<< お知らせ>> 古本Tの活動、など

(通常の日記はこのエントリの下から始まります)

◆ 鎌倉「ヒグラシ文庫」での常設棚 ← 11月18日(土) に追加補充 !!

 鎌倉の立ち飲み処「ヒグラシ文庫」店内で古本を委託販売しています。鎌倉・小町通りから
少し路地を入った雑居ビルの2階。鎌倉へお越しの際にはぜひお立ち寄り下さい。
  <ヒグラシ文庫> http://www.facebook.com/higurashibunko
   所在地:鎌倉市小町2-11-11 大谷ビル2F (JR鎌倉駅より徒歩4分)
   営業時間:16:00~23:30(原則 年中無休)
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# by t-mkM | 2017-12-31 23:59 | Trackback | Comments(0)

『すべての四月のために』@東京芸術劇場 を観てきた

ひょんなことから知り合いよりチケットを譲っていただいたので、21日(火)、池袋の東京芸術劇場で舞台を観てきた。
以下、webサイト「PARCO STAGE」からの記事を貼り付け。

『すべての四月のために』
公演日程:2017年11月11日 (土) ~2017年11月29日 (水)
会場:東京芸術劇場 プレイハウス
作・演出:鄭義信
出演:森田剛
   臼田あさ美 西田尚美 村川絵梨 伊藤沙莉
   小柳友 稲葉友 津村知与支 牧野莉佳 斉藤マッチュ 浦川祥哉
   近藤公園 中村靖日 山本亨 / 麻実れい

特設サイト→http://www.parco-play.com/web/play/subeteno/

これもPARCO STAGEから、舞台の説明。

……
 「焼肉ドラゴン」「パーマ屋スミレ」「たとえば野に咲く花のように」で、1950年代から1970年前後までの、在日コリアンの家族を描いてきた鄭義信が今回舞台にするのは、第二次世界大戦下の朝鮮半島近くに浮かぶ島。理髪店を営む朝鮮人一家(夫婦と四姉妹とその夫)と、彼女らを取り巻く、朝鮮人、日本人軍人たちの物語です。

戦時下という困窮した日常の中で、愛し、憎み、泣き、笑い、未来への道筋を何とか手繰り寄せようと愚かしくもがく人々の姿を描き、彼らの情けなくも愛おしい姿を通して、人間存在の本質をあぶり出し、時に重く、鋭く、人生、民族、時代を照射します。


森田剛という人を、俳優として認識したのは、相方が勧めてきた映画『ヒメアノ〜ル』。
(じつを言えば、この映画を観るまでは役者をやっていることはおろか、ジャニーズのV6のメンバーでアイドル、という"属性"すら知らなかった)
この映画での、連続殺人鬼である主人公を演じた森田剛の存在感は圧倒的で、強く印象に残った。そんなことがあったので、「今回の舞台チケットがあるよ」と知り合いから連絡をもらったとき、相方ともども手を挙げたのだった。

舞台は18時半の開演。
途中で15分の休憩をはさみ、前後半とも80分あり、ほぼ3時間なので終演は21時半。これほど長い舞台は、水族館劇場以来か。

どうしても森田剛にスポットが当たるのか、彼が主役という位置づけで舞台の紹介がなされているけど、この舞台での森田剛の配役は、あくまでも、理髪店の朝鮮人一家とその家族をとりまく人々を織りなす群像劇のなかの一人。存在感はあるものの、主役というほどではない(ただまあ、冒頭とラストで印象的な役柄を演じるけど)。どちらかというと、理髪店の四姉妹を演じる女優陣のほうがメインだろう。

母親、四姉妹の女優陣の演技が印象的だったけど、なかでも四女が繰り返し歌う、「春は梅・桃・桜で一杯~」という、酒飲みのお囃子とでもいった歌が耳に残る。そして、(上演中の舞台なので詳しく書けないけど)この四女が取る行動とその結末についても、戦時下の特殊事情があるだろうとはいえ、意外な設定で「へぇ」と感じた。

全体として暗いトーンになりがちな設定ではあるものの、随所で吉本新喜劇のような笑いやズッコケも入ってきて、笑わせる。冒頭、夫婦のやりとりはやや冗長に感じられたけど、家族をとりまく喜悲こもごものエピソードをじっくりと積み重ねてたどり着くラストでは、登場人物たちの感情が迫るものがある。

戦時中の、それも半島そばにある島の朝鮮人一家をめぐる話という内容なんだけど、観客はというと、若い人から中(高)年までの女性ばっかり。まあ、中高年男性もちらほらは見かけたけど、この舞台でこの客層には、ちょっと驚き。ジャニーズ事務所の集客力のすごさ、かなぁ。



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# by t-mkM | 2017-11-28 01:31 | Trackback | Comments(0)

IMAXで見た『ブレードランナー 2049』

またも1週間ぶりの更新である。
この土曜日、ひさしぶりに鎌倉へ行って、ヒグラシ文庫で委託販売している本の精算と補充をしてきた。
以前と比べると売れ行きはいまひとつ、というのは相変わらずなんだけど、ちょぼちょぼとは売れ続けているようではある。しばらく前から、カウンターの中に入る店の方々が様変わりしていることもあり、常連のお客さんも変わってきている感じ。そんなことも影響しているのかなぁ。ま、でも、たまにしか精算に行かない身としては、よく分からないが。

そして翌日曜日。
都内での公開が終わりつつある、というので、『ブレードランナー 2049』を見てきた。
2度目。前回はフツーの劇場だったけど、今回はIMAXで。

初回に見に行く前、前作『ブレードランナー』のファイナルカット版を安価で購入し、何度か見て"復習"した。さすがに細部は忘れていたし、続編を謳っている以上、前作を見ないことにはワケ分からんだろうと思ったので。
結果から言えば、これは正解。と言うより、前作を見ていない(憶えていない)と、『ブレードランナー 2049』の面白みは半減だろうと思う。しかもわりと長い(2時間43分)ので、映像はまだしも、ストーリー的には大半でついて行けないという事態になりかねない。

そして2回目。
3Dで、とも思ったのだが、すでにメインの劇場ではやっておらず、IMAX2Dにした。レプリカントである主人公Kの乗るクルマが疾走するシーンなど、3Dだとより臨場感あるようにも思うが、見終わって「まあIMAXで見る価値は十二分にあるが、3Dまでは要らないか」と感じた。

前作を"復習"したおかげもあり、そして2回目でもあり、とても楽しめた。というか、前作にひけを取らない傑作なんではないの? と思ったな。制作にリドリー・スコットが入っていることもあり、前作への多大なるリスペクトのうえ、制作陣の総力?あげて作られた正統で豊穣なる続編、とでも言うか。
とくに前作『ブレードランナー』への思い入れがあるわけではないんだけど、前作の舞台から30年後となる世界を、前作から地続きで、かつ今どきの世相を取り入れつつエリアを拡大して描いたビジュアルには、うなるほかない。
前作とのつながりで言うと、デッカード役のハリソン・フォードが出てくるのは物語もかなり後になってから。メインは主人公Kの話として進む。後半、レプリカントの反乱軍が出てくるんだけど、「大義に殉じた死」みたいなセリフがあり、現実世界でもくり返されてきたことがここでも…。まあ、全体的に暴力のトーンは色濃く、あえていえば戦争映画の一変形とも言えるか。
また、さまざまなガジェットや小物、映像の細部にも深読みをさそう描写があちこちにあって、その読み解きも興味をそそられ、繰り返し観たいと思わせる。

それから音楽。ノーラン監督『ダンケルク』でも音楽を担当したハンス・ジマーがクレジットされているせいか、映画の全編で重低音が響き渡っている。雨(酸性雨らしい)の降りしきるLAの街並みや、廃墟となった砂埃舞うラスベガスなど、沈んだトーンの風景の映像と組み合わされて強く印象に残る。

前作から実時間で35年、前作を見ていない人にはなかなか入り込めない(と思われる)ストーリーなので、制作には高いハードルがあったと思うけど、よくぞここまで作ったよなぁ。
この手のSFに少しでも興味があれば、前作を復習して見る価値は十分にあり、です。それも劇場、できればIMAXで。


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# by t-mkM | 2017-11-22 01:40 | Trackback | Comments(0)

世界市民とただの人、のありよう

あれやこれやと、降って来るコトをこなしているうち、すでに11月も半ば。
この間、『ブレードランナー 2049』は観たものの、これといった本にもめぐり会っておらず、書きあぐねてきた。
そんな中、ちょっと「おっ」と思わされた文章を目にしたので、備忘録的にメモ。

ちなみに、みすず書房の月刊誌(と言っていいのか?)『みすず』、どの書店でも手に入るような感じではないけど、いまある雑誌のなかで、面白さ(と安さ)では個人的には筆頭にくる、と感じているんだけど。

『みすず』2017年9月号(みすず書房)
加藤典洋『五月の「「戦後」再考」ワークショップを思い出す』より

 曰く、日本の護憲論(戦後平和思想)の構造は、二階建てになっている。二階部分は、論理整合的な憲法九条護憲論であって、立憲主義などをめぐる憲法学者、この問題について、さまざまに論じている。まだ多くの知識人が加害責任を論じている。しかし、これをささえる一階部分を作っているのは、「正義の戦争よりは不正義の平和がよい」「とくかく戦争はいやだ」という、被害者意識に染まった、戦争体験に根ざす、ただの人の非論理的で身体的実感的な平和思想(平和意識)である。しかし、この二つの全く異質なものの二階建て構造こそが、いま、日本の平和思想の力の源なのだと考えるのがよいのではないか。私の考えでは、この二階建て構造のうち、一階の身体的実感的部分が二階の知的確信的部分に負けないだけの力をもち、両者が生き生きした拮抗状態にあるとき、この思想は、力をもつ。現実の壁にぶつかったあと、この一階と二階のズレ、不整合の「破れ目」から、いわば二階の論理的整合性に亀裂を生じさせ、自己変成する力を作りだし、(従来の価値観から見れば)変節し、転向し、変態をとげ、別のものに変わり、新たな現実へ即応していく、というのがそこでの可能性の内実である。
(中略)
 さて、こう述べて、岩波講座で、私は、現在、同じく現実の壁にぶつかっている戦後の日本の護憲論の二階建て構造ーー精緻な平和論・立憲主義の二階部分と「とにかく戦争はいやだ」という一階部分からなるーーにとっても、この一階部分と二階部分の拮抗こそが、自己変革のカギとなる。そこでは、「とにかく戦争はいやだ」という一階部分の声に押されて、二階部分が仕方なしに変わる、ということが、ありうべき変革のカギになる、というか、「変節」は護憲論においてそのようかかたちでしか自己を貫徹する形では起こりえない、と述べた。
 これをワークショップの議論、世界市民とただの人をめぐる質問に戻せば、こうなるだろう。つまり、一方(世界市民)は、理論的な整合性に立つ知的な確信の主体であり、他方(ただの人)は、論理不整合の体験に根ざす身体的な実感の主体である。しかし、一つの信条、信念、論理、イズムのなかには、つねにこの二つの異質な力源がある。その二つのものの、異質性、相克、葛藤のうちに、信条、信念、論理、イズムが現実にふれて、相互に影響を行使しあうことの原理的力源が、あるだろう。
 世界市民とただの人が、一人の人間のなかに、あるいは一つの思想信条のなかに、共存することのうちに、いま私たちが手にしうる変革の可能性の糸口が、あるだろう。

以上、p28~30


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# by t-mkM | 2017-11-14 01:05 | Trackback | Comments(0)

「山口百恵」というアイドル

こんな本が出ているのを、行きつけの図書館で知る。

『相倉久人にきく 昭和歌謡史』相倉久人 松村洋 編著(アルテスパブリッシング、2016)

もちろん、さっそく借り出して読んでみたけど、知られざるエピソードがあちこちに出てきて、これがなかなか面白い。
エノケンから戦時歌謡まであって、さすがにワタクシにはなじみがないけど、やはりリアルタイムで経験している昭和歌謡からニューミュージック、そして平成に至る箇所が個人的には興味深かった。

なかでも、もっとも印象的だったのは、山口百恵のつぎのエピソード。
ちょっと長いけど、該当箇所を抜き書きしておく。

第8回 アイドル歌謡を聴き直す

......
松村:1970年代のアイドルと言えば、キャンディーズも忘れるわけにはいかない。キャンディーズは人気絶頂の1977(昭和52)年7月、日比谷野音のコンサートで、事務所の承諾を得ずに突然、解散・引退を宣言しました。

相倉:まあ、彼女たちが事務所にただ引退を申し入れても、聞き入れられるわけないんですよ。それで「私たち九月でやめます!」って、ステージで言っちゃったんですね。「普通の女の子に戻りたい」って。
 ちょうどその直後に、小学館の『GORO』という雑誌がとんでもない企画を立てましてね。ロック評論家四人が山口百恵に会うという企画。小倉エージと北中正和と僕、それともう一人、鏡明という電通のディレクターでSF作家でもある人がいるんですが、その四人でね、彼女に会ったんですよ。
 いろいろ話しているうちに、鏡明が「ところで百恵ちゃん、キャンディーズの問題どう思う?」ってきいたんです。彼女は、もう言下に言いましたね。「あれは、つまんない話だと思う」って。「えっ、どうして?」ってきいたら、「だって、私だって今こんなわけのわからない生活してますよ。でも、心の中では、普通の十九歳の女の子だと思ってます。そう思ってなかったら、こんな仕事やっていられません。だから、あの人たちが、本当に心から普通の女の子に戻りたいって言うんだったら、さっさと辞めればいいでしょう」って、すごい冷たいことを言うんですよ。その話を聞いた四人は、わぁー、今の話を聞いただけできょう会いに来た甲斐があったねって、意見が一致しちゃったんですけどね。
 ところが「でもね」って、そこでもやっぱり「でもね」が入るんですよ。「でもね、ああ言って辞めるのはいいですよ。ところが、こういう芸能界ですからね。一年、二年経つと、誰も憶えていないっていうことになる。たまたまスーパーへ買い物に行って顔を見られても、何も言われない。そうなってしまって、寂しくなって芸能界へ戻ってくるようだったら、あの人たちの負けですよね」って言ったんですよ。びっくりしましたね。
 それを聞いてますから、彼女が三浦友和と結婚して辞めると言ったとき、よほどのことがない限り、どう口説いてももう絶対に出てこないと思いましたね。そういう、しっかりした人です。
(以上、p235~236)



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# by t-mkM | 2017-10-25 01:31 | Trackback | Comments(0)

『ダンケルク』2回目の鑑賞

10月8日、日曜日。
先週につづいて木場の109シネマズに行き、クリストファー・ノーラン監督の最新作『ダンケルク』をIMAXで観てきた。同じスクリーンで、2回目の鑑賞(我ながら、好きだよなぁ)。

以下は「YAHOO! JAPAN 映画」からのあらすじ。

1940年、連合軍の兵士40万人が、ドイツ軍によってドーバー海峡に面したフランス北端の港町ダンケルクに追い詰められる。ドイツ軍の猛攻にさらされる中、トミー(フィオン・ホワイトヘッド)ら若い兵士たちは生き延びようとさまざまな策を講じる。一方のイギリスでは民間船も動員した救出作戦が始動し、民間船の船長ミスター・ドーソン(マーク・ライランス)は息子らと一緒にダンケルクへ向かうことを決意。さらにイギリス空軍パイロットのファリア(トム・ハーディ)が、数的に不利ながらも出撃する。

同じ「YAHOO! JAPAN 映画」の解説の最後に、
「圧倒的なスケールで活写される戦闘シーンや、極限状況下に置かれた者たちのドラマに引き込まれる。」
とあって、それはまあその通りで、2回見てますます「希有なる傑作」感を強くしたんだけど、ネットをうろうろすると、意外にも評判はそれほどでもないようで、よくある星マークも5点満点で4点には届いてない感じ。

「時間軸が入り乱れて分かりにくい」「ストーリー性に欠けるので、感情移入しにくい」「ドラマ性が薄く、カタルシスにまで行かない」などなど、なかには「まったく評価しない!」といった意見もちらほら見かけた。
まあ、どれもさもありなん。

たしかに、1回目に見たとき、「防波堤、1週間」「海、1日」「空、1時間」という3つの視点の説明がでてくるものの、その3視点から繰り出される圧倒的にリアルな映像がランダムにシャッフルされながら進んでいく展開には、ちょっとついていくのに苦労した。
でも、この時間軸の異なるドラマが、後半にいたってようやく時制が一致して描かれる場面の盛り上がりなど、周到に計算された画面作りだと(2回見てつくづく)実感できた。

そもそも、史実にもとづいた戦闘を描いた映画ではあるけど、ノーラン監督も言ってるらしいが、これはフツーに言う「戦争映画」ではないだろう。
登場人物の内面を描くような描写はほぼ無く、また批判コメントでもあったようにストーリーもほとんど無いので、キャラクターの個性は最初から必要無いかのようである。登場する兵士たちは、いま、自分たちがどういう立場にいて、全体状況のなかでいかなる位置にいるのか、ほとんど分かっていないと思われる。

が、しかし…。そもそも、戦争における一兵士とは、ぶっちゃけ、そういうものではないのか。
とりわけ、戦闘の最前線ともなれば、敵をたおす、敵からのがれる、そのためにやむをえず闘う、反撃する、逃げる…。そこに思考やら個性などが入り込む余地は、たぶん無い。映画では、ドイツ軍の戦闘機によって爆撃され、あちこちで吹き飛ぶ英仏軍兵士が描かれるが、義性になるのか、生き残るのか、それは単なる偶然だと否応なく見せつけられる。

そもそも、冒頭の説明からして、「ドイツ軍」とは書かれておらず、「The enemy」としか書かれない。たしか、指揮官らが口にするセリフも「敵」である。つまり、第2次大戦の史実にもとづく映画ではあるけど、それらの属性を抽象した、壮大なる撤退戦としての側面のみを描いた映画だと、最初から提示されているわけだ。

ただし、私たちは現在の地点から、この後、「敵」であるドイツ軍は敗北し、連合軍が勝者となったことを知っている。
この"ダンケルク"という撤退戦が、のちに及ぼした影響については、よく分からない。ちなみにイギリスでは「ダンケルク・スピリット」という言葉があるらしい。
そんなことを思うと、この映画では語られないけど言外に伝わってくることは、
「いまの世界、とりわけ欧米諸国(とその周辺)で起こっているのは、つまりは「撤退戦」と言える。その撤退戦をいかにして乗り越えるかが、つぎの未来へつながるのではないか」
といったようなことではなかろうか。

2回鑑賞してみて、ベタではあるけど、そんなふうに感じたのであった。


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# by t-mkM | 2017-10-17 01:39 | Trackback | Comments(0)

面白い、『海亀たち』加藤秀行(『新潮』8月号)

先日、クリストファー・ノーラン監督の新作映画『ダンケルク』をIMAXで観てきた。
ネットでの評判を見ていると、評価が分かれているように感じていたけど、いやいや、どうして。「何が面白いのか分からん」という感想も散見されますが、ワタクシとしては「どえらい映画を撮ってくれたな」という感じ、いやもう参りました。ラストでは胸に迫るものがあります。詳しくはあらためて。
ぜひともIMAXで観るべし。

それで、最近の雑誌から。
まあ、雑誌といっても文芸誌に掲載の新作小説なんだけど、こんなのを読んでみた。

『海亀たち』加藤秀行(『新潮』2017年8月号所収、190枚)

以下は雑誌の目次に載っていた説明。

「日本を離れ、ベトナムで失敗し、タイの雇われ社長になった。俺がここにいる理由はなんだろうか? 挑み、もがき続ける青年の彷徨。」

作中にも出てくるけど、海亀とは、海外からの出戻り組、のこと。
この著者の小説は初めてだけど、今どきのグローバル経済においての、上昇志向?かつ先端的なうごめきに絡んだ話しをもっぱら書いている人のようである。
この小説も、国境を越えて人々が頻繁に出入りする経済圏で、主人公たちが生き馬の目を抜くような行動をしながら、それでいてどこかまったりしているかのような感じが新鮮に映った。

以下は、作中で目に止まったフレーズをいくつか抜き書きしたもの。

「俺が育った街って地方の中核都市なんですよ。東京や大阪ほど巨大ではないけれど、必要なものは全部揃うし、就職して一生を預けられるような大企業もいくつかあるし。なんていうか、狭いな、って思いながらその中で育ったんです。領域が限られて、みんなの目に見える中心がある。つまりよくある城下町なんです。でも、その設計は今の世界を前提としていないですよね」
「なるほどね」
「そういう、閉鎖性っていうか、限定された領域の中での中心とかマジョリティを有難がる感じっていうか、そういうのが宗教みたいに感じてどうも肌に合わなくて。どっかおかしくない? ってずっと思ってて。それがアジアに出てくる原点になってるっていうか、別にそこまで強い思いじゃないんですけど、たまにふと思い出すんですよね」
(p71)

「なんか、客と商品はどんどん近くなってる気がするんですよ。でも売り手と客の距離は離れていって、お互いの顔がどんどん見えなくなってる気がするんです」
(p88)

「中国国内にいるのは愛国的資本家かもしれないが、国外にいるのは資本家的愛国者だ」
と彼は答えた。
「何代離れても、我々は決して根無し草(デラシネ)ではない。中心への希求を持ち続ける離散民(ディアスボラ)だ」
(p90)


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# by t-mkM | 2017-10-04 00:46 | Trackback | Comments(0)

韓国映画ってすげえな・『新 感染 ファイナル・エクスプレス』

たまに見ている、映画評などを載せているブログで、かなりの高評価だったこともあり、「それじゃあ」と観てみた。

『新 感染 ファイナル・エクスプレス』(韓国、2016)
 監督:ヨン・サンホ  上映時間:118分
 原題「Train to Busan」
 公式サイト http://shin-kansen.com/

監督のヨン・サンホという人は、韓国のアニメ界では著名だそうで、これが初めての実写映画とか。
あらすじは、映画.com にあったものがいちばん的確だったように思えたので、以下に引用。

ソウルとプサンを結ぶ高速鉄道の中で突如として発生した、謎のウィルスの感染拡大によって引き起こされる恐怖と混沌を描いた韓国製サバイバルパニックアクション。ソウルでファンドマネージャーとして働くソグは妻と別居中で、まだ幼いひとり娘のスアンと暮らしている。スアンは誕生日にプサンにいる母親にひとりで会いにいくと言い出し、ソグは仕方なく娘をプサンまで送り届けることに。ソウルを出発してプサンに向かう高速鉄道KTXに乗車したソグとスアンだったが、直前にソウル駅周辺で不審な騒ぎが起こっていた。そして2人の乗ったKTX101号にも、謎のウィルスに感染したひとりの女が転がり込んでいた。主人公のソグ親子のほか、妊婦と夫、野球部の高校生たち、身勝手な中年サラリーマンなど、さまざまな乗客たちが、感染者に捕らわれれば死が待ち受けるという極限状態の中で、生き残りをかけて決死の戦いに挑み、それぞれの人間ドラマが描かれる。

主人公ソグの仕事や家庭にからんだ出だしの部分は、ややたどたどしいように進む。けど、別居中の妻に会いに行くため、娘とKTXに乗車してから先は、なんというかもはや一気呵成、これでもかというような怒濤の展開で、画面から目が離せない。

ゾンビ映画、パンデミックの恐怖を描いた映画、そしてパニック映画。いろんな要素が詰め込まれていて、しかもきっちり?と泣ける。韓国では初めて撮られた実写のゾンビ映画だそうだけど、いやもうすごいね。久しぶりに韓国映画の新作を観たけど、韓国映画スゴイ。これ見ちゃうと、このところの邦画のエンタメは、総じて見劣りしてしまうかなぁ。

ゾンビ映画とは言っても、登場する人物がしだいに血まみれになっては行くものの、グロいシーンはほとんどない。感染者の行動なんて、いかにもな動きでコミカルですらある。それでも、感染した人々が集団となって襲いかかってくるのはパニックだよなぁ、とヒシヒシと感じられるし、後ろから山がつぎつぎと大きくなるような、感染者がわいて出てくる場面などは、見ているだけでも恐ろしい。

また、走る列車内という密室状況で、生き残りをかけた人間のエゴがむき出しになり、身勝手な行動だけど極限状況のなかで周囲も(いとも簡単に?)同調してしまうところなんかも上手く描かれていて、なかなか奥行きがある。(原題の「釜山行き列車」には、朝鮮戦争で突然ソウルに攻めてきた北朝鮮軍から逃れて南へと下っていった韓国軍という意味合いもかけられているらしい。それと、各車両の自動扉などがゾンビたちを防ぐ"防護壁"としてしばしば描かれるけど、これは38度線のメタファーだとか)

ラスト、「ここまで引っ張って来て、バッド・エンディングなの?」と思いきや、最後の最後の演出で泣かされました。書けませんけど、ここはグッときますねぇ。
吹き替え版でもう一回見てみると、いろいろ発見がありそうかも。すでに反響がいろいろあるようで、今年の収穫映画。オススメです。



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# by t-mkM | 2017-09-29 01:33 | Trackback | Comments(0)