2017年 08月 01日 ( 1 )

少し前に出た雑誌から

今回は『新潮』2017年6月号から。

この『新潮』には毎号、コラムがまとまって掲載されている箇所があるのだが、今回は John Gastro という方の「詩の法外 ーー音楽、法律、料理」というコラムがちょっと面白かった。
以下、『新潮』2017年6月号 p220から引用。 


 分かりにくくなってきたのでもう一度、料理を例に取ってみよう。唐突だがドーナツのアイデンティティは何だろうか。もちろんそれは中央に空いた「穴」である。しかし、原材料である小麦粉が作りだすのは穴そのものではなく、その周囲の「フカフカした部分」である。詩の言葉は、このときの小麦粉のようであるべきだ。言葉でメッセージそのものを描こうとしてはならない。詩人が描こうとするものは、目に見えない穴の方である。言葉を正確に位置づけることで初めて、小麦粉は適切に閉じられ、それまで目に見えなかった「穴」を、目に見えないまま現出させることができる。
 歌が好きな理由もここにある。世の中には感情や意思や印象といった「目には見えないけれど大切なこと」がある。歌はこうしたものを、音と言葉という小麦粉で輪郭づけることで穴として描き出すことができる。そして同じ歌を聴いた人々が各々の心の中で、各々異なる「目には見えないもの」を描いてしまうように、その穴は常に多義的に意味が複数化し、ズレ続け、解釈を誤っていく。だが、それで構わない。歌詞はいつだって誤解に対して開かれている。
 そして人は時に誰かと同じ誤解をする。それこそが共感というものの正体なんだと思う。
 気の遠くなるような話だが、詩人とはこうした誤解を前提とした共感を設計する人間のことだ。


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by t-mkM | 2017-08-01 01:30 | Trackback | Comments(0)