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維新派『風景画』の劇評

ここ一年ほど『新潮』に連載されている佐々木敦「批評的時空間」。2012年4月号では「時間と空間について」というタイトルで、昨年秋に池袋西武で行われた維新派の舞台について書かれている箇所があったので、以下にメモ。

 西暦二〇一一年十月十六日 維新派『風景画』@西武池袋本店4階まつりの広場。百貨店の屋上に設えられた特設ステージでの上演、頭上には大きく空が広がり、視線の向こうには高層ビル群が、眼下には行き交う鉄道が見えている。時刻は夕方で、辺りはゆっくりと暗くなっていく。素晴らしいロケーション。この場所で松本雄吉が果たして何事を語るのかと固唾を呑んで見守っていたのだが、この公演はこれまで私が観て来た維新派の中でも、もっとも抽象度が高い作品だった。題名の『風景画』とは今しがた私が描写した、いわば借景のことである。その中に、個体性を剥ぎ取られた二十数人のパフォーマーたちが入れ替わり立ち替わり現れて、維新派独特の、どこかマスゲームを思わせる奇妙な身体運動と合唱を披露していく。もしかすると作品を通して何らかの強いメッセージが発せられるのではないかとも予期していたのだが、少なくとも表面上はまったくそんなことはなかった。そのことにむしろ私は驚きを感じた。誤解を畏れずに述べれば、それはほとんど空っぽだったのだ。しかし穿った見方をするならば、この極めてポストモダンな作品が、八〇年代の文化と芸術を支えた西武百貨店を舞台として行われたということには、或る種の底意が込められているのかもしれない。F/T11主催作品。
(『新潮』2012年4月号 p266)

ほー、なるほど。さすが批評家、目のつけどころが俯瞰的だ。
ちなみに、ワタクシが書いた舞台の感想はこちらに。

「ほとんど空っぽだった」という指摘は、観劇した身としてうなずけるところもあるけれど、それが「八〇年代の文化と芸術を支えた西武百貨店を舞台として行われた」ことと関連づけ、「或る種の底意」というまでには思い至らなかったな。

そうすると、今年7月に神戸で行われる維新派の新作公演『夕顔のはなしろきゆふぐれ』が、前作の「ほとんど空っぽ」「或る種の底意」をふまえてどういう展開をするのか、新作特設サイトにあるCM動画を見ていると、いろいろと妄想がふくらんでくる。
さて、と。

  維新派 新作特設サイト http://www.ishinha.com/SP/2012/
by t-mkM | 2012-05-10 00:20 | Trackback | Comments(0)


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