<< お知らせ>> 古本Tの活動、など

(通常の日記はこのエントリの下から始まります)

◆ 鎌倉「ヒグラシ文庫」での常設棚 ← 5/20で古本販売は終了しました。

 2011年5月末より7年間、どうもありがとうございました。
 (お店は変わらず、営業中。古本T以外の本の販売も継続中)


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# by t-mkM | 2018-12-31 23:59 | Trackback | Comments(0)

失うことをめぐって

最近の雑誌から。

みすず書店のPR誌である『月刊みすず』2018年11月号を開くと、「精神分析家、鮨屋で考える」という、精神分析家で精神科医でもある藤山直樹の連載がある。この号には連載2回目で、「失うことをめぐってーー生いくらを食べながら」と題した一文が載っている。

生のいくらって、果たして食べたことがあるのかと振り返ると、正直、そこまで気にしたことはなかったか。今度は気をつけて食べてみよう。
で、目に止まった文章があったので、以下にメモしておく。

 最近鮨屋でときどき嫌な気持ちになるのは、握って置かれた鮨を写真に撮る客が多いことだ。なかには置かれた鮨を動かして、角度を変えて撮ったり、何度も何度も撮ったりする人もいる。そんなことをする暇があったら食べろ、と言いたくなる。もちろん、話に夢中になって鮨を置きっぱなしにしている客にも苛立つ。(…中略…)しかし、そういう客は、鮨のことを失念しているだけだからまだ許せる。写真を撮る人たちは違う。鮨に注目しながら、その鮨を食べるという本質的な体験を放棄して、その体験を「忘れたくない」ということにかかずらっている。倒錯的と言わざるをえない。

 そもそも鮨は握られて三十秒で確実に味が変わる。これは私が何度も確かめたことだから間違いない。ネタの温度と酢飯の温度のバランス、ネタ表面の湿り、そうしたものが変わるだけで、確実に鮨を食う体験の醍醐味は失われる。

 素晴らしい体験を失いたくないばかりに、いちばん素晴らしい体験を享受することを放棄して、体験した「かのように」その記録だけを死蔵し蓄積する。これが人間の性(さが)なのかもしれない。それくらい、人間は失いたくないのだ。失っていないと思うためなら、得なくてもよいのだ。
(以上、p22)


ちなみに同じ号には、やはり精神科医の松本俊彦による連載「依存症、かえられるもの/かえられないもの 3」もあって、こちらは要約して紹介するのがちょっと難儀なんだけど、とても興味深かった。
本論は実際に読んでもらうとして、最後にあったエピソード的な段落だけを以下に。

 生きのびるための不健康。しかし、それは何かの依存症を抱える人だけのものではないのかもしれないと思う。一見すると健康そうに日々のルーチンを生きている人たちのなかにも、ささやかな不健康や痛みでバランスをとっている人は少なくないのではなかろうか。この文章の締めくくりにそんな言葉を打ち込みながら、私はふと、ついさっきたまたま立ち寄った蕎麦屋で隣席に座った、疲弊したサラリーマン風中年男性のことを思い出すのだーー正確にいえば、彼が食べていたもののことを。そう、「もはや味ではなく痛みしか感じないのではないか」と心配になるほど、蕎麦を覆い尽くすほど大量に振りかけられた唐辛子の真っ赤な色を。
(p43)



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# by t-mkM | 2018-12-07 01:11 | Trackback | Comments(0)

『R帝国』を読んでみた

久しぶりのエントリ。

恒例になっている企画で、“紀伊國屋書店スタッフが全力でおすすめするベスト30「キノベス!2018」”というのがある。そのベスト1に選ばれたという本が、(ワタクシの見ている限りの)ネット上で話題になっている(「なっていた」、かな)。
https://www.kinokuniya.co.jp/c/kinobest2018/

で、いつものように近所の図書館をウロついていると、ついぞ見かけなかったその本が棚にあったので、借り出して読んでみた。

『R帝国』中村文則(中央公論新社、2017)

この本を読む前、やはり同じ著者の『教団X』は途中で挫折しているんだけど、本書はなんだかわだかまりを抱えながらも、わりと一気に読み終えた。
読み終えたけれども、どことなく違和感が残る。消えない。

で、アマゾンのレビューを見てみると、星1つというのもあるけど、けっこう評価が高いようだ。まあ、キノベス1位ではあるし。
じゃあ、どこに違和感を覚えるのか?

いろんな方が書いていたけど、本書は近未来を舞台に展開されるディストピア戦争小説、プラスSF、といった感じ。で、いまの日本と世界を巡る現状をストレートに思い起こさせるような設定があちこちにある。
それはいいのだけど、それらがあんまりリアルには響いてこない。

レビューを見ていると、「リアルで怖い」といった書かれ方をよく見るので、もう少し言うと、「既視感を覚える展開、そしてありえる近未来」としては、それもありかなぁ、とは思うような内容ではあるものの、「眼前で展開されるかのような、現実とは少しだけ離れているけどヒリヒリするようなストーリー」とまでは感じられない。そのような意味(どういう意味だ)で、いまひとつリアルとは思えなかった。

プロの作家に対してこういうもの言いは失礼かもしれないけど、近未来のディストピア戦争映画を強引にノベライズした小説を読んでいる感じ、とでも言うか。つまり、著者が込めたと思われる主張(想定される近未来、といってもいいかも)に対して、小説として読ませる仕掛けや描写が追いついていないように感じられた。(出てくるガジェットがイマイチ陳腐だし)このあたりが違和感として最後までぬぐいきれなかったかな。

「そんな感想になるのはオマエの現状認識が甘いからだ!」 と言われればそれまでなんだけど、もうひとつふたつ、捻りが欲しかったよなぁと、ちょっと残念。



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# by t-mkM | 2018-11-29 01:16 | Trackback | Comments(0)

映画『ボヘミアン・ラプソディ』観てきた

先週末、なぜか連れ合いがつよくプッシュしているため、公開早々の映画を観てきた。

『ボヘミアン・ラプソディ』監督:ブライアン・シンガー 135分(20世紀FOX、2018)

以下は「映画.com」にある解説から引用。

世界的人気ロックバンド「クイーン」のボーカルで、1991年に45歳の若さでこの世を去ったフレディ・マーキュリーを描いた伝記ドラマ。クイーンの現メンバーであるブライアン・メイとロジャー・テイラーが音楽総指揮を手がけ、劇中の楽曲には主にフレディ自身の歌声を使用。「ボヘミアン・ラプソディ」「ウィ・ウィル・ロック・ユー」といった名曲誕生の瞬間や、20世紀最大のチャリティコンサート「ライブ・エイド」での圧巻のパフォーマンスといった音楽史に残る伝説の数々を再現するとともに、華やかな活躍の裏にあった知られざるストーリーを描き出していく。「ナイト ミュージアム」のラミ・マレックがフレディを熱演し、フレディの恋人メアリー・オースティンを「シング・ストリート 未来へのうた」のルーシー・ボーイントンが演じる。監督は「X-MEN」シリーズのブライアン・シンガー。

冒頭に流れる20世紀FOXのロゴのシーンからして、いつもとは異なるアゲアゲの伴奏で、「音楽映画だよ、面白いよ」という雰囲気満点な感じで始まる。

クイーンの映画なのかと思っていたけど、解説にあるとおり、これはフレディ・マーキュリーの映画だ。ただ「伝記映画」とまで言えるのかは、どうなんだろう? 「ちょっと出来過ぎなんじゃ?」と思うような麗しきエピソードが各所で見られるので、「ホントか?」という気にさせるのだが。
まあでも、そういう細かいことを吹き飛ばすくらい、画面と音楽には惹きつけられる。

まず、なんといっても、クイーンのバンドメンバー4人が、ホンモノそっくり!
よくぞここまで似た人を見つけてきた、というか似せることが出来たね、というくらい。特にブライアン・メイ(G)なんて、普段のしぐさからしてそれっぽくて、驚きである。
そして、流れるクイーンの楽曲の数々が、もちろんヒット曲ではあるわけだけど、強く耳に残るものばかり。そしてまた、曲の歌詞が当時のフレディ自身の葛藤を表現したものでもある(だろう)ことが浮き彫りになっていくところなど、演出の妙とは言え、いまさらながらに「へぇ、そうだったの」と感じた。

また「ボヘミアン・ラプソディ」のレコーディング場面で、アナログな機材を駆使して、時に体をはって録音しているところなど、いかにも70年代で、微笑ましい。ゴダールがローリング・ストーンズの「Sympathy for the devil」録音シーンなどを撮った『ワン・プラス・ワン』を思い出させる。

圧巻はラスト。20世紀最大の音楽イベントと言われた「ライブ・エイド」で、ウェンブリー・スタジアムを埋めつく観客と一体となってフレディが「レディオ・ガ・ガ」や「ウィー・アー・ザ・チャンピオン」などを熱唱するところ。このイベント自体、よく知らなかったけど、この「ライブ・エイド」でのクイーンのパフォーマンスは有名らしい。
その昔、バンド中期のアルバム『ジャズ』を輸入盤で買い、その頃からこっち、巷で流れる彼らのヒット曲をリアルタイムで聞いていたものの、特にクイーンのファンってわけでもないし、フレディ・マーキュリーという人についてもそれほど知らないワタクシだけど、このラストのシーンになる頃には涙腺が緩んだ。

自身のセクシャリティに由来するフレディの孤独が、どういうふうにバンド内部での軋轢を起こしていくのかなど、もう少し掘り下げて欲しかったような気もする。けどまあ、観終えてみると、フレディの伝記というより、セクシャル・マイノリティの立ち位置に焦点を当てた、いまだからこそ制作されたLGBT的な映画、と言えなくもないか。

いずれにせよ、クイーンの音楽を存分に楽しめる”ロックな映画”である。できるだけ、大画面で音響のいい劇場で見ることをオススメします。



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# by t-mkM | 2018-11-16 01:08 | Trackback | Comments(0)

最近の雑誌から

少し前に出た雑誌から、興味深かった記事を紹介しておく。
みすず書房のPR誌である月刊の『みすず』2018年10月号から、以下の記事。

「東京論 2 保守化する東京の景観」五十嵐太郎 p20~31

冒頭、日本橋の上を通る首都高の地下化について、けっこう厳しく批判している。知らなかったけど、なんでも、今年7月に本決まりとなっているらしい。

…2020年の東京オリンピックの後に着工し、完成までに十~二十年はかかるという。高架橋の撤去や地下トンネルの掘削を含む事業費は約三千二百億円を見込む予定であり、首都高会社が二千四百億円、東京都と中央区が四百億円、そして日本橋周辺を再開発するビルなど民間事業者が四百億円を負担するという。
(p20)


で、その目的などについて、五十嵐はこう書いている。

 老巧化も一因だが、ほんとうの目的は美辞麗句を並べた景観ではなく、オリンピック後に冷え込むことが確実な建設業の需要を刺激するという経済効果が大きいのではないかとおもう。ゆえに、まじめに景観論を軸に批判することはドンキホーテのようなふるまいかもしれない。だが、場所や規模の視点から東京の未来を考えるうえで無視できないプロジェクトである。
(p21)


この後、「日本橋地域ルネッサンス百年計画委員会」(なんという名称!)が作成したイメージ図について、主に景観の視点から批判していて、「むかしはよかったという後ろ向きの意識である」と痛烈だ。
まあ、確かに五十嵐の言うように、無駄に懐古趣味に走るようなプロジェクトである感じが濃厚であるし、一から再検討されてしかるべき、と感じる。

一方、「二十一世紀の東京では、過去の景観を再生するプロジェクトがめだつようになった」として、特に東京駅を含む周辺の高層ビル群について言及されているのだが、この記事でほぼ唯一、積極的に評価されているのが、三菱一号館美術館である。
四十年前に取り壊されたオフィスビルを、同じ場所で新築し復元したのだが、なんでも、「三菱地所設計が可能なかぎり失われた実物の正確な再現を試みている」そうで、

…ビルを外壁の表層だけでなく、素材や講法のレベルで全体の復元をめざしたものである。つまり、人目に触れないところも1894年に建設された当時の方法でつくっているのだ。
(p23)


とのこと。
この三菱一号館美術館は、超高層ビルを含む丸の内パブリックスクエアの再開発に含まれているのだけど、五十嵐曰く、

…おそらく多くの人は、背後にそびえ立つ高さ170メートルにおよぶ丸の内パークビルディングの姿をあまり記憶していないだろう。このビルはランドマークとしての主張はせずに、むしろ足元の赤煉瓦に歩行者の目をひきつけているからだ。穿った見方をすれば、再開発で巨大建築をつくることと過去に名建築を壊したことに対する贖罪のようでもある。
(p24)


と書いている。
この場所、よく近くを通りかかるけど、たしかに背後のビルは目立たないし、あんまり覚えていない。記事中の写真を見て、「こんなにデカいビルだったっけ?」と思ったくらい。

またこの三菱一号館美術館、「いったんむかしのオフィスとして復元してから美術館に転用している」そうで、

…たとえば外観からのみ開口部に見える偽の窓をつくれば、すぐに展示に使える壁を増やせるが、きちんと窓をつくってから、それを塞いで壁にしている。また以前のデザインを踏襲しながら、現行の法規で定められた高さの手摺を最初からつくれば楽だが、復元としては嘘になってしまう。ゆえにオリジナルの低い手摺を復元したうえで、わざわざ別の素材を付加して必要な高さを確保している。
(p25)


といった、相当に凝ったことをやったうえで、美術館に転用しているらしい。
つまり、「もし三菱一号館が解体されず、使いつづけられ、後に美術館として転用されたら、おそらくこうなったというデザインがなされたのだ」ということのようだ。五十嵐はこのプロジェクトを指して、「解体されなかったパラレルな歴史を想像させる、時間を操作する建築」と書いている。
こんな中身になっているとは、全く知らなかったので、機会があれば中に入ってみたいなぁ。(とはいえ、いつも企画展で混んでいるようだけど)

あと、東京駅も復元されたけど、その費用についても「へぇ」と思ったのでメモ。

 ところで五百億円という復元にかかる莫大な費用は、国が創設した特別容積率適用区域制度によって東京駅の空中権、すなわち上空で使えたはずの容積率をまわりのビルに売却することで賄っている。つまりアクロバティックな方法でお金が捻出された。その結果、もう丸の内ビルディング(2002年)や新丸の内ビルディング(2007年)などは登場していたが、さらに周辺の高層化を促進し、景観を激変させ、駅のはす向かいにたつすぐれたモダニズム建築、吉田鉄郎が設計した東京中央郵便局(1931年)も開発の波にのまれることになった。
(p26-27)


まだ紹介したい箇所があるんだけど、長くなったので最後。
映画『シン・ゴジラ』のラストに言及して、五十嵐はこんなことを書いている。

…通常、ゴジラのラストは海に帰っていくが、今回は都心で仁王立ちしたままの状態で映画が終わったのは特筆すべきことだろう。なぜか。都市論的に分析すれば、もはやアイコン建築なき東京ならばゴジラがみずからランドマークと化したのではないか。(中略)これまでランドマークを破壊してきたゴジラが、今度は都心において巨大な仏像のように立ちつづけるのだ。
(p31)


なるほど。
今の東京には、ゴジラが破壊するにふさわしいようなランドマーク的建築は無いんだな。


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# by t-mkM | 2018-11-08 01:42 | Trackback | Comments(0)

『2001年宇宙の旅』IMAX上映を観て

公開50周年を記念して、『2001年宇宙の旅』70mmフィルムのニュープリント版が京橋・国立映画アーカイブで特別上映される、ということを知ったのはいつだったか?

「こりゃ観に行かねば」と思ってはいたものの、気がつけば、計6日間の上映期間の前売券はすでに売り切れており、当日券しか残っていなかった。(なんでも、各回200枚の前売券は、発売開始数分で売り切れたとか! まあ、それじゃ到底買えなかったろうな、と思ったしだい)

特別上映の後半が始まる10月11日、ちょうど外で仕事があり、しかも11時過ぎには終わるので、「午後は休暇とって京橋に行ってみっか」と算段し、当日、行ってみた。
が、(前もってネットで得た情報から、かなりの確率で無理だろうとは思っていたけど)11時半過ぎに会場に着いてみると、「本日の当日券は完売した」との掲示が。平日は開館が11時で、オープンと同時に整理券を配るとアナウンスされていたのだが。念のため窓口の人に聞いてみると、すでに9時の時点で250人(!)ほどの行列で、開館を前倒しで10時半にオープンして整理券を配布したとか。1日2回の上映で、各回100人分の当日券だから、まあ11時半に来ているようでは「お話にならない」わけだ。いやまぁ、スゴイ盛況ぶり。
あとでネットを見ると、当日の整理券を求めて全国からファンが来ていたそうだから、さもありなん。

しかたがないので、このあたりで昼飯を、とウロウロしたあげく、「松若」というトンカツ屋へ。
2階へ上がる階段に行列していたので、並んでいると、程なくしてタイミングよく「一人様なら1階へ」ということでカウンターだけの1階に案内される(2階はテーブル席)。かつコロ定食という、トンカツとコロッケの組み合わせランチ1100円を注文。
長らくやっている店のようで、サラリーマン御用達といった感じだけど、豚汁にあっさりした漬物もついて、カツもボリューム十分でウマかった。
https://tabelog.com/tokyo/A1301/A130101/13024987/

どうでもいいけど、隣でトンカツ・オムレツのセットランチを食べていた40代とおぼしきサラリーマン、付け合わせのキャベツにも漬物にも全く手をつけず、「ごちそうさま」と帰って行く。もったいない…。浅漬けの漬物、うまいのにねぇ。


それで。
この前の日曜、10月21日(じゅってんにーいち、だ)、『2001年宇宙の旅』のIMAX劇場上映が2週間限定で行われているので、これはぜひに! ということで、ミッドタウン日比谷の東宝シネマへ観に行った。
観たのは午前10時半からの回。座席は半分ほど埋まっており、いつもと比べて中高年男性の多さが目立つか(まさしく自分もそうなのだが)。

公開当時の上映スタイルを再現する、というコンセプトのようで、上映前に明かりを落として音楽が鳴っているところから、途中のインターミッション(休憩)15分、そして終映後にも音楽が流れるところまで、忠実に再現されているそうだ。

で、IMAX。以前にDVDで観たのとは全く違う!
さすがに昔に作られたので、画面上下までは広がっておらず、IMAXサイズ全面の映像ではないものの、映像そのものは思いのほかクリアできれい。そして、冒頭の「ツァラトゥストラはかく語りき」「美しく青きドナウ」やリゲティの音楽が、重低音まで大音響できちんと鳴り響くのは、この映画のかなり重要な要素であるとつくづく感じる。自宅でDVDをチマチマ観ているだけでは分からないよなぁ。
また、後半で時空を超える移動?をする場面が出てくるけど、そのシーンでの色彩の豊かさやイメージの奔流には圧倒される。

それから、他のいろいろな映画で見た数々のシーンが、この『2001年宇宙の旅』へのオマージュ(あるいはパクリ)なんだというのが、よく分かった。今回の70mmニュープリント版を監修したというクリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』はじめ、『オデッセイ』(原作は「火星の人」)『ゼロ・グラビティ』から『スター・ウォーズ』まで、「どっかで見たことあるシーンだよな」と思う箇所があちこちに。もちろん、製作年を考えれば『2001年宇宙の旅』がそれらシーンの原点であるわけで、後続への影響力の大きさを改めて感じさせられた。

まあ、すでにいろんなところでさまざまな方々によって語られてきた映画なので、内容についてはここでその蛇足を付け足すようなことはしない。でも、今回のIMAX上映を観て思ったのは、ホントに最先端で前衛、ブッとんだ作品は、50年経っても最先端だし前衛であり続けるんだな、ということ。議論になるラストの場面も、改めて見ると安易な読み解きを退けるかのような描き方で、それでいて多様な解釈にも耐えうるように撮られている、ように感じた。

映画史に屹立する1本であり、映画館という劇場空間に身を置いてこそ、その内容をほんとうに十全に堪能できる1本、でもある。機会があればぜひIMAXで。



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# by t-mkM | 2018-10-24 01:15 | Trackback | Comments(0)

映画『愛しのアイリーン』を観て

さる3連休で観た映画、けっこうなインパクトがあったのだけど、なかなかスケールの大きなものがあって、まとまった感想が書きにくい。
とりあえず、メモ的に。

『愛しのアイリーン』監督:吉田恵輔 原作:新井英樹 出演:安田顕、ナッツ・イシイ、木野花

観たのは日比谷。
休日の初回だったけど、座席は6割がた埋まっていたか。

原作のマンガは読んで無い。というか、すでに著名な漫画家らしい新井英樹の作品、(たぶん)みんな読んでない。監督が、あの『ヒメアノ~ル』を撮った人、ということで観に行ったようなところ。
以下は「映画.com」にある解説から。
https://eiga.com/movie/88623/

「ワールド・イズ・マイン」「宮本から君へ」など社会の不条理をえぐる作品で知られる新井英樹が、国際結婚した主人公を通して地方の農村が内包する問題を描いた同名漫画を実写映画化。新井の漫画が映画化されるのはこれが初めてで、安田顕が主演、「ヒメアノ~ル」の吉田恵輔監督がメガホンを取った。42歳まで恋愛を知らず独身でいた岩男が、久しぶりに寒村にある実家に帰省する。しかし、実家では死んだことすら知らなかった父親の葬式の真っ最中だった。そんなタイミングで帰ってきた岩男がフィリピン人の嫁アイリーンを連れていったため、参列者がざわつき出し、その背後からライフルを構えた喪服姿の母親ツルが現れる。安田が主人公の岩男を演じ、アイリーン役にはフィリピン人女優のナッツ・シトイを起用。そのほか木野花、伊勢谷友介らが出演。

…と引用してきても、なんだかサッパリ要点はつかめないように思うので、もう一つ、こちらは漫画の『愛しのアイリーン』wikipediaから。

「日本(の農村)の少子高齢化」「嫁不足」「外国人妻」「後継者問題」といった社会問題に真っ正面から取り組んだ作品。特に「国際結婚が内包している種々の問題」に対して丁寧に描写されている。終盤にかけては「夫婦の愛情」「母から子への愛情」などにテーマが広がっていき、最終的には「家族の愛」が描かれた。

で、映画だけど、このwikiの説明にある流れにほぼ沿って展開していく。
おそらく、かなり原作を忠実に実写映画化しているのではないだろうか。

全編で137分。wikiにあるように、いまどきの農村(というか田舎)の現実がこれでもかと可視化されてくるようで、失笑、爆笑させられる箇所は多々あれど、画面から目が離せないテンションが最後まで続く。また、主演の3人(安田顕、ナッツ・イシイ、木野花)の存在感には、常に目が離せない。

安田顕が演じる42歳の童貞独身男・岩男のどんづまり感、ナッツ・イシイ演じるアイリーンが体現するフィリピン(の田舎と思われる地方)の貧しさ、また岩男の勤めるパチンコ屋の職場での膿んだ人間関係、等々、どれもどよーんとした閉塞感が観ている側に執拗に迫ってくる。そして、抜きんでていたのは、木野花が演じる岩男の母ツルの、言動や行動のブレなさ、頑なさかなぁ。ある意味、岩男ではなく、ツルが主役の映画だとも言える。

最後の雪山の場面は、ちょっと「いきなりどこの原野に行ってんのよ?」という感が拭えないけど、胸に迫るラストシーンではある。(泣いている人もちらほら)
いろんな意味合いで、インパクト大の映画。見る際は悪酔いしないように。


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# by t-mkM | 2018-10-19 01:26 | Trackback | Comments(0)

ゴーゴー・ペンギン、ライブの衝撃

先週、10数年ぶり?くらいに渋谷のクラブ・クアトロへ行った。

イギリス・マンチェスターのピアノ・トリオ、ゴーゴー・ペンギンによる、日本で初めてとなるライブハウスツアーで、7月だったかにチケット取ったもの。


以前、ブルーノートから出た『マン・メイド・オブジェクト』を聞いて面白いと感じ、現時点で最新作となる『ア・ハムドラム・スター』もよかったので、久しぶりにクラブ・クアトロまで足を運んだ、というわけ。


スタンディングだし、若い人ばっかりかと思っていたけど、ジャズという括りだからなのか、おじさん・おばさんもそれなりに。とはいえ、そこはライブハウス。開演前に流れてたBGMは、まさしくそんな感じだったけど。

18時開場、19時開演。会場についたのは18時半をすぎていたか。すでに前列エリアは人で埋まっていた。結局、会場の真ん中あたりで聞いた。キャパは800人らしいけど、さすがにそこまではいないにせよ、会場は満杯。


メンバーの3人、ほとんど話もせず、しゃべるのはもっぱらベースの人。といっても、曲名の紹介などは最小限だし、黙々と演奏する。しかも、ほとんどの照明がトリオの後方から当たり、スポットライト的なものもないので、メンバーが相対的に闇に紛れているようになる。ちょっと意外。


そんなトリオの寡黙さとは裏腹?に、会場はのっけから盛り上がっていたなぁ。ま、たしかに”のれる”曲ではあるけど。

ネットにある記事を見ると、


「踊れるジャズ」をアコースティック楽器でプレイするバンド・スタイルは、”アコースティック・エレクトロニカ・トリオ”と世界中で賞賛。
http://amass.jp/104713/


とある。

また、照明というか、ライティングが華やかなのにも、ちょっと驚いた。

曲に合わせて変幻していくライトの群れに、最初こそ「ちょっとうるさいんじゃないの」とも思ったけど、目まぐるしく変調する楽曲にもちゃんと歩調を合わせて変化していたし、トリオのメンバーだけでなく、ライティングのスタッフも連れてきているのか? と思うくらい。


この日、最新作である『ア・ハムドラム・スター』からの曲が多かったように思ったけど、CDで聞くよりもテンポが上がり、特にドラムの手数が多いように感じられた。

ちょうど正面に見えていたのがドラムだったこともあるけど、ドラムの人がとにかくスゴイ。その手数の多さに圧倒される。つっかかっていくような叩き方というのか、リズムの流れを微分して、その間にもスティックを叩いている、とでもいうか。


また、よくあるジャズのピアノ・トリオと比べると、ベースの音が大きく響いていると思う。しかも、よく”歌う”。弓で効果音のような音を出す使い方をよくするし、弦を弾く音とともに、低音でのメロディの響きが耳に印象的だ。


ゴーゴー・ペンギンの曲はどれもそうだけど、トリオ3人が過不足なく前面に出て演奏している。もちろん、ソロをとったりする曲もあるけど、ピアノ、ベース、ドラムが均等に響く。概ね、そういう感じ。また、黙々と演奏を続けるだけなんだけど、見ていて面白い。メンバー3人とも、決してイケメンではないし、格好だってラフでリラックスしているけど、絵になる。


ラスト、鳴り止まない拍手に応えてくれて、2度目のアンコールで1曲演奏してくれた。

ゴーゴー・ペンギンの三人、最後まで淡々と疲れも見せずに演奏するさまは、なかなか強烈な印象。久々のスタンディングで、ちょっと足が疲れたけど、世界はまだまだ広いよなぁ、と、改めて感じさせる一夜であった。


ちなみに以下、ゴーゴー・ペンギンの作曲などに関する興味深いインタビュー記事を見つけたので、メモしておく。

https://www.cdjournal.com/main/cdjpush/gogo-penguin/1000001425


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# by t-mkM | 2018-10-12 01:07 | Trackback | Comments(0)