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ちょっと前に出た雑誌から

定番のエントリですが、今回取り上げる雑誌は『月刊みすず』2019年7月号。
(雑誌というより、出版社のPR誌という位置づけかと思うけど、これ、立派?に雑誌といっていいのでは)

精神分析家の藤山直樹氏による「精神分析家、鮨屋で考える」という連載が断続的に掲載されていて、今回はその4回目。
タイトルは「修業することと生きること」。
以下、その修業に関わるところで、目に止まった箇所を抜き書き。
 基本的な手順や素材がどの店も概ね同じであり、そのことが客にとって遮るものなく見えており、何の秘密もなさそうに見える。このことが江戸前の食文化にとって、極めて重要なことである。だがあれほどあけっぴろげに見えるにもかかわらず、そこにはけっしてたどりつけない秘密がある。それが客をいやがうえにもときめかせ、惹きつけるのだ。その秘密を自分の手の内に入れ、さらに新しい秘密を生み出すことができるようにするのが、修業というものである。
(p17-18)

 修業は単なる研修や訓練とは違う。思うに、訓練や研修は「自分」、大雑把に言えば「主体」というものを問題にしていない。つまり、それらを受ける自分、主体に何らかの変容が生じることを前提にはしていない。主体をそのままにして、研修ならば何らかの知識を、訓練ならば何らかのスキルを付け加えることが目指されている。だが修業は違う。修業は「自分」をそのままにしておくことを許さない。研修や訓練が足し算であるのに対して、修業には引き算の側面がある。つまりそれまでの自分のありかたの一部を喪うことを前提にしている。より正確にい言えば、そこにあるのは足し算引き算といった線形の量的変化ではなく、質的な変化である。言い換えれば、自分のなかにミクロなあるいはマクロな破局を起こって、その壊れた部分が別のありかたで修復されて別のものになる過程の連続である。ちょっと硬い言葉になってしまったが、つまるところ、修業を経験したら、その人間はもう元の人間ではいられない。自分のものの見かた、考えかた、生きかたが変わってしまう。そして、自分のパーソナルな生の感触、自分や世界に対する感じ方考え方が根本的に変わる可能性があるのである。
(p18-19)

 スキルの獲得から修業が始まらない。それはある意味とても理不尽なことである。入門したばかりの前座に噺を教えず、入ったばかりの弟子に鮨の握り方を教えない。それは一見、修業にとって逆効果のような印象さえ与える。しかし、私の考えではそこに深い意味がある。それによって、スキルさえ手に入れば一人前になれるのだという錯覚が防止されるのである。
(p21)

 鮨屋にせよ、落語家にせよ、修業に付きまとうある種の理不尽は、それが単なるスキルや知識の獲得でないということの徴である。そこでは直線的に合理的にものごとが進んでいかないことを示している。それはまさに人生と同じである。人生も理不尽である。納得もしないままにこの世に生まれてきてしまった私たちは、納得もしないまま特定のカップルの子どもになり、特定の国で生き、特定の言語を話すことになる。修業が理不尽なのは、それが人生を相似だということである。
(p22)



by t-mkM | 2019-08-08 01:53 | Trackback | Comments(0)


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