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(通常の日記はこのエントリの下から始まります)

◆ 鎌倉「ヒグラシ文庫」での常設棚 ← 2018/5/20で古本販売は終了しました。

 2011年5月末より7年間、どうもありがとうございました。
 (お店は変わらず、営業中。古本T以外の本の販売も継続中)


# by t-mkM | 2019-12-31 23:59 | Trackback | Comments(0)

映画『居眠り磐音』を観てきた

最近、これといって観たい映画をやってない…。

なんて思っていたところ、佐伯泰英のベストセラー時代小説、『居眠り磐音』シリーズが映画化されたとか。
前に作ったTOHOシネマの「シネマイレージカード」の「6回観ると1回タダ」というオマケを使っていなかったので、これを機に無料で観てきた。

『居眠り磐音』 監督:本木克英 原作:佐伯泰英 主演:松坂桃李、木村文乃、ほか
 (松竹、2019)

観に行ったのはTOHOシネマズ上野。スクリーン6での上映。
車イスのスペースがある、すぐ後ろの座席をネット予約したんだけど、想定していたよりも座席がスクリーンにけっこう近くて、思いのほか大画面を満喫した。
(もう少し後ろの方がよかったかな)

原作である『居眠り磐音 江戸双紙』が51巻で完結し、それを古本屋で手に入れて読んだことはブログにも書いた https://tmasasa.exblog.jp/26170243/ けど、あれは2016年9月だったのか。時間が経つのは早いよなぁ。

この映画、『居眠り磐音』というだけのタイトルなので、原作(全51巻!)のどこまでを映画化するのか、気にはなった。ま、でも、第1巻の「陽炎の辻」から始まり、原作の初期、おそらく数冊分から部分的にエピソードを取ってきてアレンジし、うまくまとまっていたのではないか。ただ、ちょっと詰め込みすぎの感が無きにしもあらずで、ストーリーを原作に(忠実に?)引き寄せたせいか、やや展開に強引な箇所も見受けられた、かな。

冒頭、松坂桃李のチョンマゲ姿、どうにも違和感が拭えない(似合ってないのはメイクのせいか?)。後半、脱藩して浪人となったザンバラ頭の侍姿はカッコイイのだけどね。それと、全体として出演者がなかなか豪華であること。中でも、柄本明と柄本佑の親子が出ていて、親子で共演するまでのシーンは無いんだけど、一癖も二癖もある大物商人の役での柄本明の演技、これがなかなかスゴイ。(いかにも悪役といった感じのメイクも含めて)

また、主人公・磐音が剣の達人であることから、殺陣の場面も多いんだけど、真剣でやりあうシーンはとくに見応えがある。(ただ、原作だと真剣ではなく木刀を使っていた場面もあったような…)
ラストの吉原での場面もけっこう凝った画面だし、本格的な波瀾万丈チャンバラ(って死語?)時代劇として、見応えがあった。

シリーズ化を見据えていると思うので、映画のヒットいかんにかかわらず、ぜひ続編を見てみたい。


# by t-mkM | 2019-05-22 01:55 | Trackback | Comments(0)

最近読んで、印象に残った本 その2


『疾れ、新蔵』志水辰夫(徳間文庫、2019)

図書館で見るまで、シミタツのこんな新刊が出ていたのを知らなかった。

巻末にある北上次郎の解説に、著者が現代を描くことから「降りて」、時代物に活躍の場を移した経緯が書かれている。シミタツの時代物については以前にも感想を書いたけど(https://tmasasa.exblog.jp/20342368/)、本書ではハードボイルド風味はちょっと引っ込んで、登場人物がより多く多彩になって、近現代の歴史を感じさせる「へぇ」というエピソードもあったりして、読み応えがある。

「蓬莱屋帳外控」シリーズの新刊も待ち遠しい。


『ヒューマン・ファクター[新訳版]』グレアム・グリーン/加賀山卓朗(ハヤカワepi文庫、2006)

小説家を含む著名人が、本書を読んで「頭を下げました」なんていうコメントを発するのを、これまでにいくつか見た。裏表紙には「スパイ小説の金字塔」なんて書かれてもいるし。

007のようなアクション物とは正反対で、派手なシーンは全くないし、またジョン・ル・カレのスパイ小説の主人公よりも、さらに小粒というかヒラの役人のような感が強い。とはいえ、身近な人は死んでしまうし、スリルある場面もあって、会話のなかに込められる登場人物の心のうちや、さりげなく出てくる小物(なんといってもウイスキーJ&B!)の使い方とか、とにかく読ませる仕掛けが凝っている。

これに限らず、グレアム・グリーンの小説を読んでみようと思わせるに十分。



# by t-mkM | 2019-05-09 01:22 | Trackback | Comments(0)

最近読んで、印象に残った本 その1

「平成」も終わり、いつの間にかGWも終わり、「令和」が本格的に始動する、ということのようだけど、10連休だったとはいえ、終わってしまえば直ちにいつもと変わらない日常が始まるわけで。
ま、改元に絡んだあれやこれやがひとまず落ち着いて、何より。

この連休中、なんだかんだで結局、映画にも行かず、いつものように近所をウロウロしていることが多かったかな。
久しぶりのエントリなので、この間に読んで印象に残ったものをランダムにあげてみる。

『病理医ヤンデルのおおまじめなひとりごと』市原真(大和書房、2019)

「病理医ヤンデル」とは、10万人のフォロワーを持つアカウント名(https://twitter.com/Dr_yandel)で、ネットでは著名な方のよう。ブログもあるようだ。
冒頭、なんだかやる気のなさそうな書き出しで、正直「どうなの?」とも思ったのだけど、中盤から一気に面白くなる。
病院とは、かなり特殊な職場ではあるけど、それを一歩引いたところから見た、その視点が読ませる。そして、ガン患者を例にとった、病院=劇場という説明が秀逸。しかも、患者は主役であり、なおかつ観客でもあるという指摘が、まさに「目からウロコ」であった。ガンにならずとも、入院などという(できれば避けたい)事態に直面するに際し、本書で説明される構図を理解していると、いろんな意味で有益かも。


『海を撃つ 福島・広島・ベラルーシにて』安東量子(みすず書房、2019)

2011年の3.11、続く福島第一原発における事故の後、ETHOS in FUKUSHIMA(福島のエートス)という活動を立ち上げた方による、事故後7年半を振り返った書。記録というよりも、もっと個人に引き寄せて綴られた、言ってみればエッセイに近いものだろうか。
http://ethos-fukushima.blogspot.com/p/blog-page_3412.html

ネットで調べると、この「福島のエートス」にはいろいろと批判もあるようだ。この本を読んでいて、東電や政府への批判などはほとんど出てこないけど、そんなところが反発されてしまうのかもしれず、まあ分からなくはない。ただ、原発事故で直接の被害を受けた現地の当事者が、その土地に住み続けようとするために住民自身で行ってきた試行錯誤や努力の足跡を、この本で改めて、というかホントに腑に落ちるかたちで、思い知らされた気がした。

以下は版元のサイトに載っている本書からの引用。
https://www.msz.co.jp/topics/08782/

そして、私は気づいた。原発事故によって放出・拡散された放射性物質が損なったのは、通常、事故が起きなければ自覚することさえない、私たちの暮らす環境そのものへの信頼だったのだ。自分の暮らす場所を信頼していますか? なにか不安はありますか? 通常であれば、奇妙な問いだ。だが、私たちが原発事故以降ずっと問われ続け、そして知りたいと願っていたのは、きっとこのことなのだ。彼女の言葉によって、私は測ること、暮らすことの意味を理解できた気がした。私たちは、失われた土地への信頼をひとつひとつ測りながら確認し、またつなぎ合わせていく。
(「末続、測ること、暮らすこと」)



# by t-mkM | 2019-05-08 01:07 | Trackback | Comments(0)

驚きのデビュー作『ニックス』

著者のデビュー作。とはいえ、12年をかけて書き上げたそうで、そのためか、小さな活字で2段組、700ページの大作(翻訳でだけど)。正直言って、重いし、厚いし、読みにくい。それでも、面白くって、ちょっとなかった読書体験であった。
メリル・ストリープ主演でドラマ化されるらしいけど、物語の構成も含めて、「たしかに長編ドラマ向きかも」と思えるような内容ではあるかな。

『ニックス(THE NIX)』ネイサン・ヒル/佐々田雅子(早川書房、2019)

以下はアマゾンにある内容紹介。

「母上は知事を石で襲いました」「冗談でしょ」サミュエルの母フェイは、彼が小さいころ家を出て行方知れずになった。そして数十年後、書けない作家兼大学教員になった彼のもとに知らせが入る―母が州知事を暴行して逮捕された。事件についての様々な憶測と報道がアメリカ全土をにぎわすなか、サミュエルは自分を捨てた母に復讐しようと、母の半生を調べはじめる。しかし、見えてきたのは、長年信じてきたものとはまったく違う事実だった。1960年代から現代まで、アメリカ中西部から、ニューヨーク、ノルウェーまで、さまざまな時代と場所から浮き上がってくるフェイの人生とは?そしてサミュエルとの断絶は修復されるのか。ジョン・アーヴィングが絶賛した、ユーモアと切なさに満ちた感動長篇。ロサンゼルス・タイムズ文学賞(新人部門)受賞!

出だしは1988年。そこから2011年と1968年とを交互に行き来しつつ、「はたしてどこに連れていかれるのか?」 中盤に至ってもまったく見当がつかない。
エピソードが次のエピソードへ繋がり、かと思うと脱線し、またそこから別の話に広がっていき…。ディティールを脈絡なくつなぎ合わせ、どこまで積み重ねるの? と思いきや、そうしたあれやこれやが次第に形を見せくるところが、なんというのか、小説を読んでいる醍醐味があるとでも言ったらいいか。

それと、こなれた訳文のおかげによるリーダビリティの高さもある。翻訳モノを読んでいるという感覚がほとんどしない(もちろん、人物名や場所はカタカナだし、歴史的な部分もアメリカでの出来事だけど)。この訳者による翻訳小説は、アタリが多いように感じる。

エピグラフに置かれた仏教の説話が、内容を端的に表しているんだけど、これ、「群盲評像」として知られるエピソードですね。
盲人たちを王の前に連れてきて、象に触れさせる。ある盲人は鼻を、別の盲人は牙を、また別の盲人は足を…というぐあい。で、王の前で「像とはなんぞや」を答えさせるのだが、それぞれの盲人がバラバラの「象」を語り、言い合いになり、あげくには殴り合う始末に。それを見て王は笑った、という話。

で、いろんなことが書かれているんだけど、ラストの部分から2つほど引用しておく。

 ポウンジが以前、サミュエルにいったことがあった。実生活で出会う人間は敵、障害、謎、罠のどれかだ、と。2011年夏ごろ、サミュエルとフェイにとって人々は明らかに敵だった。総じて二人が人生に望んでいたものは、独りにしておいてもらうことだった。けれども、この世は独りでは耐えられない。サミュエルは本を書きすすめるうちに、自分がいかに間違っていたかに気づいた。というのは、人々を敵や障害や罠と見るなら、彼らと、そして自分自身と常に戦争をすることになるからだ。一方、人々を謎と見ることを選ぶなら、そして自分自身を謎と見るなら、常に喜びを感じられるだろう。というのは、結局のところ、もし誰かを十分に深く掘りさげるなら、誰かの人生のフードの下をのぞくなら、なじみのある何かが見つかるはずだからだ。
 当然ながら、それは彼らを敵と信じるよりも具合よくいく。理解することは、単純に憎悪することよりもむずかしい。しかし、それは人生をひろげてくれる。独りと感じることも少なくなるだろう。
(p699-700)

 しかし、フェイの見かたでは、ときに危機がほんとうの危機ではないことがある。ーー新しい始まりにほかならないことが。あらゆることを通じてフェイが学んだのは、新しい始まりというのがほんとうに新しければ、それは危機のように感じられるということだ。ほんとうの変化はいかなるものであれ、初めは恐ろしく感じられるものなのだ。
 もし、それが恐ろしくなければ、ほんとうの変化ではない。
(p703)

重厚長大さのためか、まだネットにも感想などが少ないけど、サミュエルとフェイとともに昔と今のアメリカを行き来し、小説世界にドップリハマってみる価値は十分。
いや、堪能したなぁ。



# by t-mkM | 2019-04-17 01:36 | Trackback | Comments(0)

『左派ポピュリズムのために』を読んだ

本文は100ページちょっと。取っつきにくいかと思ったけれど、そんなことはなくて、昨今の国内における政治や経済、社会をめぐる状況をつらつらと思い返しながら、とても興味深く読んだ。

『左派ポピュリズムのために』シャンタル・ムフ/山本圭、塩田潤(明石書店、2019)

以下はアマゾンにある内容紹介。

私たちはまさに「ポピュリスト・モーメント」の只中にいる――。「ポスト政治」的状況において、左派ポピュリズムの可能性とは何か。本書は、「少数者支配」に対抗する「人民」を構築し、民主主義を回復・深化させるためのラディカル・デモクラシー戦略を提示する。

社会科学の書というよりも、理論研究者による政治的実践への呼びかけ、戦略提示、アジテーションの書といった感じか。

「政治」のフロンティアをどこに規定するのか、「人民」の構築、左派はサッチャーの手法に学ぶべき、民主主義の根源化、などなど、印象的なキーワードを使いながら、少数者支配への対抗軸とその戦略を提示していく。
ちょっと的確にまとめにくいんだけど、「こんな分析や提示を、すでにやっている人がいるんだ」と、”発見”した感じ。

本書を読もうと思ったきっかけは、以下のブログ記事。

無為雑感『左派ポピュリズムのために』
http://zakkan.org/blog-entry-1391.html

「左派ポピュリズム」というのは、すでにそれなりに広まっている用語のようで、以下のブログ記事に、本書に関連しているあちこちでの論考などがまとめられている。

Honey Got His Pen 【メモ】左派ポピュリズム
http://hunihu2.hatenablog.com/entry/2019/02/19/【メモ】左派ポピュリズム

上のブログ記事以外で、さらに見つけたものを以下にリンクしておく。

Web中公新書 『ポピュリズムとは何か』/水島治郎インタビュー

Voters No.36 特集 ポピュリズムを考える(PDF)
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/senkan/documents/voters36.pdf



# by t-mkM | 2019-04-11 01:16 | Trackback | Comments(0)

50年代、サークル文化集団、工作者

戦後の東京南部におけるサークル文化集団に関しては、10年くらい前だったか、『現代思想』が臨時増刊で特集していた(2007年12月臨時増刊号『戦後民衆精神史』)中にも記事があったりして、ちょっと興味を持っていた。
先日、『月刊みすず』1・2月合併号の読書アンケートをつらつら見返していて、下記の書を取り上げていた方が目にとまり、「じゃあ、読んでみるか」と手に取ってみた。

『下丸子文化集団とその時代』道場親信(みすず書房、2016)

巻末には詳細な注と年表があり、400ページを超える大部な本で、まさしく労作。専門的な学術書であり、マニアックな著作ではあるけれど、人文的な素養のないワタクシでも十分に興味を持って読んだ本である。そして、本書は著者の遺作でもある。

以下は版元のサイトにある紹介ページからの転載。
https://www.msz.co.jp/book/detail/08559.html

1950年代、サークル文化運動が空前の盛り上がりをみせていた。無名の人びとが詩や小説を書き、ガリ版で刷り、集まっては語り合った。文化産業は未発達で、人びとは貧しかった。サークル文化運動は若い労働者のあいだで野火のように広まり、文学サークル、うたごえサークル、演劇サークルなど、全国各地に無数のサークルが誕生する。
そのなかでも光を放っていたのが、東京南部(大田区・品川区・港区)の「下丸子文化集団」である。町工場や軍需工場がひしめく下丸子で生まれた文化集団は、若者たちの表現を解放した。暮らしや社会への思い、朝鮮戦争下での反米抵抗などを詩にした『詩集下丸子』『石ツブテ』などの詩誌や、「原爆を許すまじ」などの歌を生み出し、全国に大きな影響を与える。
当時の文化集団は左翼政治の影響を色濃く受けており、人びとは時に党の方針に翻弄されながらも、生き生きとした表現を生み出し、やがては思想的に自立することになる。
わら半紙にガリ版の印刷物、その場限りの上演活動ゆえに、一大旋風を巻き起こしたサークル文化運動はわずかな痕跡しか残していない。本書はそれらの資料の丹念な読み込みと、当事者への膨大なインタビューから、サークル文化運動の実像をはじめて明らかにし、「もう一つの戦後史」を鮮やかに浮かび上がらせる。


まず最初に読んで驚くのは、50年代における「詩」という表現形態が、(特に若い人の間で?)いかに広く行き渡り、詩による交流があったのか、という事実である。今から見ると、ちょっと信じられないくらい、詩がポピュラーなんである。ま、ラップとかヒップホップだって「詩」だと思えば、昔から変わってない、とも言えるのかもしれないけど。

また、上にある「党の方針」というのは日本共産党のこと。
当時、共産党はさまざまな理由から事実上、分裂しており、主流派の「武装闘争方針」による山村工作隊などの活動を行なっていたという。ただ、そういう方針が人々からはそっぽを向かれ、国政選挙では数十あった議席が一気にゼロになるなど、混乱の時期だった。そんな中、共産党は55年に第6回全国協議会(六全協)を開き、そうした活動を「極左冒険主義」として精算していく。
その頃、サークル運動というのは共産党がコミットする活動でもあったようで、そんな党の混乱の影響をモロに受けるのである。

で、本書の書評をネットで漁ると、徳島大学の樋口直人という方による書評(pdf)があり、小熊英二氏の著作や活動と絡めて、ちょっと興味深い指摘があったので、以下に引いておく。
https://researchmap.jp/?action=cv_download_main&upload_id=142360

 第1に、小熊英二の『民主と愛国』『1968』が歴史の解体を志向するのに対して、道場は運動の発掘による歴史の豊穣化を課題としてきた。小熊は、3.11以降の抗議運動を過去と断絶したものとしているが、道場ならば歴史的な連続性のもとで捉えようとしたことだろう。
(中略)
 その現代的意義について、本書では、以下のように述べている。「(『人民文学』について)『工作者の死体』にまみれた雑誌ともいえるが、55年の時を経た現在、そこにさまざまな芽が萌していることを、我々は改めて発見できるのではないだろうか。この半世紀以上の歳月は決して徒な時間の経過ではなかったと、私は思う。」(p269)。小熊の議論の薄っぺらさをみるにつけ、今の運動に「さまざまな芽」ーー過去の運動の蓄積を読み込む道場の手法の重要性を思い知らされる。

ここに出てくる「工作者」というのは、本書の冒頭で次にように書かれている。
「…人びとの中にくすぶっている文化への渇望を刺激し、サークルという集団の場に結びつけて個人ではできない表現活動、また活動を通じた意識の変革を仕掛けていく仕掛け人たちをこのように呼んだのである。五○年代、全国に無数の「工作者」が存在した。」(p2)
この本では、最後の2章を費やして、下丸子文化集団が生み出したすぐれた「工作者」である江島寛という人物について、光を当てている。
この江島寛という人は、下丸子文化集団の活動が活発になっていくなか、1954年8月に若干21歳で早逝してしまう。でも、自らが試行錯誤の中でつかみ取った「工作者の論理」について、文学者の野間宏(当時、巷のサークルを”指導”してたりしたようだ)に真っ向から反論するなど、その筆致はいまの目から見ても鋭い。

本書の副題は「1950年代サークル文化運動の光芒」。
今でこそ、その片鱗すら見出しにくいけど、かつてあちこちにあったサークル集団に関わった名も無い人びとが、さまざまに活動するなかで放っていた「光芒」は、本書の著者である道場氏などの掘り起こしのおかげもあって、意外にも現在にまで(その先にも?)届いてるように思える。



# by t-mkM | 2019-04-03 01:23 | Trackback | Comments(0)

大阪へ行ってきた

先週後半、22日(金)に休暇を取り、久しぶりに2泊3日で大阪へ行ってきた。

今回利用したのは、ネットで見つけた安いパックツアー。新幹線で「東京ー新大阪」を往復するよりも安いくらいの値段で、新幹線往復とホテル2泊がついている。探してみれば、安いツアーってあるのね。これはなかなか魅力的。

相方が京都で知り合いに会う、というのに合わせ、そこに「太陽の塔」内部の観覧をセットした今回の大阪行き。まあ、ワタクシとしては、大阪行きの目的の半分は、酒場めぐりだったりするワケですが。

で、今回はJRの大阪環状線にある京橋駅にほど近いホテルに泊まったため、必然的にその周辺で呑んだ。呑んだ帰りに電車で帰るのがかったるいこともあるけど、この京橋駅界隈にめぼしい酒場がいろいろあったこともある。
朝9時からやっている「丸一屋」、ネットで検索すれば必ずでてくる「京屋本店」、立ち飲みでいつも賑わっていた「岡室酒店直売所」、行ったのはこの3店。どれもチェーンではなく、地元感溢れる、居心地のいい店だったなぁ。とくに「京屋本店」には2日続けて行ったら、店の人に顔を覚えられていた(笑)。

ふり返って、なぜ東京では朝から飲める酒場で、「ここ」というのをあまり聞かないのだろうか?
もちろん、無いワケではないけど、エリアとしては上野、浅草、新宿あたりに限定され、なおかつ店の数もごく限られているように思う。一方、大阪・京橋という限定された区域ですら、朝から飲める個性的な店の充実ぶりときたら。

酒場の話はこのくらいで、メイン・イベントの「太陽の塔」について。

ウチの親父は大阪万博へ行ってたように記憶するんだけど、ワタクシ、万博記念公園に行くのも、太陽の塔を見るのも、今回が初めて。しっかしまあ、太陽の塔、そのデカいこと。いま見ても圧倒的な存在感。万博当時のインパクトたるや、さぞかし大きかったろうと想像される。
今回、太陽の塔をナマで見ただけでも、大阪へ来た甲斐があった、とさえ思ったな。

で、内部の見学だけど予約制で、いろいろと制約があるので、詳しくは公式サイトを。
https://taiyounotou-expo70.jp
ちなみに費用については、まず万博記念公園へ入るのに250円、さらに太陽の塔の内部を見学するのに700円かかる。また内部の見学自体は、人数限定の完全予約制で、上まで階段で登って、見て、30分ほどで終了する。これまで内部が公開されてこなかった理由、また公開後も人数が限定されているのは、おそらく建築基準法上の制約なのではないか。

この太陽の塔、外観も圧倒的だけれども、その内部もまた独特の世界観に彩られた、目をみはるような空間が広がっている。中央にそそり立つ「生命の樹」。の樹には、古代に生息した三葉虫が枝(幹だったか)に張り付き、生命の樹を上に向かうにつれて、年代が上がっていき、途中では大型恐竜が枝の上で咆哮をあげていたり、翼竜が飛んでいたり、一番上の方ではゴリラが鎮座していたり、類人猿が枝にぶら下がっていたりする。つまり、生命の発生から人類の誕生までが一本の樹をぐるりと巡って見られる、というもの。

案内のお姉さんたちによる解説がなんともさらっと平板だったのがちょっと残念ではあったけど、バックに流れる黛敏郎の作曲による「生命の賛歌」の壮大で深淵なるBGMとも相まって、強烈な印象を残す。(なお、受付のお姉さんに聞いて確認したところ、この音楽のCD販売は無いとのこと)
岡本太郎は「太陽の塔」を制作するに至る意図を語らずに亡くなったらしいけど、彼がこの「太陽の塔」に込めた強烈な思いは、”制作意図”なんていうせせこましい考え方を超えて、50年経ったいまでも十分に感じられる。
いやあ、すごいね、岡本太郎。今回の大阪行き一番の収穫である。

続いて行ったのは、国立民族学博物館。
こちらは入館料420円。

じつは太陽の塔の予約時刻が13時半だったので、午前中から万博記念公園に来て、国立民族学博物館の常設展を見ていたのだけど、いやもう広大なる展示スペースでして、まだ展示の半分くらいを見たところで「太陽の塔」の見学へと行かざるを得なかった。

国立民族学博物館は当日に限りで出入り自由なので、もちろん、「太陽の塔」見学の後でも残る半分の展示も見たわけだけど、次第に疲れてくるのと、(年のせいか?)興味を持続するのがなかなかしんどいのとで、後半はいささか見学しながらもバテ気味に。
いやもう、好きな人であれば一日中というか2日間ほどは十分に楽しめること請け合いの、すごい物量の展示スペースである。すげえな、みんぱく。

最終日は、せっかく京橋駅で大阪城公園のお近くにいるのだからと、大阪城にも行ってみた。
こちら、観光客でめちゃ混みだったけど、その半分以上は海外からの観光客。天守閣への見学ルートもチケット売場に行列してて、並ぶ気にもならない。
そんな行列を横目に、大阪水上バス・アクアライナーの大阪城港が近いので、そこで昼に出るクルーズ便を予約。
http://suijo-bus.osaka/guide/aqualiner/
中之島の淀屋橋まで行って戻ってくる約1時間のコースで、これがなかなかよかった。水上バスに乗ると、水面すぐ上のところに目線が来るのが水上を滑っているかのような感覚。普段では見られない視点、角度から眺める大阪の街並みが新鮮であった。

てなぐあいで、前回巡ったミナミとはまた違い、以外に王道の大阪観光になった感じ。
近いうち、また訪ねて見たい。



# by t-mkM | 2019-03-27 01:24 | Trackback | Comments(0)