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謹賀新年

新年、あけましておめでとうございます。

…と、とりあえず年頭のあいさつなので書いてますけど、新しい年になったからと言って、べつに「めでたい」と思ってるわけじゃないです。
昔は、誕生日なんてものを祝う習慣はなくて、年が明けると皆がいっせいに年を取ることになっていたそうだから、それなりに「あけましておめでとう」の意味はあったのだろうけど。

この年末年始、ジムでランニングしたり、年賀状を書いたり、実家へ帰省したりしているうちに、いつものように気忙しく過ぎていった感じ。ただまあ、年々薄れていく正月らしさとは裏腹に、どことなく座りの悪い漠とした気分がいつになく増したような、そんな感じを覚えた年末年始でありました。

ともあれ、この駄ブログともども古本Tを、今年もどうぞよろしくお願いいたします。


で、年明け2日、帰省から戻って早々に上野公園へ。
水族館劇場・さすらい姉妹による寄せ場での投げ銭芝居、『蟻の街のサザエさん』を見るため。

越年支援闘争の餅つき大会が押したため、芝居は少し遅れて始まった。
最初はゲスト・玉井夕海さんによる歌。どこかで見たことあったか? と思ったら、渋さ知らズでも歌っていた方とか。吹きっさらしの中に、彼女の声がやけに響く。

今回の"工作"である毛利さんがツイッターで書いていたけど、「サザエさん」の連載が始まったのは1946年。描かれるのは戦後日本の復興期でもある。どうも「サザエさん」というと、日曜お茶の間の家族団らんの象徴、みたいな連想がすぐアタマに浮かんでしまうけど、"ありえたかもしれないもう一つサザエさん"とは、なるほどと思った。
途中、酔っぱらいのおじさんがぶつぶつ言いながら乱入してくるも、そのおじさんの言動をも芝居の流れに乗せてしまう千代次さんの仕切りはお見事。路上で踏んできた場数の違いを見せつけられた気がした。

今年の水族館劇場、花園神社での本公演が決まったそうだけど、この『蟻の街のサザエさん』がどう絡んでくるのか(それとも絡まないのか)、楽しみである。


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# by t-mkM | 2017-01-06 01:04 | Trackback | Comments(0)

新訳でモームの長篇を読む

いまや光文社の古典新訳文庫だけでなく、各出版社からも翻訳小説の新訳文庫がけっこうコンスタントに出るようになった。
中学生のころ、たしかエラリー・クイーンの『X(Yだったか?)の悲劇』を読んでいて、「苦虫を噛みつぶしたような…」という文章が繰り返し出てきて、「へっ??」と感じたのをいまでも覚えている。エラリー・クイーンを読まなくなって久しいけど、いまでもそういう訳文なんだろうか?

とまれ、そういった訳文云々の以前に、昔の文庫本って文字が小さすぎる。
幸いにも、いまだ老眼ではないけれど、あのびっしり詰まった活字群を見ると読む気が失せるのはワタクシだけでは無いはず。なので、見かけなくなった古典的で面白そうな文庫が古本屋で安く出ていても、読めないので滅多に買わない。

そんな新訳の文庫で、先日「こんなの出ていたっけ?」と思ったものがあった。まったく見落としていたようだ。で、さっそく読んでみた。

『片隅の人生』ウィリアム・サマセット・モーム/天野隆司 訳(ちくま文庫、2015)
眼科の名医サンダースは、中国人富豪の目の手術をするためマレー列島の南端にあるタカナ島を訪れる。手術は成功したものの、退屈しながら帰りの船を待っていたサンダースは、たまたま島に寄港した帆船の船長ニコルズとミステリアスな乗客の青年フレッドに興味を抱き、彼らの航海に同行することにする。南洋の島々を舞台に、老若男女の人間模様をシニカルに描いたモームの長編を新訳で贈る。
以上はアマゾンの内容紹介から。カバー後ろにある文章でもある。
原題は「The Narrow Corner」で、モーム58歳のときの長篇だとか。

以前、光文社古典新訳文庫で『月と六ペンス』をとっても面白く読んだ覚えがあるけど、それ以来のモーム作品。こちらは何十年ぶりかで新訳が出るようだけど、それも十分に納得の「小説を堪能したなぁ」と思える傑作。
ただまあ、いくら名医とはいえ、何ヶ月も気の向くままにフラフラと船で旅するなんて、いまどきの感覚からすると、「羨ましいですねぇ…」なんて皮肉な気分がジャマしそうだけど、読みやすくこなれた訳文のおかげなのか、そういう鼻につく感じはまったくない。

以下、目についた箇所からひとつだけ引用。
「わたしはね、わたし自身とわたしの経験以外のものは何も信じておりません。この世界はわたしとわたしの思考とわたしの感情から成り立っているのです。それ以外のものはすべて幻です。人生は夢です。その人生という夢のなかで、わたしは眼の前に現れる事物を創造しているのです。知ることのできるものすべて、経験の対象となるものすべて、それはわたしの精神のなかで生じる観念なのです。したがって、わたしの精神なくしては、その観念は存在しません。わたし自身の外部にあるものを仮定することは不可能であり、また必要でもありません。夢と現実はひとつのものです。人生は連続して一貫している夢なのです。そしてわたしが夢見ることをやめたとき、世界は存在しなくなります。その美も苦悩も悲しみも、その想像を超えた多種多様なものも、すべて消えてしまいます」
「そんなばかばかしい話しがありますか」とフレッドが叫んだ。
「しかしそう思わずにすむ理由は何もありませんよ」と医師は微笑んだ。
(p360-361)
「人間は矛盾のかたまりである」とモームは言ってるそうだけど、主人公である医師をはじめ、この小説それ自体からしてそうなのかもしれない。

欧米では20世紀末くらいからモームが"復活"しているそうだけど、日本ではそうでもないのかな。
ま、でも、ちくま文庫でもモームの新訳が数点あるようなので、これから読んでみたい。


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# by t-mkM | 2016-12-22 01:28 | Trackback | Comments(0)

『東京ヴィレッジ』の薄気味悪さ

このところ、近所の図書館に行ってみても、読む本、というか読みたい本と思える本が見当たらないのである。
万巻の書を読破!なんていうつもりは毛頭ないんだけれど、そして「まあ、なんでもいいか」とも思うのだが、いまひとつ手が伸びない。それとも、これも老化現象か?
まあ、選り好みしているだけではあるのだけど、そんな中で、こちらが目についたので、借り出して読んでみた。

『東京ヴィレッジ』明野照葉(光文社文庫、2014)
松倉明里は玩具メーカー勤務の三十三歳。社内では大リストラの噂が飛び交い、交際七年になる恋人との将来も不透明だ。そんなとき、青梅市にある実家でも厄介なできごとが。正体不明の夫婦が入り込み、何ヵ月も我が物顔で暮らしているという。両親や姉夫婦は何をしているのか。うちが乗っ取られる!?実家に戻った明里が目にしたのは、思いも掛けない光景だった!
2012年に単行本が出たものの、文庫版。
著者の小説を読むのはこれが初めて。
ちょっとググってみると、現代的で都市的なホラーとでも言えばいいのか、人間関係の奥や裏にある黒さ(グロさ?)をもっぱら描いてきた人のようだ。

ただ、この人の小説の中でも、本書は群を抜いて評価がよろしくない。
アマゾンのレビューで1.5である。
こんな評価だったとは知らずに読んだけど、まあ読者の心情としては分からなくもない。

いわく、「物語が遅々として進まず、退屈」「中途半端」「アヤシげな夫婦の謎が解けないまま」「ラストがまったくスッキリしない」等々。
いやまあ、どれも(残念ながらというか)その通りではある。ワタクシも途中で、「話しが進まんなぁ」とか「主人公が助けを求める人は同僚や恋人の他にも、電話で知らせてきた親戚がいるんじゃないの?」など、幾度となく思いながらページをめくった。ただまあ、進展が遅く、説明的な記述が多くて退屈にはなるものの、実家に入り込んでくる夫婦のアヤシさや、恋人の煮え切らなさ、主人公が抱く地元・青梅と実家の家族に対する思いの移り変わりなど、なかなか読ませるところもあり、ページをめくる手は緩まなかった。(これはまあ、ワタクシ自身も地方出身者だから、という背景があるにしても)

読書も後半になり、この「ストーリーの進まなさ」について、ハタと思い至ったのは、じつはこの「遅々としている」ことそれ自体が、我が国そのものを表しているのかも、ということ。
そう思うと、実家の家族(両親と姉夫婦)がそろいもそろって優柔不断で煮え切らず、数字にアバウトなところや、その実家に居座っているアヤシい夫婦が常に笑顔で一方的な会話を繰り広げて付け入る隙を見せないこと、などなどが何らかのメタファーにも思えてくる。

地域を変えるのは「よそ者、若者、バカ者」なんてよく言われるけど、果たしてこの小説のラストは、今後の(日本の)明るい行き先の示しているのか、それとも暗い未来を暗示しているのか。どちらにせよ、なんとも言いがたい、薄気味悪さのただよう小説ではあったな。


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# by t-mkM | 2016-12-15 01:37 | Trackback | Comments(0)

ウルトラライト、という思想

知ったきっかけが何だったのか、いまとなってはまったくもって覚えていないのだけど、たしか以前にネットを彷徨っていて目にし、気になって地元の図書館にリクエストし、ようやく届いたのかこの本。

『ウルトラライトハイキング』土屋智哉(山と渓谷社、2011)

副題には「Hike light, Go simple」ともある。
以下は例によってアマゾンの内容紹介。
本邦初のウルトラライトハイキング解説本。
アメリカの3000kmを超える長大なトレイルを数ヶ月かけて歩き通すスルーハイカー。
彼らは独自の理念で既成の商品にはない軽くシンプルな道具を自作し、歩き通すためのノウハウを確立してきた。
本書はアメリカ生まれのウルトラライトハイキングを解説するとともに、日本での実践方法を紹介します。
2週間の山行で総重量13kg、足元はスニーカーで充分、マットは切って使用など目からウロコの内容盛り沢山。
最初の1/3くらいで、"ウルトラライトハイキング"なるものの歴史や背景となる思想、その原則や日本でのスタイルなどが語られ、その後2/3で実際のトレイルで使うバッグパックや寝袋、テントやウェア、持ち運ぶ飲食物などについて、どういう事柄を優先し、何を選ぶのかが解説されていく、といった内容。

もう昔のことだけど、ハイキング程度の山登りならやったことがあって、その時には知人の勧めもあり、わりとガッチリしたハイカットの靴やザックを買った覚えがある。いまはずいぶんと洗練されて軽量かつスマートになっている登山用品だけど、それにはこんな背景もあったんだなと、遅ればせながらよく分かった。

全体として、ウルトラライトハイキングのマニュアルというよりも、その哲学や原則的な考え方、ルールを徹底して説く、という感じなので、これを読んだら即実践! というにはちょっと心許ないかも。
ただ、環境に対してローインパクトであること、「軽さ」の向こうにあるシンプルでスマートなこと、というその哲学は、なにもハイカーだけでなく、フツーの生活全般にも十分に応用可能ではないかと思う。たとえば、タオルじゃなくてなぜバンダナなのか、なんていう視点で暮らしの道具類を見つめ直してみるのも、目ウロコだったりするかもしれないし。
ちなみに、スペア衣類に何を優先するのか? という項目で、(吸水性速乾シャツを着ているという前提だけども)カットソーやパンツよりもソックスを優先する、というくだりには興味を覚えた。

なお、パッと見るとアメリカ原書からの翻訳本か? と勘違いするかのような装幀(と文面)だけど、まぎれもない国産なので、その点はご注意を。


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# by t-mkM | 2016-12-09 00:55 | Trackback | Comments(0)

あの三部作の続編『ミレニアム 4』を堪能

刊行されたのはもうほとんど1年前になるけど、この週末でようやく読んだ。

『ミレニアム 4 蜘蛛の巣を払う女』(上・下)
 ダヴィッド・ラーゲルグランツ/ヘレンハルメ美穂、羽根由 訳(早川書房、2015)

いやー、面白かった。
とくに下巻に入り、1/3あたりから最後までは一気読み。おかげで寝不足。

全世界で8000万部を売ったという超ベストセラー『ミレニアム』シリーズ3部作。著者のスティーグ・ラーソンはそんな大ヒットを知ることなく亡くなってしまったのだけど、これはその大ヒットシリーズのまさかの続編。
すでに2年前だけど、ブームにだいぶ遅れて3部作をまとめて読んだら、すこぶる面白かったので、この続編のウワサを耳にして以来、気にはなっていた。
以下は拙ブログでの3部作の感想↓
続編に関しては、著者スティーグ・ラーソンによる第4作途中までの遺作があるとされているようだけど、この続編『ミレニアム 4』は、その遺作とはまったくの別物のようだ。
とはいえ、下巻の解説でも松江氏が驚きをもって絶賛されているように、登場する人物キャラクターの言動にほとんど違和感が感じられない。(まあ、2年前の記憶がアヤシいこともあるので、自信を持って断言できる!、とまでは言えないけど)

冒頭、コンピュータサイエンスの天才である教授のエピソードから始まり、主人公・ミカエルがいる雑誌「ミレニアム」の不振や経営危機、そして最近のミカエルのジャーナリストとしてみ落ち目ぶりなど、雑誌や出版不況のあれこれで幕をあける。このこと自体、まあ世界的な現象なので、よく分かるものの、「こんな(地味な)出だしでどうなるの?」と思いきや、冒頭のコンピュータサイエンスの天才に会ってみて欲しいという情報提供者が現れたあたりから、"ドラゴン・タトゥーの女"で凄腕ハッカーのもう一人の主人公リスペット・サランデルが登場。そのへんから、物語がうねって転がって、面白くなってくる…

3部作までで、リスペットと絡む重要人物でありながら、ほとんど言及がなかった人物が今回後半のメイン。というかこの人物との対決がテーマである。なんだけど、「これで終わっちゃうの?」といった感じで、ラストは消化不良気味。まあでも、この後には第5作、第6作を発表予定ということなので、仕方がないのかも。

そして、ハリウッドでの映画化も、第2作と第3作をすっとばして、次はこの第4作で映画化を、という話しだとか。こちらも期待が高まるけれど、果たしてどうなることやら。


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# by t-mkM | 2016-12-06 01:04 | Trackback | Comments(0)

『理解フノー』がイイね

今年は台風が多いよなぁ、いつまでも暑いし、などと思っていたら、秋がごく短いうちに過ぎ去ったようでいきなり冬になり、そして今日から12月、師走である。

…ま、年末だよな、と言いたかっただけで、とくに意味はないのだが、そんななか、エンテツさんの新刊を偶然に見つけて手に取り、読んだ。
内容紹介は例によってアマゾンから。

『理解フノー』遠藤哲夫:著、田口順二:絵(港の人、2016)
「大衆食堂の詩人」エンテツこと遠藤哲夫。日々の台所で繰り返される「生活料理」や「大衆食堂」など、ありふれたものをおいしく食べる庶民の快食を実践、追求する。長きにわたったプランナー稼業、現在の肩書フリーライターなど、多彩な仕事や人との関わりを経てきた著者が、率直軽妙に綴る世相、故郷、上京物語、家族、そして老い……。 絵は「四月と十月」創刊以来の同人、田口順二。中学校の美術教師をつとめながら創作活動を続ける。地元小倉の風景、日々接する中学生たちの姿、心象など、学生時代の作品から制作途上の作品、描き下ろしまで、カバー、表紙、カラー口絵含め30点を収録。様々な画材で画風も変化に富み、自身による言葉とともに、さながら小作品集の趣。文章の世界、絵の世界を行きつ戻りつ、濃密な空気に満たされながら、不思議に爽快な読後感。 「理解フノー」な人間の存在が、たまらなく愛おしく思えてくる一冊。
以下、版元である「港の人」webサイトに載っている紹介ページも貼っておく。
同人誌での連載をまとめたもの。
いやまあ、ご本人を存じ上げているだけに、バイアスのかかった感想になっているかもしれないんだけれど、これがたいへんに興味深く、そしてとっても面白く、一気に読んだ。

「存じ上げている」とはいえ、ほとんどが酒を介した場で会って話すくらいなんだけど、あの飄々とした笑顔の内側には、こんな半生が積み重なっていたのか…、というオドロキがあちこちに。まあ人間、長く生きていればいろいろあるのは当たり前ではあるわけだけど、これがエンテツさんの筆にかかると、人生の紆余曲折に遭遇しても、しんみりしながら軽妙で、なおかつ薄明かりがさしてくるような感じまでするから不思議だ。そして、低い目線からの語りにうなずくこと多し。

そんなエンテツ節のなかに、田口さんによるさまざまな対象、画風による絵があちこちで登場してくる。唐突のようでいて、でもなんだが文章の醸し出す雰囲気にふさわしいような、何とも言えないコラボ感がある。

今年読んだなかで(まだ終わってないけど)、とっても印象に残った1冊。


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# by t-mkM | 2016-12-01 01:30 | Trackback | Comments(0)

シーラッハの『テロ』がはらむもの

ドイツ語圏の作家であるけど、日本でも数年前に短編集『犯罪』が翻訳されてヒットした著者による新作。今回は小説ではなく戯曲。

『テロ』フェルディナント・フォン・シーラッハ/酒寄進一訳(東京創元社、2016)
2013年7月26日、ドイツ上空で旅客機がハイジャックされた。テロリストがサッカースタジアムに旅客機を墜落させ、7万人の観客を殺害しようと目論んだのだ。しかし緊急発進した空軍少佐が独断で旅客機を撃墜する。乗客164人を殺して7万人を救った彼は英雄か?犯罪者か?結論は一般人が審議に参加する参審裁判所に委ねられた。検察官の論告、弁護士の最終弁論ののちに、有罪と無罪、ふたとおりの判決が用意された衝撃の法廷劇。どちらの判決を下すかは、読んだ「あなた」の決断次第。
なんだか、以前にテレビ番組として話題になったサンデル先生の「白熱教室」みたいなテーマだけど、わりと短めの法廷劇で、議論が丁々発止で白熱する、ということはない(そもそも法廷だし)。そのそもが事実関係で争われないので、そうそう揉めないのである。が、しかし…。

じつはこの法廷劇には前提となる事実がある。

アメリカでの9.11テロ後、ドイツでもテロ対策という名目でいろんな法的な対応策が取られ、緊急の場合は国防大臣による武力行使(つまり、状況が逼迫した場合にはハイジャック機の撃墜もやむなし、ということ)を含む航空安全法が制定された。ところが翌年の2006年に、航空安全法の該当条文に対し、連邦憲法裁判所は違憲の判断を下している。
そうした背景があっての法廷劇である。

この戯曲では、法廷で証言に立つ軍の幹部や撃墜された犠牲者の遺族、そして検察官、弁護人、裁判官、いろんな立場から、被告であるコッホ少佐の罪状に対する意見が出される。
それらの、論理の組み立て方というのか、言葉運び、これが読ませるのである。
いかにもドイツらしいという感じではあるけど、法治国家としていかにテロに対峙するのか、という矜持は、検察にも弁護側にも共通しているように感じられる。この辺が、ふり返って我が国とは異なるところか。

この戯曲、結論は有罪、無罪、両方が用意されている。
そして巻末には、テロリストに襲撃されて12人の死者が出た、あの「シャルリー・エブド」誌が賞を授与された際の、著者による記念スピーチが収録されている。これがまた、なかなかで…。

また、この戯曲は実際に舞台として国内でも上演されたようで、上演後、観客に「有罪か無罪か」でアンケートを取ったらしく、国内以外で結果に差が見られたようだ。
実際に舞台でこの上演を見ると、どんな印象を抱くのか、観てみたい。

以下は参考になったブログ記事。






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# by t-mkM | 2016-11-28 01:51 | Trackback | Comments(0)

南米発『ドグラマグラ』のようなミステリー

最近の『本の雑誌』の新刊紹介コーナー(数名の書評氏によるページじゃなく、黄色ページのところ)で、たしか「現代の『ドグラマグラ』のような」と評されていたので、「ほう」と思って読んでみた。

『ラスト・ウェイ・アウト』フェデリコ・アシャット/村岡直子[訳]
 (ハヤカワ文庫HM、2016)

以下はアマゾンにある内容紹介。カバー裏の「あらすじ」とも同じ。

テッド・マッケイは自分の頭に向けて拳銃をかまえた。妻と娘が旅行中の今日、とうとう自殺を決行するのだ。引き金に指をかけたそのとき、玄関の扉が激しく叩かれた。リンチと名乗った突然の来訪者は、ある「組織」からテッドへ依頼を伝えに来たと語りはじめる。その内容はあまりにも常軌を逸したものだった…。迷宮のごとき物語の果てには何があるのか。異様なるイメージと予測不能の展開が連続する、南米発の“奇書”

全体は4部から成っている。
1部が終わり、2部に進むとまったく同じ書き出しで始まる。「えっ?!」ってなるけど、だんだん現実なのか妄想なのか分からないエピソードが積み重ねられていく。が、それはまだ序の口。570ページ以上になる本書の大部分は、後半の3、4部から成っているんだけど、その3部に入るところで、3部、4部の登場人物紹介ページが挿入されている。
途中で人部紹介のページが入るミステリなんて、初めて見た。

いやまあ正直に言えば、3部の途中、現実なのか妄想なのか、あまりにも目がくらむかのような展開が続くので、「これはちょっと…」と途中で放り出そうかと思ったくらいなんだが、その辺から4部にかけて、まさしく怒濤の展開となり、あれよという感じで、当初の印象とはまったく違った様相に。

ハッキリ言って、はたしてすべての伏線がきちんと回収されているのか、ワタクシにはよく分からない。
でも、そんな細かいことは置いといていいか、と感じさせるほどに、迷宮のような展開が収束されていくラストには目を見張る。しかも、最後の最後にきて、現実と妄想との境目があいまいになるかのようなエピソードがまたも出てきて…。

あらすじにもあるように、まさしく"奇書"。『ドグラマグラ』が引き合いにだされるのもよく分かる。たしかに似ている。
訳者の解説によると、著者はこれが長篇4作目で、日本初紹介。これだけの小説を書いているのに、専業作家ではなくて、本業は土木技師だとか。いや、驚き。世界は広いですな。



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# by t-mkM | 2016-11-22 01:06 | Trackback | Comments(0)