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そして『住居論』

気がつけば、もう12月。
今年は暑い時期が長かったせいか、秋から冬が一気来た感じで、なんか年の瀬という実感がわかない。

このところの建築関連の本のつながりで、こんな一冊を。
『[新編]住居論』山本理顕(平凡社ライブラリー)

まだ読んでいる途中なのだけど、面白い。
「住居論」という以上、もちろん主題となるのはフツーの人が住む家なんだけど、「家族」という共同体の単位について、いろんな角度から見つめている。


本書の中で、分かりやすくて興味をひかれたのが、「建築は仮説に基づいてできている」という、1996年に発表されている論考。
ここで著者は、形に先立つ"中身"なんてあるのか、建築に先立ってある制度や内容を私たちは確認できるのか、という疑問を示し、「たとえば、住宅という建築を思い浮かべすに家族の日常を思い描けますか? 学校という建築を思い浮かべずに教育のシステムについて何か言うことができますか?」と問いかける。
著者に言わせると、建築を要請する根拠や制度(つまり"中身")はいろいろあるけど、そんなものじつはアヤフヤで、仮説にすぎない、というわけである。ところが、建築というのは、いったんできてしまうとほとんど環境と同様ともいえるので、そのアヤフヤな仮説の"正当性"を補強するように働く、という。

で、住居についても同じようなことが言えて、家族が住むのが住宅、リビングやダイニングがあるのは当然、ということになっている、と指摘する。続く文章から、いくつか引用してみる。

「その家族という仮説を最大限に評価するように住宅はできている。......住宅メーカーのコマーシャルを見ると、そのあたりの構図がよくわかる。住宅を売るために、徹底して家族という仮説を美しく描くのが住宅コマーシャルの常套だからである。住宅を買おうとする人たちは、単に住宅という容器を買うわけではなくて、極端に美化された"家族という仮説"を買っているのである。」

「集合住宅といっても、今、私たちが持っている集合住宅は単に閉塞的な住戸が縦に積まれ横に並んでいるだけである。住戸相互の関係はまったく考えられていない。というよりも、相互に干渉し合わないですむ方がより上等な集合住宅だと考えられているように思う。......多くの人たちは多分、そう考えていると思う。家族という単位が十分に自己充足的な単位であるということを信じて疑っていないからである。だから逆に、その自己充足している住戸が集合する契機を説明することができないわけである。...だから今までの集合住宅は、多くの場合、ひとつの住戸の内側に対してはさまざまな工夫があったとしても、その住戸が集合するときの手がかりがまったくないままできあがっている。」
(以上、p156〜p158)

いまマンションに住んでいる身として、また購入しようかと思っている側としては、なかなか考えさせられる指摘ではある。
まあ、「自己充足している住戸が集合する理由」というのは、都会の場合には第一に経済原理か。でも、地震の心配がありながらも、40階とか50階という高層マンションが建てられて売れているという状況からすると、地価の高さを回避するだけではない、「住戸が集まる利点」があるのではないか。マンションを購入する人々(や購入検討している方々)に明確に意識されていないにしても。

これからは、少しは住民の側でも「住戸が集合する契機」をということを考えて、共有することが必要になのかもしれない。
by t-mkM | 2007-12-04 23:35 | Trackback | Comments(0)


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