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外山滋比古の本

4月27日の一箱古本市(一日目)のとき、四谷書房さんの箱の前でパラパラと立ち見ていたら、「それ、差し上げますよ」と言われ、思いかけずいただいく形になってしまった『思考の整理学』外山滋比古(ちくま文庫)
(↑四谷書房さん、どうもありがとうございました)

このところ立ち寄った複数の書店では、この本のポップが立っていたりしていて、ちょっとしたブームになっているのか? と感じられなくもない。じっさい、アマゾンのランキングを見ると、ナント217位。初版が1986年なのを考えれば、やっぱりあらためてブレイクしつつあるのかも。

いただいた『思考の整理学』を読んでいると、文字通り「考えること」に対する著者の体験や意見などが、ホントに取っつきやすくて読みやすい文章で書かれていて、ある意味で実用書だなぁと思う。いまでも古びていない、思考のための実用書だ。

それで、この本をきっかけに、こんな本を借りて読んでみた。
『外山滋比古著作集4 エディターシップ』(みすず書房)

エディターシップとは辞書を引くと「編集者の地位」といったような意味なのだけど、外山氏が使っている意味はそれよりもっと幅広く、編集(者)論、あるいは文化的な活動における編集的なるもの全般、といったことのようである。

読んでいると、気になる文章がいくつも出てきて、付箋を貼りたくなる。そんな中からいくつか抜き出してみる。

われわれはアンソロジーが好きでないのかもしれない。選集と銘打った書物もないわけではないが、実質上は選集である出版物に「世界文学全集」とか「○○文学大系」とかの名称をつける。抜萃ということも嫌いらしく、抜萃本などを手にするのを潔しとしない読者も少なくない。完璧、完全、網羅的であることが求められるためか、むしろすぐれた選択こそ注目されなくてはならないような出版物についてすら、ことさら編集の機能がおおわれているのは、おもしろい現象である。これはわれわれの社会でエディターシップがあいまいにされていることと無関係ではないように思われる。(p186)

そういえば、CDなどでは故人となったミュージシャンの「コンプリート○○」なんてのをよく目にするけど、上で言われていることとも関係あるかな。

記憶だけではない。事物の認識および理解においても、人間はすべてのものをあるがままに認識したり理解したりすることは不可能である。対象の重要な部分に注目し、それを印象に留め、同じようにして印象に刻まれたほかの対象の重要な部分と取り合わせる。こういう操作を無限にくりかえして現実感を構成する。したがって意識される外界は決して現実世界の総体ではなくて、ごく一部の認識によるアンソロジー的世界である。ここでもまた、われわれはひとり残らず編集を意識しない編集者なのである。(p195)

(テレビのチャンネルを切り替えてながら同時並行で三チャンネルほどを見る、ということを人に話すと戸惑った顔をする、と書かれてから)

たいていのことは、全体のごく一部だけしか見ていないのである。そういう断片の集積が生活になる。だからといって、だれも、全部を見ないものはわかってやらないなどと宣言したりはしない。ときに、人生はついに不可解なりという悲観論を表明されることもあるが、やはり、例外的である。普通はマルチプル・チャンネルの人生を生きて、とくに、それが断片的であったり、支離滅裂であるとは感じない。(p209)


ある本が、ある時代には人気を博しながら、次の時代には見向きもされなくなる、というようなことも、時代によってとり合わせの相手が異なるためである。Aという脈絡の中では引き立って見えたものも、Bという別の脈絡の中へ入れると背景に埋没してしまうかもしれない。これが流行の意味である。流行とはエディターシップが臨時につくり出す価値の現象と体系である。(p218)

こうなると、外山氏の著作集からのアンソロジー、なんてのがあると便利かも。
by t-mkM | 2008-05-09 23:07 | Trackback | Comments(0)


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