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(通常の日記はこのエントリの下から始まります)

◆ 鎌倉「ヒグラシ文庫」での常設棚 ← 8月11日(金・祝) に追加補充 !!

 鎌倉の立ち飲み処「ヒグラシ文庫」店内で古本を委託販売しています。鎌倉・小町通りから
少し路地を入った雑居ビルの2階。鎌倉へお越しの際にはぜひお立ち寄り下さい。
  <ヒグラシ文庫> http://www.facebook.com/higurashibunko
   所在地:鎌倉市小町2-11-11 大谷ビル2F (JR鎌倉駅より徒歩4分)
   営業時間:16:00~23:30(原則 年中無休)
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by t-mkM | 2017-12-31 23:59 | Trackback | Comments(0)

半世紀前に描かれた異色なSF

安部公房という作家は、昔から気になってはいたものの、なぜだか作品(小説だけでなく映像など)には手が伸びずに来てしまった感がある。昔の文庫本の活字が小さいこととも相まって、ますます読めない事情が続いていた。

が、最近になって新潮文庫から出ている安部公房の小説群が改版。表紙も一新し、大きな活字になったこともあって、手はじめに、と読んでみたのがコレ。

『第四間氷期』安部公房(新潮文庫、1970)

現在にとって未来とは何か? 文明の行きつく先にあらわれる未来は天国か地獄か? 万能の電子頭脳に平凡な中年男の未来を予言させようとしたことに端を発して事態は急転直下、つぎつぎと意外な方向へ展開してゆき、やがて機械は人類の苛酷な未来を語りだすのであった……。薔薇色の未来を盲信して現在に安住しているものを痛烈に告発し、衝撃へと投げやる異色のSF長編。

以上はアマゾンの内容紹介から。
初出は岩波書店の雑誌『世界』(!)に、1958年7月~1959年3月にかけて連載されたもの。
これは文学ではあるのだろうけど、今どきのジャンルで言えば上の内容紹介にもあるように、SFである。まさしく、言葉の正しい意味でのサイエンス・フィクションだ。

主人公は「予言機械」の開発を担当することになった、プログラミングの専門家である勝見博士。
この勝見博士が、ひょんなことから殺人の疑いをかけられそうになり、それをなんとか回避しようと、開発中の予言機械を活用したりしているうち、妊婦に早期の堕胎をすすめる、なにやら怪しい団体の存在が浮かんできて…、といった感じで、はじまりはミステリ風味も十分。

すでに詳しいあらすじなどはウィキペディアに出ているけど、読んでいて、小松左京『日本沈没』を思い浮かべた。『日本沈没』が出たのは1973年。その10年以上も前に、似たような未来像から出発しつつも、まったく異なる、そして想像力のブッ飛んだ程度で言えば、『日本沈没』と同等かそれ以上の未来世界(日本、か)を提示した小説があったことに、単純に驚かされた。
いやはや、未開拓の小説はまだまだ広大である。

最後、あとがきで著者が書いていた一文を引いておく。

 未来は、日常的連続感へ、有罪を宣告する。この問題は、今日のような転換期にあっては、とくに重要テーマだと思い、ぼくは現在の中に闖入してきた未来の姿を、裁くものとしてとらえてみることにした。日常の連続感は、未来を見た瞬間に、死ななければならないのである。未来を了解するためには、現実に生きるだけでは不充分なのだ。日常性というこのもっとも平凡な秩序にこそ、もっとも大きな罪があることを、はっきり自覚しなければならない。



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by t-mkM | 2017-08-21 01:09 | Trackback | Comments(0)

ヒグラシ文庫に「ハウス・オブ・カード シーズン4」

今年の夏は、世間なみに11日(金・祝)から15日(火)までお盆休み。
とはいえ、夏休みだというのに天候がイマイチ。なんでも、東京は8月に入って雨が続いているんだとか。まあでも、湿気は困るけど、涼しいのは助かる。

それで11日、2ヶ月ぶりに鎌倉・ヒグラシ文庫で本の精算と補充をしてきた。
東京駅から横須賀線に乗って行ったけど、夏休み初日のためか、すでにこの時点で電車が混んでいた。鎌倉に着いたのは午後2時過ぎ。鎌倉駅もいつにも増して混雑。海に行こうかという若者が目立つ。いやでも夏休みなんだと思い知らされる感じ。

2時半ころに店へ。すでに開店していたけど、さすがにこの時間、お客さんは少なく、気兼ねなく精算できた。この間の売れ行きはと言うと、「低め安定」といったぐあいが続いている。以前の調子には及ばないものの、まあ、そこそこコンスタントには売れているようで、とりあえずは良しとする。ついでに棚にある本の冊数を数え、いちおう在庫を確認。文庫や新書、単行本など20冊ほどを補充した。

古本担当で今日の店当番でもあるタケさんと、レモンハイを飲みながら本のはなしなど。かつての仕事のことなどをうかがったり。
その後、小町通りから線路超えて御成通りに出たりしてウロウロ。どこかに寄って腹を満たしていくかとも思ったものの、どうもいまひとつピンと来ず、早めに帰った。

このお盆休み中、夕刻~夜はもっぱらレンタルDVDで、『ハウス・オブ・カード シーズン4』を観ていた。DVDで6枚、全13話。内容としては、たとえばこちら。
http://www.imagica-bs.com/house_of_cards4/

シーズン3では夫婦の絆が決裂するところで終わっていたけど、シーズン4に至って、物語のスピード、テンポがさらにアップ。大統領選挙を控えて、フランクとクレアの夫婦の関係が衝撃的な事件で変化するほか、共和党の若き有力候補が現れたりして、大統領選挙の候補者となるべく、攻守の関係がめまぐるしく入れ替わる。
「ちょっと、やり過ぎじゃないの?」と感じるところはあれど、見どころのあるシーンを作ることで(強引にも)乗り切っていく、そのストーリー運びと演出には感心するほかない。さすが人気シリーズ。

それにしてもラスト、窮地に陥ったアンダーウッド大統領夫妻が、テロとの戦いを仕掛けていくくだりは、ちょっと戦慄モノ。
こうして、シーズン5も観てしまうんだろうな。


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by t-mkM | 2017-08-17 00:51 | Trackback | Comments(0)

独特で強烈な世界観 ケアリーの『堆塵館』

エドワード・ケアリーという作家のことは、だいぶ前に読んだ『望楼館追想』が面白かったので覚えていたけど、今回もかなり独特の、そして確固とした物語世界を見せつけてくれた。

『堆塵館』エドワード・ケアリー/古屋美登里 訳(東京創元社、2016)

アイアマンガー三部作の第一弾、という触れ込みで、すでに第2部の『穢れの町』も出ているようだ。以下はアマゾンの内容紹介。

19世紀後半、ロンドンの外れの巨大なごみ捨て場。幾重にも重なる屑山の中心に「堆塵館」という巨大な屋敷があり、ごみから財を築いたアイアマンガー一族が住んでいた。一族の者は、生まれると必ず「誕生の品」を与えられ、一生涯肌身離さず持っていなければならない。15歳のクロッドは、聞こえるはずのない物の声を聞くことができる変わった少年だった。ある夜彼は屋敷の外から来た召使いの少女と出会う。それが一族の運命を大きく変えることに…。『望楼館追想』から13年、作者が満を持して贈る超大作。

著者による表紙のイラストからしてインパクトがあって、しかも著者による登場人物のイラストが随所に出てくる。それはそれでなかなか印象にも残るのだけど、中身はそれ以上で、ある種、ぶっ飛んだ設定の、先の読めない世界が紡ぎ出されていく。
で、その語り口とでも言えばいいのか、かなり独特で変わった(というか相当にヘンな)物語世界を、ストーリーとしてスリリングに読ませながら徐々に構築していく、その力量にうならされた。

図書館では「ヤングアダルト」(!?)に分類されてしまっていたけど、そんなジャンル分けなど、はなから無効にしてしまう、その提示される世界観が強烈である。
そして、そんな小説の世界観を外国人の我々もちゃんと味わえるのは、古屋氏の訳文によるところも大きいように思えた。

ラスト、「ここで終わんのかよ!」という感じなので、ぜひとも続きが読みたい。


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by t-mkM | 2017-08-10 01:14 | Trackback | Comments(0)

少し前に出た雑誌から

今回は『新潮』2017年6月号から。

この『新潮』には毎号、コラムがまとまって掲載されている箇所があるのだが、今回は John Gastro という方の「詩の法外 ーー音楽、法律、料理」というコラムがちょっと面白かった。
以下、『新潮』2017年6月号 p220から引用。 


 分かりにくくなってきたのでもう一度、料理を例に取ってみよう。唐突だがドーナツのアイデンティティは何だろうか。もちろんそれは中央に空いた「穴」である。しかし、原材料である小麦粉が作りだすのは穴そのものではなく、その周囲の「フカフカした部分」である。詩の言葉は、このときの小麦粉のようであるべきだ。言葉でメッセージそのものを描こうとしてはならない。詩人が描こうとするものは、目に見えない穴の方である。言葉を正確に位置づけることで初めて、小麦粉は適切に閉じられ、それまで目に見えなかった「穴」を、目に見えないまま現出させることができる。
 歌が好きな理由もここにある。世の中には感情や意思や印象といった「目には見えないけれど大切なこと」がある。歌はこうしたものを、音と言葉という小麦粉で輪郭づけることで穴として描き出すことができる。そして同じ歌を聴いた人々が各々の心の中で、各々異なる「目には見えないもの」を描いてしまうように、その穴は常に多義的に意味が複数化し、ズレ続け、解釈を誤っていく。だが、それで構わない。歌詞はいつだって誤解に対して開かれている。
 そして人は時に誰かと同じ誤解をする。それこそが共感というものの正体なんだと思う。
 気の遠くなるような話だが、詩人とはこうした誤解を前提とした共感を設計する人間のことだ。


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by t-mkM | 2017-08-01 01:30 | Trackback | Comments(0)

あらためて須賀敦子の文章に

行きつけの図書館で、「借りたいものがないよなぁ」とウロウロしていて目にとまったので、借りてみた。

『コルシア書店の仲間たち』須賀敦子(白水uブックス、2001)

ミラノの大聖堂の近く、サン・カルロ教会の軒先を借りるようにして作られた一軒の小さな本屋があった。その名はコルシア・デイ・セルヴィ書店、貧しくも生きることに真摯な人々が集う心やすまる出会いの場所だった。

(以上はアマゾンの内容紹介より)

読書記録(いちおう付けてはいるのだ)をみると、じつは20年くらい前に彼女のエッセイを読んではいた。が、あまり印象に残っていない。当時、須賀敦子がつぎつぎと出すエッセイが話題になっていたころだったかと思うのだが。

著者は1998年に死去。作家としての活動期間は晩年の10年未満ほどだったものの、すでに全集も出ていて、名文家としての世評も確固とした作家の代表作(と言っていいのだろう)のエッセイである。
そんな著作を、寝しなにちびちびと読んでいて、「いやぁ、うまいなぁ。沁みるなぁ」とつくづく思ったのである。もちろん、「何をいまさら言ってんだ」なわけだけど、個人的には須賀敦子を再発見した、という感じ。(ホントに、何をいまさら、だな)

ごく平易な文章であるけど、若かりしころに暮らしたミラノ、そしてコルシア書店に集う、ちょっと癖のある人々を回想して綴る文章が、まるでついこの間のような感じで描かれる。それでいて、長年の時を経て熟成したとでもいうか、ミラノの街角の描写はもとより、登場人物たちと著者とをめぐる葛藤や共感などの描写のいちいちが、沁みてくる。ウマい。名文家つかまえて「ウマい」なんて、おこがましいにもほどがある、のだけど、しかたがない。適切な言葉が浮かんでこない。

まあ、年を取らないと分からないこともある、ということか。


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by t-mkM | 2017-07-26 00:52 | Trackback | Comments(0)

携帯電話のトラブル顛末

昨日、使っている携帯電話で、突然メールの送受信ができなくなった。
以下、ことの顛末。

出勤した頃には、いつものように登録しているメルマガなどを受信していたのだが、ふと思いついて週末のイベントのことで近所の方にメールを、と思って文面を打ち、送信しようとしたのだが、何度やっても「接続できません」と出て、送れない。
画面を見ると、アンテナは立っている。場所を移動してもダメである。
「もしや…」と思い、自分のPCから携帯電話にメールしてみると、受信もできなくなっている。何度「新着確認」をしても、「接続できません」と出て、メール受信もできない。

これは困った。
で、職場デスクにあるPCでネット検索。携帯電話会社のサイトにあるトラブル処理に該当するページを探し、そこに載っている対処法を試してみることに。

もっとも確実そうなのものに、「電源を切り、裏フタをはずし、いったん電池を抜き、あらためて差してみる」というのがあり、さっそくやってみる。
…が、やはり送受信できない。

じゃあ、ということで、そのページに載っている電話相談のフリーダイヤルにかけてみる。メールはダメだけど、電話はフツーに使えるのだった。
音声案内の、やたら面倒な手順を3段階くらい突破して、ようやくオペレーターに繋がる。そこでもさらに本人確認と称して、電話番号やら名前やらを確認され、ようやく懸案の事態を伝えることができるようになる。いやもう、面倒くさいこと!

で、オペレーターのお姉さんからいくつか問題解決への提案をいただいたのだが、もっとも有望そうであったのが、「ICカードの抜き差し」。当方の携帯電話では、電源を切って裏ブタをはずし、電池を抜くと、そこにICカードとmicroSDカードが挿入されているのが見える。で、そのICカードをいったん抜いて、ゴミなど付いてないか確認してあらためて入れ直す、というもの。

さっそくこれをやってみる。
「これで大丈夫か?」と思いきや、これでもメールの送受信ができない。

うー、仕方がない。
幸いにも近所に携帯電話会社のショップがあるので、そこへ行ってみた。

窓口のお兄さんに携帯電話を渡し、事情を説明して、「もう一度やってみてもらえますかね」と言われてメール受信してみる。そうしたら…、できるじゃないの!ナゼ?

「場所の問題なんですかねぇ。一時的な不具合でしょうか。」
「いやはやお騒がせしました。」
てなことで職場へ戻ったのだが、ナント、またしてもメール送受信ができない!

いやはや、もうなんだかワケ分からない。
ためしに建物を出て、その辺をウロウロしながらメール送受信を繰り返してみると、一時的にメールが繋がることはあるものの、概ねメール送受信はできないのだった。

ショップに再度聞くしかなかろう、ということで、さきほどの近所のショップに電話してみた。
対応に出たお兄さん曰く、「うーん、あと、できることはICカードの交換ですかねぇ」とのこと。
じゃ、お願いします、ということで、さっそく近所の携帯電話会社のショップにあらためて出向くことに。

このショップでも、ICカードの交換に際して名前と電話番号の書かされ、「ICカード故障再発行申込書」なるものが発行されて、ICカードの交換と相成る。ま、仕方がないというか、当然というか。
で、この結果、どうなったか?

ようやくメール送受信が復活、いままでのトラブルがウソのように、問題なく使えるようになったのである。

この携帯電話、購入してまだ1年以内で保証期間内であるため、上記のいっさいが無料だったけど、古い携帯電話だとどうだったのだろう。
いきなり不具合とか、まったくもって釈然としないし、あれこれ対応した時間たるや、まったくもってムダである。時間を返してもらいたい。
とはいえ、とりあえず直ってホッとした。

以上が、昨日、当方が経験した携帯電話トラブルの顛末。


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by t-mkM | 2017-07-21 00:55 | Trackback | Comments(0)

なじみの無い版元の2冊

すでに7月も12日である。
梅雨も明けないうちからこの暑さでダレているのか、すでに夏休みモードへ入りつつあるのか、巷はどことなくマッタリとした感じが漂っている、ように感じられる。
そんななか、最近読んだ本のうち、あまり見かけない出版社のもので印象的だったのを2冊ほど。

『本屋、はじめました』辻山良雄(苦楽堂、2017)

著者は、大学卒業後リブロに入社し、各地の支店で店長も務め、最後は池袋本店で閉店を見届けた後に、2016年1月に荻窪で個人の新刊書店「Title」を開業した、という方。その「Title」を開くまでの経緯を綴った本である。

ここ数年、個人で古本屋を開いた、という話しはワタクシの周辺でも聞こえてきたけれど、新刊書店を開業というのはほとんど覚えが無い。近所などを見渡しても、新刊書店は閉店が相次ぐばかりだし。(ここ最近では古本屋の開店、というのも聞かないけど)

この種の本だと、著者の熱い思いが綴られて…、といった感じかと思いきや、自身を見つめる冷静な目線や、ふり返って開業の経緯などを綴る文面は、むしろ淡々としている。そしてその分、腑に落ちるところが多いように感じられた。しかも、初期投資計画や初年度の収支決算まで載っていて、ここまで開示している"書店開業本"は、ちょっと無いのでは。

印象に残ったのは、どこで店を開くか、ロケハンと称して夫婦で尋ねた鎌倉と松本の印象を書いた箇所。店を開く、という視点ならではのように感じた。
また、カフェも併設しているため、ドリンク以外に何を提供するのか思考錯誤する箇所も目に止まった。なんだかんだで「個人店の楽しさが詰まっているのは飲食」という指摘には、こちらも「一日古本カフェ」なんてやったりしたこともあって、ナルホドと思ったり。

もう一冊は、ここで取り上げるのは珍しい写真集。

『写真集 浅草 2011-2016 六区ブロードウェイ 日本人の肖像』初沢克利(春風社、2017)

500ページを超える、すべてがモノクロの写真集で、ずっしりと分厚い。よって値段もけっこう(税抜7000円)する。
じつは図書館で見かけたのだけど、手にとってページを開くと、なぜか見続けてしまう。写っているのは、浅草に集ってくる、または住んでいる(と思われる)ごくフツーの人々である。重たいのは覚悟のうえで借り出し、最後まで2回、紙面をながめ続けてしまった。

浅草六区には大道芸をやる人がいるが、そこに集まってくる人々だけを捉えた写真が冒頭にまとめて掲載されている。たぶん、観客とともに大道芸をやっている方も映り込むようなショットで撮るのがフツーだと思うが、そうではなく、あくまでも観客だけを捉えた写真が続くのである。このはじまり方は、ずいぶんと変わっているのではないか。
そんな感じで、ちょっと他の写真集とは違っている(と思う)。

最後に載っている著者の文章によれば、欧米人と異なって日本人を象徴するような写真をなかなか撮れなかったが、大道芸を観る人を撮ることでそのヒントが見えた、と言う趣旨が書かれている。そんな目で写真集を見返してみると、また味わいが変化するようにも感じられた。



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by t-mkM | 2017-07-12 01:49 | Trackback | Comments(0)

最近の収穫、ほか

まもなく、都議会議員の選挙、である。
職を得て東京都民となってからこっち、都知事、都議会、区長、区議会と、都民・区民に関連する選挙ではあんまり迷わずに毎回投票してきたけれど、今回ばかりは、なかなか悩ましい感じである。
ま、ぶっちゃけて言えば、都議会の与党も野党も、そして今回新しくできたところも、みーんなひっくるめて、これまでになく、かなりイマイチであるからなんだが。ちょっとふり返るだけでも、築地市場の移転問題ばっかりがクローズアップされているのもなんだかなぁ、な感じだし、東京オリンピックに向けた費用分担はどこに行ったんだ!? これは争点にならないのか? 巨額の予算をどうするのか、という点ではどちらも同じくらいの重要度じゃないのか、とも思うのだが。
マスコミの動向調査などもあちこちで出てるけど、都議選のその後までも含めて考えると、どうももやもやした感じが…。

で、最近まとまって本の感想など書いている機会がないので、以下、簡単に最近の収穫を。

『花の命はノー・フューチャー: DELUXE EDITION』ブレイディみかこ(ちくま文庫、2017)

絶版だった名著に、新たな書き下ろし、未収録原稿を約200頁も加えた最強版!移民、パンク、LGBT、貧困層…地べたからの視点から“壊れた英国”をスカッとした笑いと、抑えがたい抒情ともに描く。「花の命は…苦しきことのみ」の言葉とともに渡った英国ブライトンで、アイリッシュの連合いと過ごす、酒とパンクロックの日々。
(以上はアマゾンの内容紹介から)


デビュー作の単行本に書き下ろしを大幅に加えて文庫化、というので新刊で購入して読んだ。
イギリス在住の著者が定期的に送ってくるネット上の配信記事を以前からよく読んでいる。反緊縮を鮮明にした「地べたからの視点」という立ち位置で、それなりに評判だったものの、イギリスが国民投票でEU離脱を決めた頃くらいから、あれよという間に注目の書き手に。著作も次々と刊行されている。

最近の文章と比べてみると、もう明らかに「若いよなぁ」という感じなのが、なかなか微笑ましいけど、そのスタンスは当初から一貫し、ぶれるところが無い、ということがあらためてよく分かる。
作家の佐藤亜紀が帯文を寄せていて、絶賛しているのもちょっと意外で注目させられる。

もう一冊。

『鬱屈精神科医、占いにすがる』春日武彦(太田出版、2015)

精神科医は還暦を迎えて危機を迎えていた。無力感と苛立ちとよるべなさに打ちひしがれる。しかし、同業にかかるわけにもいかない。それならいっそ街の占い師にかかってみようと思い立つ。はたして占いは役に立つのか。幾人もの占い師にあたっていって、やがて見えてきたもの……。人間が“救済"されるとはいったいどういうことなのか。私小説的に綴られる精神科医の痛切なる心の叫び。
(以上はアマゾンの内容紹介から)

筆致としてはとってもシニカルで、でも時にはコミカルにも響くような文体ではあるものの、語られる内容は上にもあるとおり、一貫して全編をとおして鬱屈している。
占い師と面と向かった際、「精神科医です」と自らの職業を述べると、とたんに警戒されるとあるけど、そりゃそうだろう。著者も、精神科医と占い師は似たようなところがあるというとおり、ある意味、人生相談めいたところにも踏み込まざるを得ないだろうし。精神科医は科学と、占い師は(例えば)タロットなどを手がかりに、悩み事に対する解決(解答)を示唆する、ってのも似てるし。

本書の中で、つらつらと自己分析を(鬱屈しながら)繰り返すなか、母親との関係が思いのほか自分自身の中で重い位置を占めていたことに気づく。要するに、自分が行うことについて、妻はもちろんだが、母親に認めてもらえるかどうかが自己評価の基準になっていた、というのである。この気づきの箇所は、自分自身における両親に対する思いなどもふりかえさせられた感じで、印象に残った。

全体として、結局のところ自虐ネタ?という気がしないでもないけど、自己分析を繰り返す文章それ自体がとても読ませる。


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by t-mkM | 2017-06-29 01:13 | Trackback | Comments(0)

じわじわくる映画『メッセージ』

日曜日、ひさしぶりにロードショーの映画を観に行った。

『メッセージ』監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ(原題「ARRIVAL」、2016)
公式サイト → http://www.message-movie.jp/

原作は、ベストSFランキングの類いでは必ず上位に顔を出す、テッド・チャン『あなたの人生の物語』という短編。知ってはいるけど、まだ読んだことはない。
ネット上で映画評論家の人が、「これまでのSF映画のなかでも画期をなす作品」みたいな絶賛レビューを書いており、「へぇ、それなら」と、観てみる気になったのだ。TOHOシネマズ日本橋にて鑑賞。そう広くない劇場ではあったけど、けっこう入っていたな。
ストーリーを記せば以下のとおり。

突如地上に降り立った、巨大な球体型宇宙船。謎の知的生命体と意志の疎通をはかるために軍に雇われた言語学者のルイーズ(エイミー・アダムス)は、“彼ら”が人類に<何>を伝えようとしているのかを探っていく。
(以上、公式サイトより)


眠くなるか、なんて思ったけど、まったくそんなことはなくて、最後まで画面に引きつけられていた。
で、引きつけられてはいたけれど、最後に「ARRIVAL」のタイトルが現れて「はぁ、なるほど…」とは感じたものの、もやもやとした疑問がアタマに残りつづけ、釈然としない気分がある。ちなみに、エンドロールがはじまると、すぐに席を立って帰る客が一定数いて、「最近じゃめずらしいかも」とちょっと思ったりしたけど、たぶん似たよう消化不良感を抱えていたんだろうなぁ。

言ってみれば「ファースト・コンタクト」ものの一変種。
ただ、その「コンタクト」を媒介するのが、映像化しにくいと推測される「言語」である、というところと、現実世界の状況がわりとリアルに(というか身もフタもなく)ストーリーに反映されているのがミソ、かな。

映画のなかでとくに印象的だったのは、ヨハン・ヨハンソンによる音楽と、それに響き合うかのように繰り返し描写される、彼らエイリアンの発する"言葉"、というか"文字"。あんまり詳しく書けないけど、円環をなすかのような、まるで墨絵みたいな文字で、表義文字、という分類になるらしい。この円環をなす、という文字のビジュアルが、キーとなる人物の名前や、映画自体のやや込み入ったストーリーとも絡まるところがある、とも言える。

冒頭から何度もフラッシュバックする主人公とその娘との交流シーンと、エイリアンの出現に混乱しつつもコミュニケーションをはかろうとする各国の努力にも関わらず、結局は暴力へと転化せざるを得ないような社会の現実とせめぎ合うメインのストーリーが、ラストで交錯することになる場面での驚きと含意は、なかなか言い表すことができない。ハッピーエンドか、バッドエンドかを超えて、むしろ見終わってからのほうが、その意味を考え続け、じわじわくる気がしている。

エンディングが分かった上で、さらには原作も読んでから観ると、また異なった印象になるのかも。ともあれ、ぜひまた再見したい。



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by t-mkM | 2017-06-21 01:00 | Trackback | Comments(0)