人気ブログランキング | 話題のタグを見る

『ハンチバック』のインパクト

近所の図書館に行ったら、芥川賞受賞作である『ハンチバック』の掲載号があったので、借りてきてさっそく読んだ。

『ハンチバック』市川沙央(『文藝春秋』2023年9月号所収)

2段組とはいえ、全文36ページなので、そう時間かからずに読める。
著者ご自身が障害者でもあることから、すでに各方面で話題にもなっていて、それらをいくつか見かけてもいる。

で、改めて小説を読んで、いやまあ、絶賛にも近い状況となっていることについて、もさもありなん、と思った。強烈なインパクトである。
扱われている事柄も、その具体的な描写も、主人公が周囲を見ている目線、そして内面のありようも、全くもってなかなかにすごい。
…”すごい”というのも舌足らずではあるのだけど、ちょっと言葉が見つからない感じ。

芥川賞の選考委員である吉田修一が、この小説を「とにかく小説が強い」と評していたけど、まさしくその通りで。
一方、他の選考委員では(少数だけど)異論もあって、松浦寿輝は、

…複雑な層をなしているはずの主人公の心象の、いちばん激しい部分を極端に誇張する露悪的表現の連鎖には辟易としなくもない。この辟易感は文学的な感動とはやはり少々異質なものではないか。

と書いていたけど、この感じもまあ分かる。
とはいえ、各選考委員も揃って評価しているとおり、そういう”辟易感”をも超えて、読み手の内部を抉るかのようなインパクトがあることも明確ではないか。

なお、受賞者インタビューのなかで、著者はこんなことも言っている。

— 読書だけでなく「書く」ことにもマチズモを感じることもありますか?
市川 これはあります。そもそも西洋由来の理性主義は、ものを考えて発信することを人間の基本としていますが、私はそれは人間の定義として狭すぎると思う。人間から生まれて人間の総体の一部を成すものは人間なんです。ものを考えなくても、喋れなくても、書けなくても。しかしこの社会は、読むこと、書くこと、話すことを基礎として出来上がっている。話せる人、書ける人の言葉が影響力を持ってしまう。だから重度心身障害者の大量虐殺のようなことが起きるんです。書くことの神聖視は理性主義を強化してしまう一面があるので、私は好きではありません。
(『文藝春秋』2023年9月号、p222)


著者の次作が楽しみだ。



# by t-mkM | 2023-11-29 02:06 | Trackback | Comments(0)

『日本の歪み』を読む

久しぶりのエントリは以下の本から。

『日本の歪み』養老孟司 x 茂木健一郎 x 東浩紀(講談社現代新書、2023)

いろいろと興味深い箇所があったのだけれど、印象に残っているところを、少し長くなるが写経した。

日本語は事実確認に向いていない
養老 言葉は社会を規定できるか、というのが憲法問題の根底にあるという話をしてきましたが、言葉の問題についてもう少し掘り下げて話してみたいと思います。
 昆虫の分類をやっていると、ここがどうなっているとか、いちいち言葉で書かなくてはいけません。(中略)解剖学でも分類学でも、根本的に問題はどう言語化するかです。
 なぜかといえば、ヨーロッパの学問は、物と言語の結び付きが強いからです。裁判でも欧米は証言主義で、何を言ったかが証拠になるから、弁護士は余計なことを喋るなと言う。逆に日本は心情主義で、その人がどう思っているかが重要になる。
 「事実」「言葉」「言葉を使う人」の三つがあるとしたら、日本の場合は「言葉」と「言葉を使う人」の関節が硬いけど、欧米では「事実」と「言葉」の関節が硬い。「事実」と「言葉」の関節が硬いからこそ、法律にも公文書にも意味があるわけです。でもそこがずるずるな日本では、公文書もクソもないから、そんなものはどっかいってもおかしくない。
 (後略)

 今のお話を哲学的な言葉に引きつけて言うと、言葉には「事実確認的機能」と「行為遂行的機能」があると言われます。そこで日本語では「行為遂行的機能」がとても強い、だからだから事実確認の言葉として使いにくい、ということだと思います。
 言葉と現実がどう結びつくかというさきほどまでの話とも関係しますが、日本語では言文一致もあまりうまくいっていません。外国の学会では講演原稿を作って読み上げることがあります。でも日本語でそれをやると「原稿を読み上げている講演」になってしまって、聞き手の理解を阻害してしまう。これは話しての技術の問題ではなく、じつは言葉そのものの問題なんですよ。
 多くの人があまり意識していないのですが、日本語は、書く言葉と話す言葉にかなり明確な違いがあります。「だ、である」「です、ます」の違いもその一例ですが、それ以上に語彙も違う。耳で聞いても理解できないけれど、読んだらわかるという言葉がたくさんある。プレゼンやスピーチが苦手な人が多いのはそれが理由だと思います。明治以降の日本語の標準化のプロセスで、何か失敗したように思います。
養老 日本は昔から「読み書きそろばん」ですから。つまり、「読み書き」が日本語であって、お喋りは入っていない。ところが古代ギリシャでは、ソフィストという、弁論術を教えることを仕事にしている人たちがいた。そのくらい話すことに対する考え方が違いますね。日本でそんなことしようとしたら、「お前、落語家にでもなるのか」で終わってしまう。
 たしかに「話す」のを職業にするというと、落語をやるくらいの受け取られ方をしますよね。いまは弁論術イコール論破みたいに受け取られてしまっていますが、本来は話す技術とは、聞く技術でもあります。だから、話す技術が教えられていない日本人は必然的に聞く技術もなくて、インタビューもすごく苦手なように思います。
 僕はゲンロンカフェを10年以上やって、たくさんの人の話を聞いてきましたが、そこで気付いたのは、日本のアカデミシャンは聞く力が弱いということです。自分の主張ばかりする。話し相手がいつも生徒や同僚なので、自分の研究の内容を「教える」という関係しか持ったことがなく、対等な対話の訓練を受けていないように思います。このことと養老さんのお話はすごくかかわっている。
 厳密には異なるのですが、さきほど述べた「事実確認的な言葉」と「行為遂行的な言葉」の違いは、「書く」と「話す」の違いに重なるところがあります。話すことには必ず発話者がいます。話を聞いているときは、発話者が目のまえにいる。けれども書くことは逆に発話者を消すものです。日本語で言文一致がうまくいっていないのは、この二つの用途の言葉が別々に発達しているためだと思うんですよね。「目の前の人間に対して話し言葉で客観的なことを伝える」というのができない。だから僕は、書く日本語と話す日本語が違うことを教育課程できちんと教えるべきだと、昔から思っています。しゃべるように書いてはだめだし、書いたまましゃべってはだめなんです。意識的に使い分けられるようになると、みんなもっと日本語がうまくなるはずです。
(中略)

 …日本語は第三人称を作れていないという話になる。客観的記述に向いた日本語が作れていない。
茂木 どういうことですか?
 日本語の張り紙って文章が長いですよね。「No Smoking」で済むことが、「ここでは煙草はご遠慮ください」になる。「ここは禁煙である」と書くことが失礼に当たるように感じてしまうからです。事実をそのまま述べると失礼になるというのはすごく変なのですが、日本語ではそういう感覚がある。それはつまり、日本語では「事実確認的な言葉」も「行為遂行的な言葉」として受け取られがちだということです。ツイッター(現X)なんかでも、「AはBである」と言うと「そういう断言はいかがなものか」という批判が返ってくることがあるでしょう。「AがBであることが事実稼働か」ではなく、単に言い方がよくないというリプライが来ちゃう。そういうことがすごく多い。つまり、日本語には「AはBである」とだけ淡々と書く言葉の形がないんですよ。でも、「ここは禁煙である」と書いたらおかしいということが、本当はおかしい。
養老 明治はそれを漢文にしてなんとかしましたね。
 おっしゃる通りで、伝統的にはそういうものは漢文にアウトソースしていたのだと思います。「煙草は吸うな」はダメでも「禁煙」は許された。それが「禁煙」だけでも失礼だということになり、どんどんぼんやりとした表現になっていった。
 これは、日本語話者のほとんどが日本語ネイティブであることにも関係していると思います。皆が細かい差異に敏感で、イントネーションや語尾などに過剰なメッセージを読み取りがちです。日本語の張り紙に併記されている英語表記がしばしばPleaseから始まる奇妙な文になりがちなのも、「ご遠慮くださいませ」みたいなニュアンスを無理に直訳しようとしてしまうからでしょう。

(以上、p133~138)



# by t-mkM | 2023-11-16 02:43 | Trackback | Comments(0)

最近の雑誌から

久しぶりになるけど、今回は『月刊 みすず』2023年8月号。
これが紙媒体では最終号となるようだ...

近年の雑誌の中では、充実した論説等が載る数少ない「紙の雑誌」だと感じていただけに、たいへん残念である。

で、その中から、目に止まった箇所をピックアップ。
「忘れる、繰り返す、変化する」藤山直樹 から


 …東京の江戸前の鮨屋には圧倒的に「おまかせ」のスタイルが隆盛している。基本的に予約制で、座ったら客は飲み物だけを注文する。すると、何品かの抓みがでて、そのあと鮨が供され、最後に巻物で玉子で一通り、ということになる。昔からあった江戸前の鮨のシステム、すなわち「お好み」のスタイルは、とにかく客が食べたいものを言えば親方が出してくれる、というシステムだ。抓みを食べずにいきなり握ってもらってもいいし、おいしいと思えば何貫か同じネタを握ってもらってもいい。つまり親方は客の注文に合わせて仕事をする。それに対し、「おまかせ」では親方は自分のペースで抓みと鮨を出していけばいいので接客がずいぶん楽になる。しかも、人数分の食材を仕入れておけばいいので食材の無駄が省ける。一方、客は好きなものを食べたいだけ食べる自由が奪われるのだが、食材の無駄が少ない分、払う金が少なくなることが期待できる。また、接客やデートが目的で鮨屋に行く客にとっては、次に何を食べるか考えることなく、自動的に鮨が出てくるほうが都合がよいかもしれない。

(中略)

 そうした「おまかせ」の店では、抓みがどんどん洗練されてきた。店がそれぞれ差異化に向けて努力しているのは言うまでもないが、この二十年、日本酒が飛躍的に洗練され、細かな差異を競いながら進化してきたことに影響されてもいるだろう。昔ながらの鮨屋が、握りの前にちょっと飲みたければ、白身でも切ってよ、とか、蛸切ってよ、とか注文して、あとはすぐに握ってもらう場所であったのに対し、いま流行りの「おまかせ」タイプの店は凝った抓みを何品も食べてからいよいよ鮨になる場所である。お酒が好きな人にとってはたまらないかもしれないし、ひとつの方向としてはありだろう。だが、ほとんどの店がその方向を向いているのが、ちょっと奇妙な気もする。
 「おまかせ」のシステムの、抓みに凝った店は結局値段が高くなる傾向にある。実際、魚は全体的に高くなっている。「おまかせ」で食べて日本酒を一、二合飲むだけで三万を超えるのは当たり前だし、四万を超えることも珍しくない。「おまかせ」の客とってのメリットが、食材の無駄を減らすことで払う金の減少につながることだったはずなのに、なんだか納得がいかない。

(中略)

 昔、私が鮨というものを意識的に食べはじめた頃によく通った鮨屋の親方たちは、うちは寿司屋であって、飲み屋ではない、というようなことを言っていた気がする。たしかにあの頃の日本酒といまの日本酒を比べたら、全く別物と言っていいほどの洗練を遂げているから、鮨屋のうまい魚で酒を飲むことを目的とする人がいても不思議ではない。でもやはり、鮨屋は飲み屋ではないというあの親方たちの言葉は、いまも私のこころのなかで響いている。

(p73-74)



# by t-mkM | 2023-09-12 01:42 | Trackback | Comments(0)

「国家」の再生とMMT

へんなタイトルを掲げてしまったが、こんな本を読んだから。

『ポスト新自由主義と「国家」の再生』ウィリアム・ミッチェル+トマス・ファシ /
中山智香子 監訳、鈴木正徳 訳(白水社、2023)

副題に「左派が主権を取り戻すとき」とあるので、スタンスのはっきりした著書、と言うことは分かる。第一著者はMMT(現代貨幣理論)の提唱者の一人。

本文だけでも370ページほどのボリュームで、経済学のシロウトにはなかなか歯応えのある内容でもあり、手短かに紹介するのはちょっとしんどいので、監訳者の中山氏によるあとがきを手がかりに、以下、まとめてみる。

本書は第1部(第1章から第6章)と第2部(第7章から第10章)からなる。本書の意義は、MMTが必ずしも一枚岩ではないこと、またMMTが特にイギリス、フランスなどEU地域の新自由主義の台頭と展開の歴史に即して考察を行い、MMTが現代のグローバル世界の文脈において意味を持つこと示した点にある。
特に第1部で論じられるのは、国家が本来は人々の暮らしや権利、デモクラシーを守るための枠組であるにもかかわらず、1970年代前後から資本やそれを操る富裕層に収奪され、国家がグローバリゼーションを隠れ蓑に資本に従属してきた歴史である。これがケイインズ主義的政策を変質、衰退させた新自由主義の正体とする。それに対し、さまざまな思想を援用して新自由主義を批判的に考察し、社会公正や社会生態学的転換をめざす進歩的で解放的な国家主権のヴィジョンの再生をめざす。そこで、通貨主権を有する政府の能力を正しく理解することは、その必要条件の根幹である。
(p370~371の文章を元に、自己流でまとめてみた)

…、とまあこんな感じ。

MMTというのが、うまく紹介しにくいのだが、比較的分かりやすく書かれている部分を以下に引いておく。

 現代の通貨は、政府が貴金属との交換を約束していないため、法定不換通貨と呼ばれる。(中略)その価値は「命令」によって宣言される。つまり、政府は、ある硬貨の価値は例えば50セントだと発表するだけでよく、50セントの価値に相当する貴金属の準備を保有している必要はない。その結果、自国通貨を発行する政府は、もはや自らの支出を「賄う」必要はない。技術的には、必要な資金を「無」から生み出すことができる。こうした政府は、システム内の流動性の水準が金準備などによって制限されていないため、租税や民間部門への国債売却を通じて自らの支出を「賄う」必要はないのである。言い換えれば、政府はブレトン・ウッズ体制下では存在していた収入の制約を受けない。現実には、オーストラリア、イギリス、日本、アメリカのような通貨発行国の政府は、「資金不足に陥る」ことや支出不能に陥ることはない。これらの政府は常に、自国通貨で支出する無制限の能力がある。つまり、自国通貨建てで売られる財やサービスがある限り、政府は何でも好きなものを買うことができる。少なくとも、遊休労働力をすべて購入し、生産的用途に戻すことができる。
(p252)


本書の第8章は、MMT入門の章で、上記の引用もそこからだけど、他にも第9章では”ジョブ・ギャランティ”という仕組みが紹介されており、それはいわゆる”ベーシック・インカム”よりも優れている点が説明される。

本書は、最後の「結論 国家へ回帰せよ」で、こんなふうに結ばれる。

 今日、右派が勝利しているのは、国家主権を移民排斥主義的、ナショナリズム的、さらには人種差別的な言葉で定義する、集合的アイデンティティの強力な物語を紡ぐことができているからでもある。したがって、進歩主義者は、帰属意識や連帯感に対する人間の欲求を認識した、同じように強力な物語や枠組みを提供できなければならない。その意味で、国民主権の進歩的ビジョンは、文化的・民族的に均質化された社会ではなく、(中略)国民が「民主的な保護、民衆支配、地方自治、集合財、平等主義的伝統」に避難できる場所として、国民のための国家を再構築し再定義することを目指すべきである。これは、相互に依存しながらも独立した主権国家を基礎とする、新たな国際(主義)的世界秩序を構築するための必要条件でもある。
(p368)


類書とも比較して読んで、もう少し勉強してみたい。


# by t-mkM | 2023-09-05 01:49 | Trackback | Comments(0)

「芸術史」における伏流水たるアナキズム

なんだかたいそうなタイトルにしたけど、こんな本を読んだから。

『アナキズム美術史』足立元(平凡社、2023)

副題に「日本の前衛芸術と社会思想」とある。
480ページ近いボリュームで、本文に限っても430ページほどあるんだけど、図版も(小さくてモノクロだけど)ふんだんに盛り込まれており、わりとサクサク読んでいける。

どんな本なのか? 最後の「結」で書かれてあるところを以下に引く。

 本書『アナキズム美術史』は、拙著『前衛の遺伝子 アナキズムから戦後美術へ』(ブリュッケ、2012)を、加筆修正して復刊するものである。
 本書のテーマを簡単に述べると、今日の世界的なアートにおける社会的・政治的な側面について、その先駆と減衰を日本近代美術史の内に見出し、明らかにすることである。いわゆる社会派的な現代アートは、決して戦後から始まったのではなく、日本の近代において始まっていた。その起源と忘却と伏流水のように流れるものを、作品や文献資料から捉えることを試みたのが本書である。
 この歴史の出発点であり中心となるのが、アナキズム思想である。ただ、後でも述べるように、歴史のなかで決定的なのはアナキズムの純粋で理想的なあり方ではなく、むしろアナキズムを様々に否定・拡張する営みであった。
(p429)


そして、ちょっと飛んで「結」の終わり部分でこうも書いてある。

「アナキズム」に関しては、たしかに本書ではそれを出発点とし、その歴史を重視している。だが、大杉栄がそれを「どうかすると少々厭になる」というように、単純にアナキズム万歳を訴えているわけではない。むしろ本書では、アナキズムが敗れて伏流水となり、見えなくなっていく有様を描くところが大部分を占める。「美術史」に関しては、本書ではむしろ絵画や彫刻といった「美術」の枠をはみ出したものに注目し、むしろ多領域をまたいだ「芸術史」を標榜している。
(p432)


で、最後にはこう結ばれる。

 現在の、成功や経済効果ばかりを喧伝するアートとその旗振りにはうんざりだ。権力や流行へは批判的に、無名でも地味でも貧乏でもいい、社会的な意識があっても硬直したイデオロギーからは自由に、たとえ失敗しても何かを残す。そのような表現をしたい、見たいという人々と、本書が描く歴史の物語を分かち合いたい。
(p433)


たまたま見かけて読んだ本だが、全編にわたって興味深く読んだ。
中でも、

「第2章:大正アナキズムの芸術運動ーー望月桂と黒耀会の人々」
「第6章:大東亜モダニズム建築」
「第7章:占領期の前衛芸術をめぐる統制と分裂」
そしてこの復刊で追加された「第10章:超克と回帰ーープロレタリア美術運動から日本美術会へ」

などが印象に残ったかな。



# by t-mkM | 2023-09-01 01:31 | Trackback | Comments(0)