・インプロヴィゼーション、宝石細工のような歌詞、逸脱するメロディ、自発性の執拗な追求によって、ロックを限界まで押し上げた。1968年の結成から、ヴァージン・レコーズ所属を経て、10年後の解散に至るまでを、メンバーやスタッフへの90本のインタヴュー、手紙、ノート、楽譜、日記、議事録などをもとにたどる本書は、カウの比類なき音楽を精緻に解き明かすとともに、世界を変えるアヴァンギャルドの予測不能な潜在力を証明してみせる。モノグラフを超え、美学史や文化研究に再考を迫る、きわめつけの労作。★写真・図版多数収録★
版元サイトを見れば分かるけど、真っ赤なカバーに黒字のタイトル、重さ770g、2段組で570ページ、注や書誌などを除く本文だけでも470ページ、価格6000円。原著は2019年刊。
まさしく労作、そして大作で、充実した内容。
よくもまあ、日本で翻訳・出版されたものだと思うし、なかなか価格のハードルは高くて図書館から借り出して読んだけど、版元には感謝申し上げる。
じつを言えば、ヘンリー・カウというバンドはまったく知らなかった。
これだけの本が出るにも関わらず、個人的な観測範囲で言えば、忘れられたバンドである。とは言え、メンバーのフレッド・フリスは知ってるし、メンバー周辺の名前にはちらほら見かけた名前も出てくる。
以下、訳者あとがきから引く。
音楽と同じく、その10年の歩みもひとすじなわではゆかない。自主コンサートを企画し、レコード会社と訣別し、左翼としての立場を打ち出し、ヨーロッパ中をバスで駆けめぐっては各地のバンドと連携する。(中略)カウはまた男ばかりのクインテットから男女同数のセクステットへと編成を変えていく(ライブミキサーやバスの運転手を女性が担当することさえあった)。これが70年代という時代にあってどれほど特異なことだったか、今となっては想像することさえ難しいかもしれない。
メンバーたちは男性も女性も音楽に、政治に、生きることに全力で取り組もうとする人物ばかりで、みなそれぞれにキャラが立っている。著者は彼/彼女たちが信頼で結びついたり議論を闘わせたり、くっついたり離れたり、事件を惹き起こしたり巻きこまれたりしていくさまをいきいきと描き出す。解散決定後のツアーで悲惨すぎてもはや笑うよりほかなしといった状況を経て、バルセロナで手に汗握るクライマックスが訪れるという展開に至っては、これは本当にノンフィクションなのかと疑いたくなるほどだ。
(p554-555)
印象に残ったのは、カウのメンバーがことあるごとに会議を行い、その内容がメモ(議事録?)として残っていることだ。また上記でも触れられているけど、左翼、つまりはマルクス主義、とりわけ毛沢東主義(マオイズム)への傾倒とか。彼らにとって、音楽(ロック、フリー・インプロ)とは資本主義の誤りを正していく手段だったのだ。
ただ、そういったスタンスが、しだいに強制というか、教条的な様相を帯びてきて、メンバー間での認識の違いを浮かびあがらせ、バンドの瓦解へと至っていく。その辺りの描写も、周辺のバンドやミュージシャンの動向などにも触れつつ、リアルに語られる。…でもこれって、どこかで見たような光景、でもあるよなぁ。
現在でもCDとか入手できるし、40周年や50周年のボックスセットも出ているようなので、実際に楽曲を聴きながら本書を読み進めてみるのも一興だろう。
なんとも、稀有な読書体験であった。
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疾走!日本尖端文學撰集
http://tmasasa.exblog.jp/33375494/
2023-08-03T01:38:00+09:00
2023-08-03T07:40:04+09:00
2023-08-03T07:40:04+09:00
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新刊の文庫本コーナーを見ていると、「小山力也 編」という文字が目に入る。
…古ツアさんである。
「こんな本を編纂していたのか」とちょっと驚かされたので、借り出して読んでみた。
『新感覚派+新興藝術派+α 疾走!日本尖端文學撰集』小山力也 編(ちくま文庫、2023)。
何やらタイトルからして古めかしい漢字が並ぶけど、それもそのはず、昭和初期の作品群。
以下はアマゾンの内容紹介で、文庫カバーの説明でもある。
一瞬の燃焼、モダニズムの煌めき──まるで「詩」で「小説」を書くように、煌めく比喩表現で綴られる文章で、昭和初期に注目された〈新感覚派〉と、そこへ接近した作品群を集めた作品集。〈新感覚派〉の隆盛が、プロレタリア文学の機運に圧される様を俯瞰し、大正から昭和初期という時代の、震災と復興、急速な発展と同時に乱れて行く都会の熱狂と雑音、猥雑さを切り取る。編者による各作品解説も収録。
<新感覚派>というグループ?があったとは知らなかった。
私の哲学は詩のようにしか語れない、と言ったのはウィトゲンシュタインだったか。それにしても、詩で小説を書くように、とは。…そう思って最初の小説、藤澤恒夫「首」を読み始める。
…うーん、たしかに詩を読んでいるかのような印象。へぇ、こんな小説があったんだ。
17名による19篇の小説が収録。
各篇に、古ツアさんの流暢な解説があるのだが、それを読むだけでも、当時の文学業界?におけるあれこれの潮流の盛衰や文士同士の交流の一端などが垣間見られて、興味を覚える。
なんのことはない、今よりも、この当時のほうがはるかに文章表現の自由度は高かったのでは? とも感じられて、なかなか複雑な感じも受ける。
この中で、(本の紹介としてはイレギュラーだけど)川端康成の脚本によるサイレント映画『狂った一頁』は、是非とも見てみたい。
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少し前の雑誌から
http://tmasasa.exblog.jp/33374436/
2023-08-02T01:24:00+09:00
2023-08-02T09:26:21+09:00
2023-08-02T09:26:21+09:00
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なかでも「特集:甦る福田恒存」は、この時期だからこそというのか、タイムリーな企画なのではと感じた。
じつを言えば、福田恒存の名前くらいはもちろん知ってはいたものの、今まで、まとまった論考を読んだことはなかった。もう昔の人、という理解だった、というか。
今回の特集では、中島岳志と浜崎洋介との対談「神なき世界をどう生きるか」が目を引くタイトルだけど、最初に読んだのは
片山杜秀の論考「福田恒存・この黙示録的なるもの」。
この人の文章を紹介するのはちょっとやっかいなので、以下に冒頭を写経しておく。
福田恒存はその深奥に於いて極めて未来的な思想家であった。彼の奥底ではマグマのように揺動し、彼を魅了するヴィジョンは、やや大げさな言い方をすれば人類滅亡後に開けるかもしれない世界とつながっていた。その意味で福田は幻視者の系譜で語られるべき人であろう。ある種の狂気があるのである。だが、福田本人は内奥を無防備に剥き出しにするほど素朴でもやわでもなかった。そんなことをすれば異端者のレッテルでも貼られて生活に差し障るとよく知っていたからであろう。福田は生活者たることを人生の第一義とし、生活から暴走してその向こう側に乗り越えてしまわぬために、たくさんの重しを必要とした。それはたとえば劇団であり、劇場であり、養うべき家族や俳優であり、次の芝居の日程であろう。それから、自由な演劇活動が社会に許容され続けるためのかりそめの平和が何よりも肝要であり、その平和を維持するために日々に権謀術数を尽くそうとした。そこで追求される、かりそめの平和のためのリアリズムが福田の狂気をまた一段と抑え込んだであろう。そもそも、甚だしく単純化して言えば、東京の千石の三百人劇場を自ら率いる劇団の常打ち小屋とし、一晩に最大三百人の観客しか得られない芝居をやり続けるために、戦争や革命を抑止しようとし、世界のかりそめの平和の維持、延命治療に手を尽くすという、非対称ぶりもここに極まれりといった発想法によりかかって、人生の時間を費やせるところが、十分に常軌を逸しているのではあるまいか。しかも福田はその魔的な企図を、乱心者の素振りを少しも見せず、あくまで紳士然として遂行した。福田の愛したハムレットは佯狂であるが、福田は逆に正気を装うことを得意としていたのかもしれない。
(p156-157)
いろいろ「へぇ」と思ったのだが、この後、片山は、かつて福田自身が書いた評論「近代の宿命」、小説「ホレイショー日記」、喜劇「解ってたまるか!」に相通じる箇所があるとして、福田が自ら解説する文章を引きながら、論を進めていく。
それで、この論考の最後。
…人工知能がシェイクスピアやチェーホフやその他無数の応用に富ん台詞をTPOに応じて力強く明瞭な人工音声で際限なく語り、人間個々の話すべきことを完璧に代替して、偶然的情念の介在する余地がなく、ドラマも完璧に予測可能な予定調和でしか生起しなくなるような世の中は、大いにありうるのではないだろうか。そのとき世界は喜劇になるであろう。全部が茶番になるのだから。福田であればそれをディストピアと呼ぶと思うが、でもその世界は福田の本質の部分に来るべき未来として内包され埋め込まれていたものであった。幾ら芝居で対抗しようとしても、「國語」や「親米」に幾ら依拠しても、ついにもう遅延は無理という段階に立ち至ったのが今日なのではあるまいか。(以下略)
(p165)
これを機に、福田恒存の著作を読んでみよう、と思った次第。
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『依存症と回復、そして資本主義』を読んだ
http://tmasasa.exblog.jp/33362674/
2023-07-24T01:15:00+09:00
2023-07-24T08:19:49+09:00
2023-07-24T08:19:49+09:00
t-mkM
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『依存症と回復、そして資本主義』中村英代(光文社新書、2022)
タイトルからだと、何の本だか分からないような印象を受けるけど、読んでみればたしかに内容を表していはいる。以下はアマゾンの内容紹介から。
自分は依存症かもしれないと思ったことがある人や、家族のとまらない行動に困っている人はたくさんいるだろう。メディアでは有名人の薬物やアルコール問題が頻繁にとりあげられ、「依存症」という言葉は広く知られているが、今なお「依存症=意志の弱さ」と、とらえられがちだ。かつて摂食障害の当事者でもあった著者は、現代の資本主義社会において、「依存をめぐる行動はこの社会の中で必然的に生じる行動パターンのひとつ」と述べる。本書では、当事者コミュニティ(薬物依存の回復支援施設「ダルク」、依存症からの回復のための世界規模の共同体「十二ステップ・グループ」)における回復実践をみていきながら、これらが示す人類の新たな共生のあり方、そして「弱さから善さへと向かう意欲の物語」を描き出す。
上記では触れられていないけど、本書の基調をなすのは、「ダブルバインド理論」で知られるグレゴリー・ベイトソンの分裂生成理論と依存症研究である。
分裂生成理論における分裂生成とは、「Aの行動がBの行動を刺激し、そのBの行動がまたAを刺激して、はじめの行動を強めるという、社会的相互作用の連鎖」とのこと。で、それには二つのパターンがあり、
ひとつが対称型の分裂生成で、これは「AとBとの相互促進的行動が本質的に同じと認められる、競走や張り合いのケース」を指す。たとえば、Aの自慢にBが反応してBも自慢するとさらにAが自慢し返すような、個人間の対抗意識のケースがある。ここでは互いが駆り立てられるように自慢合戦のプロセスは進行していき、次第に敵意が高まって殴り合いの喧嘩などへと発展していく。(中略)
もうひとつは相補型の分裂生成で、「相互促進的行動が本質的に違っていても、互いに適切にかみ合っている、『支配ー服従』、『養護ー依存』、『見せるー見る』等のケース」を指す。たとえば、AがBに服従するとBはさらにAへの支配を強める、AがBの世話をするとBはさらにAを頼るようになるケースがある。ここではある行動が一方の側に偏るプロセスが進行していき、エスカレートしていく。エスカレートして頂点に達すると関係は破綻する。
(p48-49)
というものである。そして、
ここから、二つの型の分裂生成に歯止めをかけるファクターを探すことが、個人や集団が生き延びるための切実な課題として浮上してくる。
この点についてベイトソンは、二つの種類の分裂生成的な行動には、互いを打ち消すように働く作用があると述べている。つまり、対称型の関係にわずかに相補的行動を混ぜるだけで、あるいは相補型の関係にわずかに対称的行動を混ぜるだけで、緊張が緩和するというのだ。(中略)
また、対称型であれ相補型であれ、二つの集団を結束させる外的な要素がある時には、その進展が抑制される。ベイトソンは、ここでの外的要素は人物でも敵の集団でも天候などでもよいという。
(p50-51)
というのが、分裂生成理論の大まかな理解、である。
またベイトソンは、AA(アルコホリック・アノニマス、内容紹介にあった「十二ステップ・グループ」の元祖のような団体)の研究に先立って、バリ島のフィールドワークを行なって論文を発表しており、その論文を踏まえてAA研究を進めたそうである。関連部分を以下に抜書きしてみる。
まず、ベイトソンは、現代社会において人間は「一つないしはそれ以上の変数(金、信望、権力など)の値が大きければ大きいほどいいというコンテクストに自ら収まることがある」と述べる。現代を生きる私たちには金や権力、人望などを際限なくもっともっとと分裂生成的に求める傾向があるということだ。
他方で、バリ島の社会は「個人も村も、単純な変数の値を一方的に高めようとはしない。そうではなく、なにか『安定性』とでもいうような高次元の変数の最大化を図るのである」とし、次のように述べる。
われわれは社会のメカニズムについて考えるとき、ほとんどの場合、社会を構成する個人が何らかの変数をできるだけ大きくする方向へと動くと考え、それを前提として社会機構のダイナミズムを記述していく。現在の経済理論にしても、個々の構成員がそれぞれの持つ経済的価値の最大化を目ざして動くことを前提としているし、わたしの出した分裂生成理論も、「威信」「自尊心」など(「服従」ですらそうだ)無形の、しかし単純な、変数の値をできるだけ大きくしたいという気持が人々にあることを暗黙の前提としていた。ところがバリの人々は、その種のどんな単純変数についても、その最大化を目指すことはない。
(p59-60)
以上、長々と引用してきたので、ここらで本書の内容まとめのような箇所を紹介する。
ダルクとAAの考察に入る前に、本書の結論を述べてしまいたい。
ダルクや十二ステップ・グループとは、ひとつの変数の最大化を抑制する共同体ーーもっともっとという分裂生成的なパターンを抑制する共同体だと本書は考える。そこでは、人々は、環境を操作する主体として肥大しきった自我(エゴ)を縮小させていく。同時に、人々の人生観は「目的論」から「宿命論」に近づいていき、起こったことをそのまま受け入れていく姿勢へと変容する。
これが、本書がとらえたダルクとん十二ステップ・グループであり、そこでの回復だ。
(p70)
以降、ダルクと十二ステップ・グループの詳しい考察、依存症の支援者について、と記述が続いていくが、ぜひ本書をあたられたい。現代を生きていく上で、参考になる視点が得られる、ハズ。
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