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(通常の日記はこのエントリの下から始まります)

◆ 鎌倉「ヒグラシ文庫」での常設棚 ← 12月24日(土) に追加補充 !!

 鎌倉の立ち飲み処「ヒグラシ文庫」店内で古本を委託販売しています。鎌倉・小町通りから
少し路地を入った雑居ビルの2階。鎌倉へお越しの際にはぜひお立ち寄り下さい。
  <ヒグラシ文庫> http://www.facebook.com/higurashibunko
   所在地:鎌倉市小町2-11-11 大谷ビル2F (JR鎌倉駅より徒歩4分)
   営業時間:16:00~23:30(原則 年中無休)
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# by t-mkM | 2017-12-31 23:59 | Trackback | Comments(0)

「シン・ゴジラ」再び

昨年、劇場で2回観た映画『シン・ゴジラ』。
その総監督である庵野秀明が責任編集し、東宝が監修した記録全集がようやく昨年末に発売になった。この本、ずいぶん前から相方が図書館にリクエストしていたのだが、ようやく入ったようで、借りてきて見てみた。

『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』責任編集:庵野秀明(発行:株式会社カラー、2016)

定価が1万円を越えており、そのぶん、物量も巨大で重厚。
真っ黒で重厚な作りの箱入りで、最終版の脚本やカラー・イラストのポスターも付いている。そして本体のなんと分厚く重い(!)ことよ。ほとんど凶器だな、これは。

映画でも冒頭からしてスピーディな展開とその情報量に圧倒されたけど、こちらの記録全集も、映画以上にすさまじいまでの情報量で、ラストに置かれた庵野総監督の超ロング・インタビューに至るまで、読み応え(見応え)十二分のシロモノ。映画を観た人なら、これだけでもしばらくは十分に楽しめることうけあいである。
できるなら、これを眺めた上で、もう一度劇場で映画を観てみたいとあらためて思ったしだい。

もうひとつ。

映画『シン・ゴジラ』がヒットしてこっち、各方面で『シン・ゴジラ』について書かれた本や記事などが出ていたけど、一段落したかとおもいきや、こんな本が出ていたので、こちらも図書館で借りてきた。

『シン・ゴジラ論』藤田直哉(作品社、2017)

冒頭の「序」を見ると、著者は『シン・ゴジラ』を観て、「… 圧倒された。/何か、凄まじいものを観たという印象だった。」と語る一方で、「ぼくの胸に一番引っかかったのは、東日本大震災という現実に対し、このような虚構をぶつけることの意義である。」と疑義を呈している。

まだ読んでいる途中なんだけど、識者のツイートなども詳細に引用しつつ、さまざまな角度から論を進めていて、興味深い。はてさて、どういう「結論」になるのやら。



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# by t-mkM | 2017-03-15 01:59 | Trackback | Comments(0)

タワーマンションでの"階級闘争"

きっかけはたしかネットを徘徊していて、だったかな。
"タワーマンションを舞台した上層階と下層階との軋轢を描く…"みたいなあらすじを見て、面白そうだと思って読んでみた。

『ハイ・ライズ』J.G.バラード/村上博基・訳(創元SF文庫、2016)

SF小説界?のビッグネームと言っていいのだろうけど、バラードの長篇を読むのはこれが初めてかも。
以下はアマゾンにある内容紹介で、文庫カバーのあらすじと同じ。

ロンドン中心部に聳え立つ、知的専門職の人々が暮らす新築の40階建の巨大住宅。1000戸2000人を擁し、マーケット、プール、ジム、レストランから、銀行、小学校まで備えたこの一個の世界は、10階までの下層部、35階までの中層部、その上の上層部に階層化していた。全室が入居済みとなったある夜起こった停電をきっかけに、建物全体を不穏な空気が支配しはじめた。中期の傑作。

語り手の一人が、マンション内での騒乱と混沌が静まった後に、自室で(シェパードの焼肉を食いながら!)その出来事を回想する場面から、物語は始まる。
マンション内の上層階、中層階、下層階それぞれに視点人物となる男性居住者を配し、その3人の内面と行動を描きながらストーリーが進んでいく。

…しっかしまあ、物語半ばからこっち、マンション住人たちの壊れっぷりたるや、いやまあすさまじいなぁ。
中盤以降は階層間での闘い、というかほとんどマンション内における現代的な階級闘争といった様相を呈するのだけど、その闘いぶりたるや、「ここまでやるか」といった感じ。ある意味、タワーマンション版「荒野のジャングル」、弱肉強食的世界で、住人たちの退行ぶりには目を見張る。
1975年の作品なので、日本では当時そんな高層マンションは出現してなかっただろうが、その頃の欧米にも40階建マンションってあったのだろうか。ま、SFというよりも近未来社会的ホラー小説とでもいうような感じである。

こう書いてくると、なんだかムチャクチャな小説のように映るかもしれないけど、読後、じわじわと「いま」を感じさせてくる。(まあなんというか、タテマエは後ろに追いやられ、ホンネがむき出しになっている、とでも言えばいいか)いまになって文庫で復刊された意味も、その辺にあるのでは。

2015年に映画化されており、すでにDVDも出ているようなので、ぜひとも見てみたい。



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# by t-mkM | 2017-03-03 01:13 | Trackback | Comments(0)

疑似科学、超能力、信仰…ちょっと異色のSF?短篇集

このところ、毎年2月になると楽しみなのが「読書アンケート特集」の載る『月刊 みすず』1, 2月合併号。
年末になると、その年を回顧していろんなベストものが出てくるけど、『月刊 みすず』は年末のそんな喧噪を避けて年明けに、それもアンケートに回答した方々の全文を載せてくれるので、読んでいるだけでも個性があって楽しめる。

今年の『月刊 みすず』1, 2月合併号の読書アンケートをパラパラ読んでいて、気になる本がいくつかあったけど、なんだか例年とは異なって、「今年はこれ」と言えるような重複して取り上げられている本が案外に少なかったように感じた。(見落としているだけかもしれないが)
そのなかで、1, 2人が取り上げていて、気になったもののひとつがこれ。

『彼女がエスパーだったころ』宮内悠介(講談社、2016)

で、図書館に予約して、読んでみた。
以下は版元である講談社の、そして短編が連載されていた『小説現代』のサイトにあるあらすじ。
スプーンなんて、曲がらなければよかったのに。

百匹目の猿、エスパー、オーギトミー、代替医療……人類の叡智=科学では捉えきれない「超常現象」を通して、人間は「再発見」される――。

ふと、わたしはこんなことを思った。おそらく、彼女はなんらかの障害を抱えている。それが何かはわからない。それがなんであれ、千晴という人物にとっては、この世の現象のいっさいが恋人なのではないかと。

短編のタイトルは、掲載順に「百匹目の火神」「彼女がエスパーだったころ」「ムイシュキンの脳髄」「水神計画」「薄ければ薄いほど」「佛点」の計6編。

どこぞの記者とおぼしき「わたし」が語り手である点は共通しているものの、各短編の間につながりはこれといってない。ただ、後半になるほど「わたし」の露出が増えてきて、ということはつまり、「わたし」の物語への関わりが強くなってくる。そして最後の「佛点」で、「彼女がエスパーだったころ」の主役である千晴が"出演"して、最後の最後でこの本をなんとなく収束させている感じではある。

作中でテーマとなるのは、超能力、疑似科学、代替(終末期)医療、オカルト(カルト?)...
そんな、どこかSFっぽいけど、科学では割り切れないというか、ヒトという存在の不思議さや愚かさとも繋がる"なにがしか"を、意外な角度から光をあてながら静かに読ませる、といった感じ。結論めいたものは示されないし、歯がゆさも割り切れなさもそのままにしているけど、それゆえ、読後には胸の内にとどまって、さらに思考を促すようで、余韻にもなっている。

もう一回読んでみようか、という気にさせる短篇集。


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# by t-mkM | 2017-02-23 01:47 | Trackback | Comments(0)

ひさしぶりの新宿にて

相方の提案により、自宅で使っているリビング・ダイニング兼用のイスを新調するべく、西新宿にある国産家具メーカーのショップに足を運ぶ。

気がつけば、いまのところに引っ越してきてすでに10年近く。そのころから毎日のように座っており、うち一つはもっと以前から使っていたものを引っ越し時に座面張り替えして使いつづけているので、まあどことなくくたびれてきているのも事実。
で、これまでにあれやこれやと検討してきた末、「ま、コレがいいのでは」という製品を決めていたので、最終確認のうえで注文することに。

無事に手続きが終わり、「ま、せっかく新宿まできたのだから」ということで、駅を突っ切って東口から3丁目方面にも足を伸ばすことにする。
ぷらぷら歩いてきたが、なんだか街ゆく人が多いような気がする。土曜日で祝日とはいえ、新宿っていつもこんなに人が多いのか? 新宿のメインエリアではあるけど、前へ進んで歩くのにも人のあいだを縫うようにしないとならない感じ。いやまあ、ホント、大げさで無く。

で、新宿通りの一本裏手、ディスクユニオンが2店舗ある、その間あたりに「BEAMS Japan」なる看板が出ているビルがあったので、なにげに入ってみた。
「Japan」とうたっているからなのか、生八つ橋など京都の菓子を売っているコーナーがあったりするが、とりあえず、エレベーターでいちばん上に行ってみる。

なにやら、「YACCO SHOW」なる展示が行われている。

“表参道のヤッコさん”ことスタイリスト・高橋靖子さんの展覧会「YACCO SHOW」が、1月14日より東京・B GALLERY (新宿 / BEAMS JAPAN 5F)で開催される。
高橋さんは、フリーランスのスタイリスト業として、確定申告の登録第1号となった人。

https://www.advertimes.com/20170105/article241695/
(会期は終了しているので、リンクは消えてしまうかも)

たしか、以前に古本屋で『表参道のヤッコさん』(アスペクト、2006)を入手したさい、「こんな人がいるんだ」と思ったのが知ったきっかけ。
この日、会場にはご本人もいらしていて、こちらがモノクロ写真の集まった展示を見ていたら、話しかけてくれた。なんでも、毎日会場にいるのだそう。見れば、来場者の誰とも気さくに話しをされており、その風貌や話しぶりや着こなしなど、身についた自然体の所作とでもいうのか、それが板について、さまになっている。

会場の展示を見ると、66年のビートルズ武道館公演のチケットとか、著名ミュージシャンのライブ招待状だとかあちこちにあって、ともするとイヤミな感じを受けそうだけど、そんな印象は不思議とまったくなくて、「へぇ」と素直に楽しめる。
現在、70代半ばのようだけど、こういうふうに年をとれるといいよなぁ、と感じさせるような人って(残念ながら)滅多にいないので、ちょっと感銘を受けた。

順次、階段を降りていくと、途中に「日本のポップカルチャー」がテーマの階があった。
目をひいたのはラジカセの展示、そして80年代あたりの風俗を撮った写真集がズラッとあったことか。また、ビームスが独自に編集したらしい、片岡義男の作品集も売っていた。30%オフだったので、名短編の呼び声もある「給料日」の入った冊子を買ってみた。


これ、さっそく翌日に読んだのだけど、再読した「給料日」もよかったが、『ミステリ マガジン』1968年10月号に掲載されたという「二十三貫五百八十匁の死」という短編、これがなかなか。タイトルが時代を感じさせはするものの、片岡義男って、この当時から優れた書き手だったんだなぁ。

いやまあ、なんだかんだで、たまには都会に出てみるもんだ、と思い知ったしだい。


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# by t-mkM | 2017-02-14 01:12 | Trackback | Comments(0)

ごった煮宇宙的おもしろさの『ビビビ・ビ・バップ』

だいぶ間があいてはいるものの、これは『鳥類学者のファンタジア』の続編といっていいんだろうな。
たしか前作もけっこう長大だったと思ったけど、本作も660ページ。文芸誌『群像』に2年間にわたり連載されていたようだし。なんで、寝っころがって読むには不向き。寝しなに読みながら寝てしまい、チマチマとしか進まなかったけど、それは腕が疲れるため。

『ビビビ・ビ・バップ』奥泉光(講談社、2016)

「僕の葬式でピアノを弾いて頂きたいんです」
それがすべての始まりだった。
電脳内で生き続ける命、アンドロイドとの白熱のジャズセッション。大山康晴十五世名人アンドロイドの謎、天才工学少女、迫り来る電脳ウィルス大感染…。平成の新宿から近未来の南アフリカまで、AI社会を活写し、時空を超えて軽やかに奏でられるエンタテインメント近未来小説!

前作はと言えば、すっかり記憶の彼方ではあるけど、とても面白く読んだ覚えだけはある。
で、本作。ややもすると冗長になりがちな文体がちょっと気になるものの、いろんな題材がこれでもかとブチ込まれ、オモチャ箱を引っかき回すかの展開には目を見張るばかりで、『東京自叙伝』 以来、久しぶりの"奥泉ワールド"にどっぷり浸った感じ。

舞台は21世紀後半、それからもう少し下って今世紀末といっていい時期か。
語り手は猫、名前はドルフィー。
この続編の小説でドルフィーとくれば、絡んでくるのはもちろん、モダン・ジャズの巨人の一人、エリック・ドルフィー。
描かれるのは電脳が世界中に張りめぐらされ、AIやVRがとてつもなく進化した未来。
ジャスピアニストで音響設計士の主人公・フォギーが、多国籍&超巨大企業の重役である山萩氏から"架空墓"に関する依頼を受けて、その在処を尋ねるところから始まる。

自身の機械的な分身(アヴァター)がアンドロイドのミュージシャンと熱いセッションを繰り広げたり、分身どうしでVR(仮想現実)の街並みに入っていったり、しかもその分身どおしが寄席で落語を聞いたり、酒場で飲んだり議論を交わしたり…。まるでSFだけど、そこに大感染(パンデミック)の危機が迫ったりして、ミステリーや冒険小説?ふうのテイストも加わり、ジャズ・ジャイアンツの面々(チャーリー・パーカーやマイルス・デイビスなどなど)やら、落語の大看板(古今亭志ん生、立川談志)に将棋の名人(大山康晴)まで絡んでくる。
ラストでは壮大なるスケールの展開になってはいくものの、登場するアイテムは1960年代、70年代のあれこれで、著者の好みが反映されているのか、ちょっと可笑しい。

当時のジャズや風俗に詳しいと、より楽しめる事うけあいだけど、それに止まらず、AIが発達した先にある人間像とか、そんな哲学的な側面にも目配りの効いた内容で、文字どおりジャンル横断で楽しめる。


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# by t-mkM | 2017-02-08 01:46 | Trackback | Comments(0)

『火星の人』を読み、『オデッセイ』を観た

もう以前になるけど、昨年に公開された映画の原作本を読み、今年になってその映画をDVDで観た。どちらも面白く、映画の方は繰り返し観たこともあったので、感想などを書いておくことにする。

『火星の人』アンディ・ウィアー/小野田和子(ハヤカワ文庫SF、2014)
以下はアマゾンの内容紹介から。

有人火星探査が開始されて3度目のミッションは、猛烈な砂嵐によりわずか6日目にして中止を余儀なくされた。だが、不運はそれだけで終わらない。火星を離脱する寸前、折れたアンテナがクルーのマーク・ワトニーを直撃、彼は砂嵐のなかへと姿を消した。ところが――。奇跡的にマークは生きていた!? 不毛の赤い惑星に一人残された彼は限られた物資、自らの知識を駆使して生き延びていく。宇宙開発新時代の傑作ハードSF。

『オデッセイ』リドリー・スコット監督(20世紀FOX、2015)
(日本では2016公開)

どちらの作品も楽しんだ身としては、読んでから観ても、あるいは観てから読んでも、たぶんどちらでも楽しめるのではないかと思う。
ただまあ、理系方面がとりわけ苦手だとか、中学校の理科なんて思い出すのもイヤだ、という方は、まずは映画からのほうがいいですかね。(そもそも、面白くないかもしれないが)

原作を読んで強く印象に残るのは、火星に一人ぽっちで置き去りという、これ以上ありえないような絶望的な状況のなか、あくまでも生還するべく、手近にあるものと自身の知識をもとに、とことん計画的に自らの「生存戦略」を進めていく主人公の姿勢、というか意志だ。

次の探査機が火星に来るまでに4年。それまで生き残るため、何が必要で何が足りないのか、食料や酸素などをどうやって確保していくのか…。それら一つ一つに計画を立て、実験を繰り返し、改良を重ねながら、連日、あれやこれやと活動し、食料や水や酸素を確保していくのである。途中、パスファインダーという実際にあった火星無人探索で使われた通信機器が埋もれた場所を思い出し、それをゲットしてNASAとの交信が復活するなど、現実の宇宙探索の歴史?ともリンクしながら進んでいく。その辺りの細かい演出もツボである。

その一方で、これでもかというくらいに、いろんなトラブルが主人公をおそう。なにせ一人しかいないし、気がつきようもないのだけど、主人公はひたすら前向き。もうおバカなくらい楽天的。そういった感じが、日記調の文面からとってもよく伝わってくるのである。

一方、映画はといえばほぼ原作に沿って、けっこう忠実に作られている。
NASAが全面的に協力したというだけあって、火星探索の装備や機器類などをはじめ、火星の居住エリアでの日常や、NASA上層部のやりとりなど、(もちろん、ホントかどうかは分からないながらも)かなりリアルに感じられた。
ただ、原作を読んでいないと「なんでこうなるの?」というようなシーンがあるのも事実。これは原作から抜け落ちたエピソードがいくつかあるためで、映画を141分に収めるためとはいえ、このあたりにはやや無理があるのかも。とはいえ、それらは映画的にキズかというとそうでもなく、原作を読んでから観ると理解が深まったりするわけで、繰り返し観る楽しみが増える要素とも言える。

また、エピソードが省略されたこともあって、火星サバイバルにおける主人公の実験的精神の徹底ぶりや、相当の長距離を移動してようやく救出拠点となる場所にたどり着く大変さなど、映像からはそれなりに伝わってはくるものの、原作に比べると十分とは言い難い。まあ、それは無いものねだりというものか。

原作にはない場面がラストに加わっているけど、これは作品としてのエンディングとしてもろもろ納得させられる。
(ここまで描かないとスポンサーの支持は受けられないのかもしれない)

宇宙モノのとして、久しぶりにとても楽しんだ1冊と1本。





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# by t-mkM | 2017-02-01 00:58 | Trackback | Comments(0)

最近の福田和也の文章

どなたか作家のツイッターで、"ここ最近の福田和也はすごい"というつぶやきを見かけて「へぇ」と思ったこともあり、最近の作品を読んでみた。

まずは『新潮』2月号に掲載の「絵画と言葉」。

リンク先にもちらっと書いてあるように、自身の長年のファンで病床にあるI氏を見舞いに行った病室にかけられていた松田正平の薔薇の絵からはじまって、長谷川利行の絵のこと、そして自分自身と絵画との関わりや絵に対するスタンス、清水志郎氏の陶芸作品、横尾忠則『言葉を離れる』への驚き、などを語りつつ、I氏が逝くところで終わる。
長年のファンを引き合いに出して、鼻白む感じなのかと思いきや、過去をふり返りながら内省するかのような、ちょっと枯れた感じが独特だ。

それから、『山本周五郎で生きる悦びを知る』福田和也(PHP新書、2016)。

こんな本を書いていたとは知らなかった。
福田和也と山本周五郎って、ちょっと異質な組み合わせという気がするけど、読んでみるとこれがなかなか沁みる。雑誌『Voice』での連載をまとめたもの。以下はアマゾンの内容紹介からの一部。

人間の人間らしさを生涯にわたって探究し続け、自らの生活そのものを小説にささげた周五郎の小説の言葉は、どこかからの借り物ではなく、彼自身が自ら獲得してきた言葉である。彼自身の言葉を用いれば、周五郎は「貧困や病苦や失意や、絶望のなか」の「生きる苦しみや悲しみ」そして「ささやかであるが深いよろこび」を描こうとしたと言えよう。あらゆる文学賞を辞退し、ただひたすら自らが「書かずにいられないもの」を描き続けた作家の真髄を味わう。

山本周五郎にはたくさんの作品があって、今年がちょうど没後50年にあたるようだけど、昔もいまも読まれ続けている。最近になって新潮社から『山本周五郎 長篇小説全集』全26巻が刊行されているけど、この本で取り上げているのは『赤ひげ診療譚』『青べか物語』『さぶ』『季節のない街』『柳橋物語』『樅ノ木は残った』の長篇の6作品。
この中で読んだことのあるのは、『赤ひげ診療譚』『青べか物語』『さぶ』か。まあ、ワタクシは山本周五郎のいい読者ではないので、この3長篇以外には短編集を読んだくらい。

なかでも、さすがに文芸評論家だなと思わせるのは、全集の解説を書いている評者のことばを引きながら、さまざまな本(と作家)と絡めて書いていること。
『赤ひげ診療譚』ではマンの『魔の山』を出し、『青べか物語』には美術評論家の洲之内徹によるエッセイ集が出てきたり、『さぶ』ではイアン・マキューアン『贖罪』が引き合いに出されたりする。

どの長篇の紹介も読ませるけれど、この本を読んでいて、周五郎の小説は繰りかえしの読書に耐えうるんだろうな、とつくづく感じさせられた。未読の長篇はもちろん、あらためてじっくりと周五郎作品に向き合ってみたいと思った。


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# by t-mkM | 2017-01-27 01:29 | Trackback | Comments(0)