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(通常の日記はこのエントリの下から始まります)

◆ 鎌倉「ヒグラシ文庫」での常設棚 ← 2018/5/20で古本販売は終了しました。

 2011年5月末より7年間、どうもありがとうございました。
 (お店は変わらず、営業中。古本T以外の本の販売も継続中)


# by t-mkM | 2025-12-31 23:59 | Trackback | Comments(0)

社会運動論の新書は無かった

昨今、ラジオでのコメンテーターでよく出演されている著者による、”初めての”社会運動論の新書とのこと。

『なぜ社会は変わるのか』富永京子(講談社現代新書、2025)

1960年代から2000年代にかけて、40年間にわたる様々な理論の変遷を事例も交えて後付けていく。ちょっと難解な(とっつきにくい)ところもあるけど、文章は平易で分かりやすい。あとがきに「同業者からの理不尽な批判」とあり、そういう文化なのだとか。
以下、その部分を写経しておく。

 実は、社会運動論の新書は存在しない。『環境社会学入門』(長谷川公一、ちくま新書)や『社会を変えるには』(小熊英二、講談社現代新書)といった社会学者による隣接領域の新書はあるが、これが日本で初めての社会運動論の新書となる。
 新書という、社会科学を学ぶうえで最も手に取りやすい媒体で、それなりに社会学でもメジャーである社会運動論の本が出ていない。本が出ないという背景にはいろいろ要素があるのだと思うが、私はなんとくなく予想もついていた。
 日本の社会運動論では「実証的センスのなさ」「中途半端な学説研究」といった、およそ学術的とは言えない表現を用いた、パワーハラスメントと捉えてよいような書評や批判も見られる。このような書評や批判が横行する文化の中で、本、しかも入門書を敢えて書こうとする研究者がどれだけいるだろうか。
 かくいう私も、この本を書いている最中、同業者からの非難を恐れて「知ってます」「勉強しました」と示すためだけの引用や理論紹介を書いては消した。この本は、新しい社会の見方を求める読者のための本であって、パワハラしてくるような同業者のために書くのではない。いくら理不尽で不条理なことしか言わないとわかっていても、自分よりキャリアも影響力もある同業者からの攻撃は怖い。

 しかし、それでも書くべき本だと思った。
 高圧的な書評を恐れて誰も入門書を書かず、学術的な本だけが流通すれば、一般の人に社会運動論が知られることはない。結果として、日本における社会運動の見方は、参加か不参加か、共感か反感か、賛同か否定か、といったきわめて貧しいものになる。
 だが、私は社会運動論の知見が、社会運動をしている人だけでなく、社会運動をしていない人にも役に立つことを、これまでのさまざまな仕事の経験から知っている。だから勇気を出して書くことにした。同業者からの理不尽な攻撃は怖いが、それを超えて伝える価値のある知見だと思うからだ。
(p241-242)


# by t-mkM | 2025-10-14 01:18 | Trackback | Comments(0)

ザハ案の批評性、新しい凡庸さ

とあるブログ* から啓発されて、図書館で借り出して読んでみた。

『建築の難問』内藤廣(みすず書房、2021)

「新しい凡庸さのために」というサブタイトルが付けられている。
拾い読みを続けているだけだけど、上のブログ主と同じく、”めったにない優れた書物”だと感じる。
以下、気になるところを2つほど、写経しておく。

 ザハの案は批評性という意味ではおもしろかったと思います。もちろん内容として、わたしはあの案にはいまだに賛同はできません。つくり手としては、わたしはああいうつくり方はしないし、作品性が際立ちすぎるああいう異形の建築はどうかとも思っていて、そのあたりについてはずっと一貫しているつもりです。わたしはコンペでは最後まで票を入れませんでした。当選案が決まってしばらくして槇さんの疑問を呈する文章が発表されて騒動が始まりました。この間の経緯を簡単に説明しておきます。
 ザハ案を推した審査委員だった鈴木博之さんが亡くなり、これが最初の大きな痛手でした。次にそれに重なるように審査委員長だった安藤さんが大病を患いました。はじめからなんとも不幸な船出でした。わたしは仕方なく事後の始末に乗りだしましたが、すでにいろいろなことが手遅れでした。すでに一年が経過していたのに事務局も統率力に欠け、設計者間の意思疎通もできていませんでした。構造形式すら決まっていない状態でした。
 あのときSNSで噂がばらまかれて拡散すると、もう人前ではものが言えない状態になりました。そうなると守っている事務局のほうもかたくなにディフェンスを固めるようになります。攻撃するほうも情報がないから想像力を悪いほうへ膨らませていきます。すべてが悪循環です。まともな批評も何もあったものではありませんでした。
 当時、自衛隊の法的解釈で国会がもめていた政治的状況が裏にあったはずですが、白紙撤回というワイドショー的にわかりやすい大岡裁きが下されました。あのプロジェクトは政治的な目くらましの材料にされたわけです。まったく思いもかけぬ不意打ちで、ここにいたったのは事態収拾にあたっていたわたしの力不足です。
 またずいぶん批判されたコンペのプロセスに関しては、批判はほぼあたっていると思っています。しかし当時の事情やなりゆきということもあります。もともと多くの人は誘致はむずかしいと思っていたはずです。事務局はプレゼンに必要なためにめだつ絵がほしかっただけで、実際に建てるつもりもなかったのではないかと思います。それが対抗馬であるイスタンブールの政治状況の不安定化とマドリッドの経済的な苦境が生じて、思いもかけず誘致が成功してしまった。これが実情です。いま思えばその段階でちゃんと仕切りなおしをしていればよかったのですが。
 ザハの案は、ある意味では建築界の怒りを買ったわけですが、見方を変えればそれだけ批評性があったということです。では、その批評は何に対する批評だったのでしょうか。わたしは、ザハが批評しようとしたのは、ひとつは既存の建築的な価値に対する批評、もうひとつは東京という都市に対する批評だったのではないかと思います。前者の批評性については、特異な形をしていましたから感情的な反発を受けたのだと思います。しかし、それはなかなか論理化できないので次第に後者の問題に焦点が絞られていきます。あの場所に異形の建築が建つのは調和を乱すという都市景観的な批評です。つまり、このプロジェクトは平成の黒船になったのです。
(p176-178)

 哲学者でありジャーナリストでもあったオルテガ・イ・ガセットが著書『大衆の反逆』のなかで「大衆とは平均人のことである」と言っています。平均的な人、これは同じであることを苦痛に感じず、それでいて同じであることをひとつの権利として主張する人たちの出現です。そしてこれが民主主義の原動力だとも言っています。見方によっては、これを大衆の衆愚のあらわれと言ってもいいかもしれないけれど、それを「ふつう」と呼ぶのはどうか。凡庸さであることが目的化するのがよいのかどうか。他人と違っていることが嬉しいのではなく、凡庸であることが嬉しい。それでいいのか。オルテガは二十世紀の社会的な傾向に警鐘を鳴らしたのです。
 もしかして、これはプレハブリケーションがもっている基本原理かもしれませんね。もっと言うと無印良品がもっている基本原理かもしれないし、ユニクロの基本原理かもしれないし、トヨタの基本原理かもしれない。
 たぶん、そのあり方はすこぶる企業活動と結びつきやすいんですよね。そうなるとある意味で不幸な寡占が生まれる。凡庸さの寡占状態。それはひょっとしたら、ある種の大衆社会の出現と巨大資本の出現と、そういうものがリンクしていて、建築というテリトリーではそれは住宅産業におけるプレハブリケーションであるとみることもできる。つまり、オルテガが言った同じであることを苦痛と感じない人たち、むしろそのことを権利だと感じる人たちのための社会装置として凡庸さが演出された。つまり、どちらかという「演出された凡庸さ」ですね。
 もうひとつは、作家のチェスタートンが「平凡なことのほうが非凡なことより非凡である」と言っているんです。つまり、平凡なことは非凡なことより価値があると。これも民主主義の原則なんですね。オルテガと違って、こちらは肯定的です。でも、そこからもうひとつ時代の歯車はまわってきている気がします。そのことがある種のナショナリズム的な傾向につながらなくもないんですよね。すごいことに香港の人たちはそれに抵抗しているわけです。この時代にあって、ああいうことが可能なんだということを示しているのはかなり勇気がいることです。
(p222-224)

*:「オベリスク備忘録」というブログです。



# by t-mkM | 2025-09-04 01:22 | Trackback | Comments(0)

灰野敬二のライブ

前のエントリで書いた、超長編ドキュメンタリー映画『AA』を観て、もっとも強く印象に残ったのは灰野敬二だった。

というか、『AA』において、冒頭とラストでのアコースティックギターによるソロ演奏はもちろんのこと、灰野自身のインタビュー映像自体もけっこうな長さだったと思うし、話している内容はもとより、(編集によって)インプロビゼーションをめぐって大友良英と(丁々発止の?)やりとりしているかの構成は、なかなか見応えがあった。

『AA』を観た後、いくつか図書館へリクエストしたのだが、その一つが灰野敬二の著作。

『捧げる 灰野敬二の世界』灰野敬二(河出書房新社、2012)

ほどなく届いて、読んでみた。
読むといっても、ディスコグラフィーと活動記録がとても詳細で、これだけで結構な分量。あとは佐々木敦やジム・オルークとの対談記事など。
この本のことはまた後で取り上げよう。

『AA』を観た後、いろいろと検索していたら、5月3日(土、祝)、高円寺にあるライブハウス「Show Boat」 で灰野敬二の生誕公演ライブが行われることを偶然知った。
連休中だし、これも何かの縁かと思い、メールで予約申込みして行ってみることに。

高円寺駅から細い道をしばらく歩くと、右手に地下にある「Show Boat」に着く。
そのさらに奥には、コクテイル書房、またその姉妹店である本店・本屋の実験室などがあり、ちょっと覗いてみたり。
(コクテイル書房がこの場所にあるということを、すっかり忘れていた)

この日、16時開場、17時開演というアナウンスだったので、16時にはShow Boat へ行った。すでに周辺にたむろしているというか、並んでいる様子。いまひとつ不案内だったので、店の人に聞いたら、「予約のみの方はそちらに並んで」と言われ、少し離れたところに確かに「予約のみの方はこちらに並んでくれ」という掲示が出ており、すでに6、7名が並んでいる。
なんだかんだで、地下のライブハウス店内に入れたのは、開演15分前くらいか。

見ると、新宿ピットインがぎゅっと小さくなったような感じで、正面にステージがあり、パイプ椅子が40名分ほど並び、それより後ろはスタンディングのスペース。すでに椅子席は満員でその後ろにもお客がいる状態。ほぼほぼ満員だが、お客さんは100名、...まではいなかったかな。

開演17時を過ぎたあたりでメンバーが出てくる。店のサイトには「生誕公演」とあるだけだったけど、ドラムとエレキベースが加わった不失者でのライブのようだ。

それで。
まあ、半ば予想はしてもいたのだけど、ライブ冒頭から、その爆音には驚いた。
耳に、というかカラダにくる音。カラダ全体で音を浴びると言えばいいか。いやまあ、正直、(そろそろ歳も歳だし)鼓膜がマズいのでは、と不安になる感じではある。周り見てみると、似たような年頃の方で耳栓をしている人も見かけたな。
(まあ、耳栓してまで生音を聞く?、 と思わなくもないけど、生で見て聞きたい、というのは分かる)

途中、休憩を挟んで20時頃から第2部がスタート。
アンコールも含めて、終わったのは22時だったか。(そもそも、ShowBoatが22時までのようだ)
第2部の冒頭、見慣れない楽器?での演奏もあったり、アコースティックギターでの曲もあったが、もっぱら、エレキギターでの爆音の曲が続いた。
バイオグラフィーによれば灰野敬二は73歳。第2部の後半に至っても、ドラム、ベースとの間合いをとりつつ、曲のエンディングを采配していく様は、ライブ冒頭と変わらないように見える。

一方、こっちは演奏しているわけじゃないけど、5時間ほど立ったままで、第2部の頃には足が張っていて、久しぶりに足腰を酷使した感じで、いやもう疲れたのなんの…
そんなことを考えていると、灰野のライヴと音楽への熱量がどこから来るのか…、と思わざるをえない。

それで、最初で言及した『捧げる 灰野敬二の世界』を改めて見てみる。
活動記録によれば、ShowBoatでの5月3日の生誕公演を毎年やってるのが分かる。それも含めて、毎年、衰えることないライブやパフォーマンスの大量の記録。なかなかスゴいことだな。
この活動を支える熱量、意思、活力、等々がどこから来るのか? この本を見ていても、ちょっとよく分からないのではあるけど。

まあ、長らくプロの音楽家としてやってきた方と比べるのもおこがましい気もするけれど、これからも注目したいと思わせる存在ではある。



# by t-mkM | 2025-05-20 01:44 | Trackback | Comments(0)

間章をめぐって

今年のGW、中途で平日が3日間あったので、長期の休みという感じが薄かったようにも思うが、まあそれでもGWではあり、世間は休暇という感じではあったかな。
そんな中で、特に遠出もしなかったけど、これまでにない映画とライブを体験したので書いておく。

『AA 音楽批評家:間章』

この4月26日から5月2日まで、早稲田松竹で青山真治監督の特集があり、そこで上映されていた。
この映画、全部で6章あって、トータルの上映時間は7時間半におよぶ長編ドキュメンタリー。2006年の公開当時から気になっていたけど、見るチャンスが無く、この機会を逃すともはや見られないかもと思い、足を運んだ。

今回の上映は、2章ずつ3部に分かれ、それぞれで規定の料金を払えば観られるが、3部すべてだと2500円。
ワタクシが観たのは4月27日(日)。上映は第1部が10時半から始まり、途中で20分の休憩を2回はさんで、3部が終わったのが18時40分。お客の入りは3、4割ほどだったか。

この『AA』、サブタイトルに「音楽批評家:間章」とあるものの、間章その人の映像はおろか、声すら出てこない。まあ、ちょっと特異なドキュメンタリーではある。
1978年に32歳で急逝した、音楽批評家:間章と交流のあったミュージシャンやゆかりのある音楽家や批評家のインタビューを通じて、間章という批評家がやろうとしていたこと、そして彼が活躍した1970年代という時代を振り返り、彼がもっぱら批評していたフリージャズ、プログレッシブロック、インプロビゼーションといった音楽を考察していく、というもの。

映画は、灰野敬二のアコースティックギターによるソロ演奏で幕を開ける。灰野敬二という人は以前から知っているし、長らくやっているバンド「不失者」もCDを1、2枚聞いたものの、よく分からず…。でも、この映画冒頭のソロは、ちょっと掴まれたというか、もって行かれた?気がした。
以降、灰野を含め12人のインタビュー映像が、これといった背景説明も無く、一定のテーマ性のもとで各人の該当部分を集めてひとまとまりとなり、映画として1時間強の短篇?の「章」としてまとめられ、それが6章分、7時間半つづく。
眠くなるとか尻が痛くなるのかと思いきや、そんなこともなく、この映画で初めて知ることもあったし、「へぇ」という箇所も多々あり、淡々と流れる各人のインタビュー映像を最後まで興味深く見た。

この超長編のドキュメンタリー映画をさらに深掘りするのに、何かないかと検索したら、

『間章クロニクル』リンディホップ・スタジオ編(愛育社、2006)

という本が見つかり、図書館にリクエストして取り寄せた。
この本、ちょうど真ん中に間章の単行本未収録原稿が6本あって、ほかに「撮影日誌」「『AA』のための用語集」というのもあり、早稲田松竹では販売がなかった映画パンフレットの充実拡大版といった感じ。
最初のほうでこの『AA』の監督である青山真治のインタビューが載っていて、映画を観た後で読むと「ふーん」という箇所がある。2つほど引いておく。

青山 …一度文章に書いたことがあるんですけど、その頃東京にいたら死んでいたかもしれないって思うところがあるんですよ(笑)。『AA』のなかで灰野さんが「なぜ命を削るようなことをするのか」と力説する、僕も非常に好きなシーンがあるんですが、「いやあ、そうですよね」と思いつつも、もし僕が、間、バロウズ、あるいはイギー・ポップといった人たちを含めたあのカルチャーに東京で埋没していたら、たぶんそちらに側に染まりきってしまって、今頃生きてはいないかもしれないという気もします。
(p16-17)

青山 …ある一音を自分の経験を総動員して掴み取ろうとすることが彼の批評だった気がします。その本気っぷりっていうのは、『AA』のなかで高橋巌さんが「命懸け」という言葉を使っているんですが、本当にそうだったんだろうと思うんですよ。だから、自分もできればそのようなことがしたいわけです。『AA』は完成までに5年かかったわけですが、5年間ずっとそのことに苛まれ続けていました。
(p22)

で、上でも取り上げられている灰野敬二のライブへ行ったことに繋げたいのだけど、長くなったので、それはまた別エントリで。


# by t-mkM | 2025-05-15 02:00 | Trackback | Comments(0)