レコードから見た昭和の東京

ひょんな事からこんな本が出ているのを知り、図書館で予約していたら、このたびようやく届いた。

『東京レコード散歩』鈴木啓之(東京ニュース通信社、2016)

webサイト「歌謡曲リミテッド」の人気連載を書籍化したものだそう。
そのサイトも、著者のことも、まったく知らなかったけど、サイト見ると面白そう。
このサイトにある、著者の連載書籍化の記事を以下にリンクしておく。

http://kayo.musicshelf.jp/serial/id616/

東京の各地、というか各繁華街(なんて、もう言わないか)を、昭和歌謡曲のレコード(LP、EP)コレクターの目線から歩き回って文章にしたもの。ちなみに、著者のプロフィールには「アーカイヴァー」という単語がある。

まったく見たこともないジャケットとともに、それぞれのご当地を歌い込んだレコードが紹介されており、その写真とキャプションをみているだけでも楽しい。同世代の著者であるが、生まれも育ちも東京なので、昭和40年代、50年代の東京を、懐かしさタップリにふり返っている文章が、なかなか読ませる。とともに、ちょっとうらやましくもある。

とはいえ、当方がよく知る地域はたいして広くないので、よく行く箇所に限って「へぇ」と感じたところをメモしておく。

・JR上野駅の中央改札口にある大きな壁画は、猪熊弦一郎作の「自由」という絵だそうで、
 60年以上前から同じ場所にあるとか。
・上野駅といえば、昭和39年に出された井沢八郎『ああ上野駅』。後年、井沢が亡くなった
 とき、愛娘の工藤夕貴が「私が歌い継ぎます」と言ったとか。
・神保町の錦華通りにあった中古レコード店「ターンテーブル」は、現在、
 "両国レコード天国"など出張販売をやっているとか。
・神保町のパチンコ店「人生劇場」は、昔から景品に書籍類が充実しており、レコードの
 種類も豊富だったとか。昔はパチンコの景品にレコードは欠かせなかったらしい。

上野と神保町だけかよ! と言われそうだけど、行動範囲が狭いものでして、この辺で。
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# by t-mkM | 2016-10-20 00:54 | Trackback | Comments(0)

映画『山谷 やられたらやりかえせ』を観る

どなたかのツイッター経由で、こんなイベントがあることを知った。

山岡強一虐殺30年 『山さん、プレセンテ!』10月8日(土)・9日(日)
http://www.anerkhot.net/yama_jyoeii/?page_id=558

8日(土)にはJR常磐線・三河島駅近くのカフェで、以前から気になっていたドキュメンタリー映画、『山谷(やま) やられたらやりかえせ』の上映があるというので、行ってみた。

開場の15時半に会場へ着くと、すでにけっこうな方々が来ている。
会場は「アート・カフェ 百舌」というところだが、1階が焼肉屋のある建物の地下で、カフェというよりも、言ってみればイベント・スペースといった感じか。いったいどのくらい人が集まるの? と思っていたら、上映が始まるころには会場に用意された座席はいっぱい。エアコンもフル稼働。年配の方が目立つものの、意外にも若い人たちも多く、ちょっと驚いた。

この映画については、まずは上でもリンクをはった「「山谷」制作上映委員会」のwebサイトにある「この映画について」の文面が、その経緯などを的確に伝えていると思うので、ちょっと長くなるけどひいておく。
http://www.anerkhot.net/yama_jyoeii/?page_id=315

この映画は一九八四年12月22日、天皇主義右翼・日本国粋会金町一家西戸組組員の兇刃によって虐殺された佐藤満夫監督の遺志をひき継ぎ、その後結成された「山谷」制作上映委員会を中心とした多くの仲間たちが協力し完成させたものである。
しかし、映画完成直後の八六年1月13日、佐藤のあとを受け、実質的な監督として現場をリードした山岡強一が同じく金町一家の放ったテロリストによって狙撃・射殺されるという事態にたち至った。私たちは、この二つの「死」に「この時代の暗黒」を見ざるを得ない。
山岡は、友人に宛てた手紙の中で、この映画の前提として「①一九八四年12月22日佐藤監督虐殺の現実、②それは山谷の現在、③同時に今日の時代状況、④しかも、労働者支配から労務者支配への開始、⑤この搾取と支配の二重構造の中に加速化される差別の現実、⑥それを統合=統治するものとしての天皇制、⑦天皇制という日本主義と資本自体の運動法則からする越境の亀裂は侵略戦争を必然化、⑧しかも、この支配権力の本質は、朝鮮、台湾に対する植民地支配とアジアに対する侵略戦争の延長、⑨従って、労務者支配と強制連行は天皇制と侵略戦争動員を撃つものとして捉え返さねばならない」と書き記している。
山谷(寄せ場)の現実を映画に写し撮ろうとすることは、まさにこのようなことを透し見ることにほかならない。
この映画には実に様々な問題が詰め込まれている。路上手配と暴力支配、被差別部落問題、在日朝鮮人問題、先行的保安処分、地域排外主義、下層差別、そして台頭するファシズムの芽……。しかもそれらは別々に存在するのではなく、寄せ場に集中的にあらわれるこの国の差別・支配構造そのものでもあるのだ。映画に写し出されるひとつひとつの事柄は、寄せ場に固有の問題ではなく、私たちが生きているこの社会の隠された実相であり、日本近代化一〇〇年の実体である。
(後略)

映画では、もういきなりだが、路上に倒れている佐藤監督の場面から始まる。かすかに胸が上下しており(つまり死に際なわけだが)、観ているこちら側も息をのむような、ドキュメンタリーといえどもショッキングなシーンである。
その後、山谷の労働者たちが佐藤監督の「人民葬」で路上を行進していく場面や、争議団が右翼暴力団の息のかかった手配師たちと路上団交を繰り広げるシーン(メガホンを交互にやりとりしながらの交渉はちょっとユーモラス)など、自主的に反撃を繰り広げていく。

山谷だけでなく、横浜・寿町や釜ヶ崎など日本各地の「寄せ場」、そして筑豊の炭鉱住宅や、朝鮮人への差別の実態などもカメラは追っていく。差別される側を描く意図は明確だけど、全体を見ると、若干とっちらかっている印象を否めない。が、それでも、30年前の日本の、それもフツーに生活していては見えない部分をリアルの切り取った映像は、いま見ると(いまだからこそ)いろいろな思いがアタマの中を交錯していく感じ。
とりわけ、昔は寄せ場と言われる所でも、(いろいろあっただろうにせよ)もめ事を当事者たちが自力で解決していく力量があったんだ、というのが強く印象に残る。それから30年余り。果たして、いま、どうなのか。

佐藤監督のあとを引き継いで映画制作を率いた山岡強一氏も、映画完成直後の1986年1月13日に、やはり金町一家によって路上で射殺されてしまう。この山岡氏の追悼の意をこめて、『山さん、プレセンテ!』ということで、もう長年にわたり、全国を回って上映運動をされているようだ。

映画も印象深かったのだが、今回のイベント用に制作されたパンフレットが、これまたチカラの入った内容で、なかなか読み応えがある。1000円を余分に払って入手した甲斐があったというもの。いやホントに。

もうひとつ付け加えておくと、このイベントのころ、偶然にも
『テロルの伝説 桐山襲列伝』陣野俊史(河出書房新社、2016)
という本を読んでいる最中だった。
このイベントにある「プレセンテ」という言葉は、この本の最後、桐山襲の著作未収録短編として収められているタイトルから来ている(と思われる)。もちろん、本では山岡強一氏と桐山襲氏との交錯についても言及がある。

タイミングは重なることもあるんだなぁ、と感じられた日であった。
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# by t-mkM | 2016-10-14 01:05 | Trackback | Comments(0)

ヒグラシ文庫にて大量補充

しました。40冊ほどでしょうか。

鎌倉へ行かれる機会がありましたら、休憩がてら「ヒグラシ文庫」にも足を向けていただき、古本のおいてある棚をご覧くださると幸いです。

ちなみに、今回追加した本の一部を。
『流氓の解放区』
『ペンギンの憂鬱』
『孔雀の舌 開高健 全ノンフィクションⅣ』
『「辺境」の音 ストラヴィンスキーと武満徹』
『計画と無計画のあいだ』
『放っておいても明日は来る』
『無限海漂流記1』
などなど。

あいかわらず、ジャンル不定で、個人的な興味の赴くままの品揃えとなってますが、安めの文庫本も10冊ほど入れてます。
よろしくお願いします。
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# by t-mkM | 2016-10-12 01:42 | Trackback | Comments(0)

ストーンズのニュー・アルバム

12月2日に出るんだとか。

情報ソースは以下。
http://www.din.or.jp/~sugar/b2s/news/index.html

前作『ア・ビガー・バン』以来11年ぶりで、世界同時発売だそう。タイトルは『ブルー&ロンサム』。
なんでも、全曲、ローリング・ストーンズが敬愛するブルース・マンのカバーなんだそうだ。

ぜひ聴いてみたい、と思いつつ、でもどことなくこわいような…。
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# by t-mkM | 2016-10-07 01:25 | Trackback | Comments(0)

カメでアメリだから『カメリ』

なんだそうである。
あとがきで著者がそう書いている。

『カメリ』北野勇作(河出文庫、2016)

レプリカント、ならぬ模造亀(レプリカメ)であるカメリが主人公。なんじゃそりゃ?、って感じだけど、人がいなくなった不可思議な世界が舞台のSF(サイエンス・フィクション)であり、その世界観はなかなかに深いものがある。

著者の以前の作品に『かめくん』というのがあって、これを読んで「面白いじゃん!」と思ったのが著者の本を手に取るようになったきっかけ。

『かめくん』でも主役だったレプリカメ。この『カメリ』では、主役・カメリは卵まで産んでしまうように、女性(メスか)である。そして、「アメリ」だからフランス、というかパリなんである。だから、小説にはパリを思わせる地名があちこちに出てくる。最近、カバー写真を貼ってないけど、これはということで貼っておく。


のほほんとして宙に浮いたような語り口ではあるものの、物語のなかで起こる出来事は、意外にも波瀾万丈とも言えるようなものである。けっこう翻弄されている、とも言える。けど、そこはレプリカメ、フツーの人間が感じたり表したりするような感情表現とはならない。しかも、生物が生きていく上で遭遇せざるを得ないような、本来的にかかえている残酷さのようなものもさらりと描かれながら、淡々と話がすすんでいく。

で、話もSFなので、いやもう壮大なるスケール、かと思えば、案外とチマチマしていて、そうでもなかったりするような、よく分からない、それでいて切ない感じが漂ってもいる、摩訶不思議な感じである。
一読あれ。
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# by t-mkM | 2016-10-06 01:23 | Trackback | Comments(0)

最近読んだ本から

まずは、

『薄情』絲山秋子(新潮社、2015)。

今年の第52回谷崎潤一郎賞の受賞作。
著者自身も住んでいるという、群馬県高崎市の周辺が舞台。主人公は30代半ばとおぼしき実家に暮らす独身男性で、彼の日常が少しずつ変化していく様が、なかなか読ませる。方言で交わされる会話や、クルマに乗って移動する風景に移り変わりとか、かなりリアル(なんだと思う)。群馬県の最新地図でも片手に読むと、いっそう味わい深いかも。

著者の観察眼の冴えが、随所でうかがえて、考えさせられる。
気になった箇所を、少しだけ引いておく。 

 あまりものを言わずに暮らしていると客観性を失う。自分の都合で考える癖がつく。思うことと口に出して言ったらおかしいこととの区別が曖昧になってくる。客観性が乏しくても嘘を言うことができないから余計に自己矛盾が増すのだ。
(p131)

 消去された名前は数えることができない。許容範囲を超えてしまった失策はノーカウントになる。その許容範囲のことを、皆は常識と呼ぶのだ。実際のところ中身は嫉妬やその時期の雰囲気やローカルでしか通用しない「当たり前」だったりするのだが、そういう空気に従属しているのがおれらであって、決して外のひとに対して従属を求めることはない。
(p247)

 誰かを抹消してしまうような薄情さと、よそ者が持つ新しさを考えなしに賛美することって、根源的には同じなんじゃないか
(p251)

もう一冊はこれ。

『生きて帰ってきた男』小熊英二(岩波新書、2015)

内容はというと、まさに副題「ある日本兵の戦争と戦後」のとおり。以下はアマゾンの内容紹介から。

とある一人のシベリア抑留者がたどった軌跡から、戦前・戦中・戦後の日本の生活面様がよみがえる。戦争とは、平和とは、高度成長とは、いったい何だったのか。戦争体験は人々をどのように変えたのか。著者が自らの父・謙二(一九二五‐)の人生を通して、「生きられた二〇世紀の歴史」を描き出す。

話題になった新書だし、アマゾンでも多くが高評価。いまさらこの辺境ブログで付け足すことはないのだけど、高度成長期までの日本というのはホントに貧しかったんだなぁと、つくづく思った。とはいえ、それは「今から目線」から見ていえるわけだけど。
言うまでもなく、小熊氏の父親の人生を描いているので、本書は「一個人の歴史」ではある。では、はたして当時の日本人の平均的な姿だったのか? あとがきで小熊氏は自問自答しつつ、こう書いている。

……一生涯を通じて、すべての場面において「多数派」であるという人間は、どこにも存在しない。社会学では、多数派からはずれた行為を「逸脱行動」とよぶ。しかし、生涯に一度も逸脱行動をしない人間がいたとしたら、それこそ「普通の人」ではないだろう。
 人間は、ふだんは目立たない生活、「平凡」とよばれる生活を送っている。だが生涯に何回かは、危機的な経験をし、英雄的な行動をする。しかし同時に、大枠においては、同時代の社会的文脈に規定されている。
 それこそが平均的な人間というものだ。その意味では、本書で描かれた父の軌跡は、とても平均的なものである。
(p385ー386)

しかし、そうはいっても小熊氏の父親のように、高齢になっても昔のことを細部まで覚えてい(て、しかもちゃんと語れ)る人はそう多くはないだろうと思われるので、対象となる(なれる)人は、限られるのかもしれない。それでも、この本のように、市井の個人を深く取材して同時代の歴史的な背景とともに掘り下げた歴史書?が、いろいろと出てくるようになると、庶民の歴史がマクロまで垣間見えて、ちょっと面白いかも。
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# by t-mkM | 2016-10-04 01:09 | Trackback | Comments(0)

悪所の面影を残す「場」

最近でた文庫で、こんな本が目にとまったのでザッと読み流した。

『旅芸人のいた風景 遍歴・流浪・渡世』沖浦和光(河出文庫、2016)

2007年に文春新書から出た同名著書の文庫再刊とのこと。
これまで、沖浦和光という著者名でいくつかの本を見たことがあって、そのうちの1,2冊は古書店でも買い求めたことがある。もう昔の人かと思っていたけど、ネットで調べると、亡くなったのは昨年のようだ。

最後にある「まとめ」の章で、ちょっと参考になる記述があったので、以下に写経。

今に残る悪所を巡礼
……
 東京などから知人がやってくると、いつも案内する私の「旦那場」「得意場」がある。年に数回はその回遊路を巡る。前著の『「悪所」の民俗誌』で詳しく述べたが、わが人生の<磁場>とも呼ぶべき懐かしい場所である。
 新世界の通天閣を起点にして、「王将」の歌で有名な将棋の坂田三吉ゆかりのジャンジャン横丁を通り抜けて、戦前そのままの遊郭の古態を残す飛田新地に至る約一キロの道である。
 その途中にある三軒の芝居小屋の絵看板を覗き、狭い路地裏にある「猫塚」に寄る。三味線の胴の形をした墓である。三味線の皮にされた猫の供養塚であって、その周りには、浪花節語りなどの遊芸民やテキヤの親方の興行主が寄進した小さな碑がズラリと並んでいる。その横には近松門左衛門の大きな碑が、人に知られることもなくひっそりと立っている。
 飛田新地を抜けると、すぐ阿倍野墓地である。そこには、墓を造ることもできず旅の道中で死んだ遊芸民のために、香具師・奥田弁次郎が建てた巨大な芸人墓がある。
 この界隈を<ディープ・サウス>と呼ぶが、おそらく広い日本の中で、近世からの「悪所」の面影を残す唯一の「場(トポス)」である。明治・大正期の雰囲気そのままで、狭くてゴミゴミしているが、私にとっては懐かしい下町である。この回遊路を歩いて、年に数回は芝居小屋に入り、いつも旅芸人の一座の元気な姿を観て、気分をリフレッシュする。
(p215-216)

(ただ、ここで記載されていることは、著者がいつ頃に経験したことだろうか? 2007年がオリジナルの発刊年だとして、少なくとも10年前。まあもっと以前だと考えたほうが妥当かもしれない。とすると、もはやその「面影」はないのかもしれない)
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# by t-mkM | 2016-09-29 01:09 | Trackback | Comments(0)

最近の2冊

すでに週末。
ほっておくとなーんにも書かないまま一週間が過ぎてしまうので、このところで読んでいた本のうち、印象に残ったものをメモしておく。

『一瞬の雲の切れ間に』砂田麻美(ポプラ社、2016)

先日見た『本の雑誌』の恒例企画である「今年上半期のベスト10」でトップだったこともあって、読んでみた。(この本以外で「コレは」と思うモノがなかったのではあるが)
以下はアマゾンの内容紹介から。

ある偶然が引き起こした痛ましい死亡事故。
突然の悲劇に翻弄される人間模様を、映画『エンディングノート』『夢と狂気の王国』でその才能を高く評価された著者が、独自の視点から描きだした五篇の連作短編集。生の不確かさ、苦しみ、それ故の煌きを、日常の平穏から深く抉りだす驚きの筆力。映画だけにとどまらない才能を、ぜひその目でお確かめください。

映画監督でありながら、とても読ませる小説を書くといえば、西川美和という方がいるけど、この方もそこに連なる人のようである。このところ、「二足わらじ」のどちらもが上手い、という例を目にするなぁ。
五つある連作短編の、そのどれもに小学生の交通事故という事件が横たわっており、それに関係する人々が語り手となっていく。それぞれに鬱屈したものを抱える語り手の、その心の内の描きようがなかなかに独特で、ページをめくる手が止まらずに一気に読んでしまった。

「最終的にどうなるの?」と思いながら読んだけど、ラストの語り手によるエピソードがとりわけ印象的。そして、どの語り手のパートでも、存在感のある脇役が出てくるのがイイ。

もう一つが、
『木挽町月光夜咄』吉田篤弘(ちくま文庫、2015)。

以下はアマゾンの内容紹介。

かつて木挽町という町があって、そこに曾祖父が営む鮨屋があった。一代で消えた幻の店を探すうち、日常と虚構、過去と現在がゆらゆらと絡み合いひとつになってゆく。少年時代のこと、出会った本や音楽のこと、東京という町のことなど、日々の暮らしによぎる記憶と希望を綴った、魅惑の吉田ワールド。新たな書き下ろしを加えて、待望の文庫化。

解説は坪内祐三。
その坪内さんが、「エッセイ集でベスト3に入る」とかなんとか書いていたのを立ち読みしたこともあって、読んでみた。

木挽町とは、いまで言うところの東銀座の辺り。
著者が、ひょんなことから曾祖父が木挽町で鮨屋をやっていた、ということを知るところから始まる。ネット上ではなんとなく評価がいまひとつのようだけど、増えた体重を嘆きつつ、現在と過去の自分自身を行きつ戻りつしながら、あれこれを思いをめぐらしていくさまを、たっぷりと味読し堪能した。いわく、小説のような書きぶりが不評の一因のようだけど、いやいや、じゅうぶんに明確に、エッセイだと思うけどな。

後半に出てくる「3.11」の震災をはさんでの雑誌連載をまとめた本。すっかり昔のようだけど、あのころの都内の、薄暗い地下鉄のホームやら通路を久しぶりに思い出した。それに比べ、いまどきの明るいことよ。もう少し照明を落としてもいいのでは。

まあ、それは蛇足だけど、この本、できれば部屋でじっとして読むより、電車に乗るなど、移動しながら読むのが向いている、と思う。
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# by t-mkM | 2016-09-23 01:17 | Trackback | Comments(0)