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菊池桃子と山本義隆

あっというまに一週間。
先週末はといえば、重い本を担ぎながら鎌倉へ行き、ヒグラシ文庫での清算と本の追加をしたのであった。空いていた本棚は、これでいっぱいに。
(鎌倉へお越しの際は、ぜひヒグラシ文庫へ!)

ネットをつらつら見ていて、目にとまった記事があった。

「日経ビジネスオンライン」
 小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 あっぱれ、菊池桃子
 http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/110500018/
 →全文読むには登録が必要だけど、無料です。

そう、あの「一億総活躍社会」というスローガン実現に向け、国民会議の民間委員に抜擢された菊池桃子さんのことである。
内容は、彼女が発言したという「ソーシャル・インクルージョン」(社会的包摂)をめぐってあれこれと考察がされていくのだが、詳細は全文を読んでいただくとして、ここでは少し違った角度から取り上げてみる。

このコラムの最後の方で、小田嶋氏がこう書いている。

 思うに、「他人に迷惑をかけない」ことと、「他人の迷惑を容認する」ことは、トレードオフの関係になっていて、皆が他人に迷惑をかけないモラルを共有している社会は、それだけ他人の逸脱に対して不寛容になる。一方、「他人の逸脱に対して寛容」な社会には、それだけ、「他人に迷惑をかけることをなんとも思っていない人間」の出現率が高くなる。
 一概にいずれが正しいということは言えないが、私個人の好みを言えば、21世紀の日本人はもう少し寛大になるべきだと考えている。
 わたくしども21世紀の日本人は、極めて同質性の高い社会であることを背景に「他人に迷惑をかけない」というモラルを非常に強く内面化している。一方で、いたるところに異民族や異教徒や移民や他言語を話す人間が共存している社会では、万人に「迷惑をかけない」ことを求めるより「他人の逸脱に寛容である」ことの方が現実的だし、事実、そういう原則で動いている社会は、たくさんある。

ここで、話しはいきなり変わるのだが、過日、こんな本を読んでいたら思いのほかひき込まれ、一日で読んだ。

『私の1960年代』山本義隆(金曜日、2015)

著者は元東大全共闘代表。全共闘運動が収束した後、ほぼ沈黙していたようなので、ワタクシの世代以下には知らない人も多いと思われる。ワタクシもほとんど知らないし。
1960年の安保闘争からはじまり、ベトナム反戦運動から安田講堂攻防戦、そして日本における学問と科学技術の歩みをふりかえりながら、自身が関わった闘争との関連へと踏み込んでいく、いわば著者版「闘争の総括書」であろう。
前回のエントリで『狙撃手、前へ』を取りあげた際、”過去を水に流さず、真実を知ろうとすることが知性を担保する”というようなことを書いたけど、まさにそれを地でいく書である。

で、上で紹介した小田嶋氏のコラムを読んでいて、なぜだが『私の1960年代』が頭をよぎったのである。と言っても、とくに結論めいたことがあるわけではない。「ここまで引っ張っておいて、なんだよ」と言われそうだけど、無いものは無い。
だけど、他人への寛容さというものは、運動だとか闘争、つまり社会への異議申し立てや、その盛り上がり(または盛り下がり)ぐあいと、どこかしら関係があるように感じる。

というところで時間切れ。
by t-mkM | 2015-11-06 08:38 | Trackback | Comments(0)


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