水族館劇場『この丗のような夢・全』新宿公演が終了

水族館劇場の花園神社での公演、2回目の観劇は4月21日(金)。

水族館劇場
『この丗のような夢・全』 臺本+遅れ+監督 桃山邑

新宿 花園神社 境內特設野外儛臺「黑翁のまぼろし」
2017年4月14㊎15㊏16㊐17㊊18㊋19㊌20㊍21㊎22㊏23㊐
全公演 夜7時劇場外顔見世(プロローグ)スタート
全席自由期日指定 上演時間 約130 分

初日に観たとき、顔見せであるプロローグはどこかぎこちなく、テントの舞台では試行錯誤感とでもいうものを、率直に言って感じた。けれど、この日の芝居ではそうした、?と感じて突っかかる箇所、はほとんど影をひそめ、全体に締まりがあり、格段に洗練?された舞台に変化していた。とりわけ、初日のプロローグでは後方上部にあってほとんど見えなかった(もったいない!)複葉機が、より前面に出て、強烈な存在感をラストで示したのは圧巻。ここでまずは"やられた感"があった。

一幕目のラストで立ち上る龍は、照明位置の変化が奏功してか、客席に噛みつかんばかりの迫力だったし、二幕目が開いたときには客席からどよめきが起こるほど、舞台セットの造形や照明効果はスバらしかった。(総じてこの日、初めての客が多かったのか、客席のテンションは高かった)

ただ、この日ご一緒した方によると、「以前の三軒茶屋公演と比べると、ちょっと、物語に入っていきにくかったかなぁ」とのこと。基本的なストーリーは去年の三重公演を前提にしているので、そういうところもあるかもしれない。
ちなみに、今回の新宿・花園公演に関して、参考になったブログ記事を見つけたので紹介を。
crosstalkという方の「ワニ狩り連絡帳」というブログにある以下のエントリ。

[演劇]水族館劇場「この丗のような夢」桃山邑:作・演出 @新宿 花園神社境内特設野外舞臺「黒翁のまぼろし」
http://d.hatena.ne.jp/crosstalk/20170422/p1

そこから中心部分を引用する。

 今回のストーリーの根幹は、どうやら江戸川乱歩の「パノラマ島奇談」。というか、ほとんどまんま「パノラマ島奇談」な進行なのだけれども、それらのストーリーはセリフの語りで説明されていくばかりで、せっかくの舞台装置がストーリー展開に活かされていたという感じではない。あと、看板役者の千代次や風兄宇内らを出さなければいけないという制約からか、そのメインストーリーにほとんど絡むことのないサブストーリーで彼女らが出てくるわけだけれども、けっきょく観終わって、「あれ?千代次や風兄宇内はけっきょく何だったの?」みたいにもなる。というか、終わってしまえばけっきょくすべてが「何だったの?」ということでもあるのだけれども。

 でもやはり、「水族館劇場」の魅力というのは、そういう現代演劇的なストーリー展開や演技にあるわけではなく、ある意味「見世物小屋」的な空間の創出の見事さ、そして、「反」演劇というべきか「非」演劇というべきか、演劇的鍛錬からはほど遠い、まさに「確信犯」的な稚拙な演技をみせる役者たち。そんな役者たちと「年を経てもいつもヒロイン」という千代次の緑魔子的な存在と、「これぞ怪演」という演技をみせる風兄宇内、この二大看板役者渡の対比の妙というか(今回はこれがうまくいってなかった感があるが、ここに今回は「元宝塚」という姉御が加わって締めてくれた)。


この方が言うように、テントに入ってからの舞台では、冒頭で千代次さんと風兄さんによるやや説明的なセリフの応酬がつづき、ちょっともったいない感じではある。
また、21日で舞台でも、セリフの飛んでしまった役者に対して、他の登場人物たちが(これはこれで見事に)セリフを教示するシーンがあったけど、まさしく演劇的鍛錬からはほど遠い。というか、フツーの舞台の約束ごとからは、外れまくっている。

でもじゃあ、なぜ、そういった舞台を観に行きたくなるのか? しかも、何度も。
その点、上のブログ主は、こんなことを書いている。

…そういう舞台装置の中から立ち上がるスペクタクル。その中にどこか、「水族館劇場」の目指す「反近代」とでもいうような視点が透けて見えてくる。そこにこそ「水族館劇場」の魅力があり、…

昨年の三重・芸濃町での公演の感想を書いたエントリで、ワタクシは最後にこんなことを書いた。

「桃山さんとしてある意味での開き直りというか、覚悟のようなものが感じられた…」
http://tmasasa.exblog.jp/25814537/

今回は、その開き直りが新たなphaseに入ったようでもあることを感じたし、何より、劇団がことあるごとに"野戦攻城"を連呼し、"渾身の舞台"を強調する、そのワケが、あらためて腑に落ちた気がした。

長くなったので、この辺で。


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# by t-mkM | 2017-04-27 01:49 | Trackback | Comments(0)

水族館劇場、3年ぶりの東京公演を観る

相変わらず慌ただしくはあるものの、先週末は新宿・花園神社へ。
水族館劇場が3年ぶりに都内で本公演を行う、その初日に行ってきた。以下はwebサイトからの転載。

『この丗のような夢・全』

臺本+遅れ+監督 桃山邑

新宿 花園神社 境內特設野外儛臺「黑翁のまぼろし」

2017年4月14㊎15㊏16㊐17㊊18㊋19㊌20㊍21㊎22㊏23㊐

全公演 夜7時劇場外顔見世(プロローグ)スタート

全席自由期日指定 上演時間 約130 分
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木戸錢 前売4000円 当日券4500 円
※公演はすべて期日指定の自由席です。当日券も若干ご用意しますが、入場制限する場合もございます。確実な前売券をお奨めいたします。

もちろん、後半にも観劇の予定はあるけれど、なにせ3年ぶりの東京公演だし、とりあえずファンとしては(後半との違いをかみしめて楽しむためにも)初日に行かないと、ということで観に行ってきた。

基本的なストーリーは、昨年の三重県芸濃町での公演のときとほぼ同じ。
ちなみに前回の感想は以下。
http://tmasasa.exblog.jp/25814537/

なので、特に前半は昨年と似たような展開で物語が進んでいたように感じられた。ただし、今年は都内・新宿での公演であるからか、昨年の舞台は三重県津市(と芸濃町)という土地に根ざした特色が前面にでていた物語だったけど、今回はそうした面はやや後ろの引っこんでいる。
そして今回、以前にも増して印象に残ったのは、舞台と客席との境界が突然に曖昧になったり、いま演じられている舞台(場というか)と同時並行で別の視点に立つ役者が現れたり…。まあなんと言うのか、役者と観客とを隔てている一線が溶け出すというか、「見る・見られる」という関係が行ったり来たりしているとでもいうか、「いま・ここ」という場が揺らいでいる、そんなことを感じた。

昨今、「偽(フェイク)ニュース」というコトバを耳にする機会が増えたけど、なにがフェイクでどれが真実かが必ずしも自明ではなくなってしまっている、そういう当世事情をも見え隠れしているような気もした。
そう思うと、『この丗のような夢』というタイトル、昨年の三重公演から変わってはいないけれども、今回の新宿・花園公園で、ようやくその意味するところの全体像がハッキリしてきたのかな、とも思ったり。

ま、とりあえずは、初日の感想ということで。



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# by t-mkM | 2017-04-19 01:11 | Trackback | Comments(0)

近況:最近の2冊

年度末あたりからこっち、いつになく仕事が立て込んでおり、この駄ブログを更新する機会がなかなか持てないでいる。

とりあえずはブログ冒頭で告知しているけど、4月1日、ひさしぶりに鎌倉のヒグラシ文庫へ行って、精算と本の補充をしてきた。売れ行きはまずまずといったところ。ひところよりは落ちてはいるものの、コンスタントに売れているようではあり、ひとまずは何より。

そして、今週末の4月14日(金)からは、新宿・花園神社で水族館劇場の本公演がある。
バタバタしているせいで、舞台設営の様子も見に行けてないんだけど、どんな芝居を見せてくれるのか、楽しみである。
http://suizokukangekijou.com/information/

で、最近読んだ本から。
まずは、『QJKJQ』佐藤究(講談社、2016)。
以下はアマゾンの内容紹介から。

市野亜李亜(いちのありあ)は十七歳の女子高生。猟奇殺人鬼の一家で育ち、彼女自身もスタッグナイフで人を刺し殺す。猟奇殺人の秘密を共有しながら一家はひっそりと暮らしていたが、ある日、亜李亜は部屋で惨殺された兄を発見する。その直後、母の姿も消える。亜李亜は残った父に疑いの目を向けるが、一家には更なる秘密があった。
「平成のドグラ・マグラ」
「ものすごい衝撃を受けた」
選考委員たちにそう言わしめた、第62回江戸川乱歩賞受賞作。


この紹介文を目にしただけで引いてしまう人もけっこういるのでは? と想像するけど、文章はじつにこなれて読みやすく、ページをめくらせるチカラがある。この著者は、群像新人賞の受賞者でもあるそうで、乱歩賞のwebサイトにある受賞のことばは、なかなかだ。

で、結局面白いのか? と言われると、もちろん面白い。それも、けっこう面白く読んだ。
ただ、本の後ろに収録されている選評にもあったけど、新しいのか? と言われるとそうでもないように思うし、「平成のドグラマグラ」というほどの迷宮感はあまり感じられない気がした。
それでも、本の装幀とともに、インパクトはある。
(そして、説明のつけられ方のその奥には、じつはまだなにかが隠れているのでは? と感じたりするのだが、どうなんだろうか)

もう1冊は、『シンドローム』佐藤哲也(福音館書店、2015)。
以下は版元である福音館書店のwebサイトにある紹介文。

八幡山に落下し、深く巨大な穴を残して消えた謎の火球。ほどなくして、ぼくの住む町のあちこちで、大規模な陥没が起こる。破滅の気配がする。それでもぼくは、中間試験のことが、そして、久保田との距離が気になって仕方がない。ゆるやかに彼女と距離を縮めながら、この状況を制御し、迷妄を乗りこなそうとしている。静かに迫る危機を前に、高校生のぼくが送る日々を圧倒的なリアリティで描く、未だかつてない青春小説。

「ボクラノSFシリーズ」の一冊。なんでも、数年に一冊程度のペース(!)でしかシリーズ新刊が出ていないらしい。
福音館書店というと、下は児童書から上でも中高生向けという勝手な印象が強いのだが、いやいやどうして、まったくそんなことはない。少なくとも、本書は十分に大人の読書に耐えて、おつりが来るくらいだ。

紹介文にもあるように、ジャンルでくくれば"青春小説"の範疇にも入るのだろうけど、パニックものとの融合され具合に、引きつけられて読み出すと止まらない。
日常からしだいに逸脱していく日々のなか、天変地異と言っていいほどの事態が起こっても、過剰な自意識のほとばしりがやまない、主人公の若者が繰り広げる"脳内自己対話"が印象的で、どこか可笑しくも、他人事とは思えない気もしてくる。

そして秀逸なのは、本の装幀もさることながら、本文中の文の組み方。
物語のなかで学校が陥没してしまうのだが、そうした陥没よろしく、ストーリーが進むにつれて段組もしだいに"陥没"していくのである。会話文でも同じ字数がずっと続いたりと、じつに凝った文字?作り。これはもう、イラストとも併せて、実物を味わってもらうしかない。

そんなこんなで、今年前半における収穫の一冊。


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# by t-mkM | 2017-04-13 01:15 | Trackback | Comments(0)

"アメリカ"という大国の内情

アマゾンによると、いまや「ベストセラー第1位」らしいけど、ちょっと前に図書館に行った際、どうしたわけか新刊コーナーにならび、どなたも手に取っていなかったので借りてみた。

『ヒルビリー エレジー』J.D.ヴァンス/関根光宏・山田文 訳(光文社、2017)

で、読んでみた。
話題の書らしいので、調べると、いろいろと書評などが見つかる。急遽、翻訳出版された模様で、昨年11月12日のNHK「かぶん」ブログでは、「日本では翻訳されてない」として、この本の出版予定などは書かれていないのだ。
http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/700/256860.html

このブログのなかで、本書のことが次のように紹介されている。

タイトルは「ヒルビリー・エレジー」、日本語で「田舎者の哀歌」という意味で、ヴァンスさんが貧しい暮らしや両親の離婚などを乗り越えて名門大学を卒業し、起業するまでを、失業や貧困にあえぐ地方の白人たちの現状とともに描いています。
回顧録では、大学に合格したヴァンスさんに対し父親が、合格するために「願書で黒人かリベラルのふりをしたのか?」と尋ねるエピソードが紹介されるなど、マイノリティーだけが優遇されているとして、疎外感や不満をつのらせる白人たちの姿が描かれています。


著者は、「ラストベルト」=さびついた工業地帯、とよばれるアパラチア地域の出身。本人の努力はもちろんだけど、いくつかの幸運にも恵まれてイエール大学の法科大学院を終えて弁護士となっている。
このところ、トランプ大統領を支持したのは貧困に陥っている白人労働者の多いこの地域だ、と言われている。ただまあ、その没落ぶりはすでに70年代から始まっているようだ。

読んでいると、なかなかすごい土地ではある。
家族、親族に対しては"身内"としてつねに気をつかい、心配もするけれど、お互いに軋轢も(相当に)あって、うまくいっているわけでは必ずしも無い。一方、学校や近所で自分の親や子供のことをバカにされたと感じたら、速攻で反撃に出る。著者の祖母にいたっては極端だけど、銃を持って仕返し!に行くのである。
とはいえ、その祖母こそが、親族のなかではもっとも教育についての理解があり、著者のいまを作った原動力でもあるところが、なかなか複雑で悩ましいところ。

話しはまったく変わるけど。

その昔、小学校低学年のころ、父親の会社が借り上げていた社宅アパートに住んでいた。それは数戸で一棟になった、コンクリート(ブロックだったか?)ではあるものの、いま思えば簡素な建物だったけど、周囲にも同じようなアパートが何棟とあって、ウチと似たような若い家族が賃貸(だったと思うが)で暮らしていた。
当時、ワタクシの住んでいた向いのアパートに、20歳前後くらいの若い男性数人を面倒見ている一家がいた。特段、彼らは親類でもないようだし、かといってそこで商売しているふうでもなく、ちょっとした下宿屋みたいな感じだったけど、周囲とはハッキリと異なるその暮らしぶりが、子供の目から見ると興味をひいた。でも、母親からは「あまり近づくんじゃない」みたいな注意をされたりもした。
しかし、そう言われればいっそう気になるもので、そこにいた女の子(つまり、若い男性らの面倒を見ていたおばさんの子供)と同学年だったこともあり、その女の子とは付き合いがあった。彼女のウチに遊びに行くと、自然と若い男性らとも話しを交わすことになるわけで、下宿?している部屋に上がらせてもらったりもした。

ワタクシは小学校高学年になる際、引っ越して転校したため、この一家がその後どうしたのかはまったく知るよしも無い。この本を読んで、このエントリを書いていて、なぜだか急に蘇ってきた大昔の記憶にすぎないのだけど、とりあえず書き留めておく。



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# by t-mkM | 2017-04-05 01:30 | Trackback | Comments(0)

聖地巡礼:滝山団地へ行った秀逸ルポのブログ記事

最近、近年になく仕事のほうが立て込んでおり、ブログの更新が滞っている。
まあ、このところは1週間に一回程度のエントリがしばらく続いているし、それに比べれば「滞っている」というほどのもんでもなかろう、と言われればそうなんだが。

そうはいっても、ネットを徘徊するのは毎朝新聞読むのと同じようなことなので、つらつらとチェックしていると、先日、目にとまったブログ記事があった。
「Everything’s Gone Green」というタイトルのブログで、「滝山団地に行ってきた」というエントリ。

 先週末の3月11日、東久留米のあたりにある巨大団地、滝山団地に行ってきた。なんでかというと、聖地巡礼である。

という書き出しで始まるのだが、これはもちろん、次の本の「聖地巡礼」である。

『滝山コミューン1974』原武史(講談社文庫、2010)

単行本が出たのは2007年くらいだったか。
ブログ主曰く、「しばらく前に読んだ『滝山コミューン1974』という本がめちゃくちゃ強烈だったので、これは是非とも現場を見にいかねば!と思い、」友人と行ったのだとか。
どんな本なのか?というと、以下はアマゾンの内容紹介。

郊外の団地の小学校を舞台に、自由で民主的な教育を目指す試みがあった。しかし、ひとりの少年が抱いた違和感の正体は何なのか。「班競争」「代表児童委員会」「林間学校」、逃げ場のない息苦しさが少年を追いつめる。30年の時を経て矛盾と欺瞞の真実を問う渾身のドキュメンタリー。

かくいうワタクシも、この本には衝撃と言っていい印象を持った一人である。
単行本にまとまる以前に、『群像』での連載を読んで、キョーレツな読後感を残したことを、昔のブログにも書いたことがある。
http://tmasasa.exblog.jp/6344774/

で、聖地巡礼である。
このブログ記事、『滝山コミューン1974』を読んだ人なら楽しめると思うけど、もっとも「へぇー」と感じたのは次の箇所。

 話に聞いてはいたが、滝山団地の威容は本当に凄まじい。歩いても歩いても同じ形の建物がずーーーっと続いて建っており、しかも周囲の住宅街とは隔絶した立地になっているので、団地の中にいる限り団地の建物以外がほとんど視界に入ってこない。いけどもいけども団地。遠近感が狂いそうになる。

このあと、40年前から団地に住んでいるというおばあさんと遭遇して…、というくだりも興味深く、本の感想をふりかえりつつ、いろいろと思わせるところがある。最近のブログ・エントリの中では秀逸なヒット作だと思う。
『滝山コミューン1974』を読んだ人も、そうでない人も、読んでみるといいかと。
面白いよ。


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# by t-mkM | 2017-03-29 01:00 | Trackback | Comments(0)

「シン・ゴジラ」再び

昨年、劇場で2回観た映画『シン・ゴジラ』。
その総監督である庵野秀明が責任編集し、東宝が監修した記録全集がようやく昨年末に発売になった。この本、ずいぶん前から相方が図書館にリクエストしていたのだが、ようやく入ったようで、借りてきて見てみた。

『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』責任編集:庵野秀明(発行:株式会社カラー、2016)

定価が1万円を越えており、そのぶん、物量も巨大で重厚。
真っ黒で重厚な作りの箱入りで、最終版の脚本やカラー・イラストのポスターも付いている。そして本体のなんと分厚く重い(!)ことよ。ほとんど凶器だな、これは。

映画でも冒頭からしてスピーディな展開とその情報量に圧倒されたけど、こちらの記録全集も、映画以上にすさまじいまでの情報量で、ラストに置かれた庵野総監督の超ロング・インタビューに至るまで、読み応え(見応え)十二分のシロモノ。映画を観た人なら、これだけでもしばらくは十分に楽しめることうけあいである。
できるなら、これを眺めた上で、もう一度劇場で映画を観てみたいとあらためて思ったしだい。

もうひとつ。

映画『シン・ゴジラ』がヒットしてこっち、各方面で『シン・ゴジラ』について書かれた本や記事などが出ていたけど、一段落したかとおもいきや、こんな本が出ていたので、こちらも図書館で借りてきた。

『シン・ゴジラ論』藤田直哉(作品社、2017)

冒頭の「序」を見ると、著者は『シン・ゴジラ』を観て、「… 圧倒された。/何か、凄まじいものを観たという印象だった。」と語る一方で、「ぼくの胸に一番引っかかったのは、東日本大震災という現実に対し、このような虚構をぶつけることの意義である。」と疑義を呈している。

まだ読んでいる途中なんだけど、識者のツイートなども詳細に引用しつつ、さまざまな角度から論を進めていて、興味深い。はてさて、どういう「結論」になるのやら。



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# by t-mkM | 2017-03-15 01:59 | Trackback | Comments(0)

タワーマンションでの"階級闘争"

きっかけはたしかネットを徘徊していて、だったかな。
"タワーマンションを舞台した上層階と下層階との軋轢を描く…"みたいなあらすじを見て、面白そうだと思って読んでみた。

『ハイ・ライズ』J.G.バラード/村上博基・訳(創元SF文庫、2016)

SF小説界?のビッグネームと言っていいのだろうけど、バラードの長篇を読むのはこれが初めてかも。
以下はアマゾンにある内容紹介で、文庫カバーのあらすじと同じ。

ロンドン中心部に聳え立つ、知的専門職の人々が暮らす新築の40階建の巨大住宅。1000戸2000人を擁し、マーケット、プール、ジム、レストランから、銀行、小学校まで備えたこの一個の世界は、10階までの下層部、35階までの中層部、その上の上層部に階層化していた。全室が入居済みとなったある夜起こった停電をきっかけに、建物全体を不穏な空気が支配しはじめた。中期の傑作。

語り手の一人が、マンション内での騒乱と混沌が静まった後に、自室で(シェパードの焼肉を食いながら!)その出来事を回想する場面から、物語は始まる。
マンション内の上層階、中層階、下層階それぞれに視点人物となる男性居住者を配し、その3人の内面と行動を描きながらストーリーが進んでいく。

…しっかしまあ、物語半ばからこっち、マンション住人たちの壊れっぷりたるや、いやまあすさまじいなぁ。
中盤以降は階層間での闘い、というかほとんどマンション内における現代的な階級闘争といった様相を呈するのだけど、その闘いぶりたるや、「ここまでやるか」といった感じ。ある意味、タワーマンション版「荒野のジャングル」、弱肉強食的世界で、住人たちの退行ぶりには目を見張る。
1975年の作品なので、日本では当時そんな高層マンションは出現してなかっただろうが、その頃の欧米にも40階建マンションってあったのだろうか。ま、SFというよりも近未来社会的ホラー小説とでもいうような感じである。

こう書いてくると、なんだかムチャクチャな小説のように映るかもしれないけど、読後、じわじわと「いま」を感じさせてくる。(まあなんというか、タテマエは後ろに追いやられ、ホンネがむき出しになっている、とでも言えばいいか)いまになって文庫で復刊された意味も、その辺にあるのでは。

2015年に映画化されており、すでにDVDも出ているようなので、ぜひとも見てみたい。



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# by t-mkM | 2017-03-03 01:13 | Trackback | Comments(0)

疑似科学、超能力、信仰…ちょっと異色のSF?短篇集

このところ、毎年2月になると楽しみなのが「読書アンケート特集」の載る『月刊 みすず』1, 2月合併号。
年末になると、その年を回顧していろんなベストものが出てくるけど、『月刊 みすず』は年末のそんな喧噪を避けて年明けに、それもアンケートに回答した方々の全文を載せてくれるので、読んでいるだけでも個性があって楽しめる。

今年の『月刊 みすず』1, 2月合併号の読書アンケートをパラパラ読んでいて、気になる本がいくつかあったけど、なんだか例年とは異なって、「今年はこれ」と言えるような重複して取り上げられている本が案外に少なかったように感じた。(見落としているだけかもしれないが)
そのなかで、1, 2人が取り上げていて、気になったもののひとつがこれ。

『彼女がエスパーだったころ』宮内悠介(講談社、2016)

で、図書館に予約して、読んでみた。
以下は版元である講談社の、そして短編が連載されていた『小説現代』のサイトにあるあらすじ。
スプーンなんて、曲がらなければよかったのに。

百匹目の猿、エスパー、オーギトミー、代替医療……人類の叡智=科学では捉えきれない「超常現象」を通して、人間は「再発見」される――。

ふと、わたしはこんなことを思った。おそらく、彼女はなんらかの障害を抱えている。それが何かはわからない。それがなんであれ、千晴という人物にとっては、この世の現象のいっさいが恋人なのではないかと。

短編のタイトルは、掲載順に「百匹目の火神」「彼女がエスパーだったころ」「ムイシュキンの脳髄」「水神計画」「薄ければ薄いほど」「佛点」の計6編。

どこぞの記者とおぼしき「わたし」が語り手である点は共通しているものの、各短編の間につながりはこれといってない。ただ、後半になるほど「わたし」の露出が増えてきて、ということはつまり、「わたし」の物語への関わりが強くなってくる。そして最後の「佛点」で、「彼女がエスパーだったころ」の主役である千晴が"出演"して、最後の最後でこの本をなんとなく収束させている感じではある。

作中でテーマとなるのは、超能力、疑似科学、代替(終末期)医療、オカルト(カルト?)...
そんな、どこかSFっぽいけど、科学では割り切れないというか、ヒトという存在の不思議さや愚かさとも繋がる"なにがしか"を、意外な角度から光をあてながら静かに読ませる、といった感じ。結論めいたものは示されないし、歯がゆさも割り切れなさもそのままにしているけど、それゆえ、読後には胸の内にとどまって、さらに思考を促すようで、余韻にもなっている。

もう一回読んでみようか、という気にさせる短篇集。


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# by t-mkM | 2017-02-23 01:47 | Trackback | Comments(0)