2018年 06月 19日 ( 1 )

開高健の書店観

このところ近所の新刊書店に行くと、ちくま文庫から往年の物故作家によるエッセイ集が立てつづけてに刊行されるのを目にする。
田中小実昌、色川武大・阿佐田哲也、吉行淳之介、山口瞳、そしてもっとも最近に刊行されたのが、これ。

『開高健 ベスト・エッセイ』小玉武 編(ちくま文庫、2018)

開高健という作家は、個人的にはなんだか捉えにくくて、いまだに長篇小説にはあまり手を出せていない。とはいえ、膨大に書かれたエッセイやルポの類いならば、いくつかの本で読んだことがある。
本書のカバー裏にある解説には、

開高のエッセイからは、フィクションとノンフィクションの間にある不思議
な"揺れ"が見え隠れする。その鉱脈は広くて深い。


とあって、本書をパラパラと読んでも、そういう印象を受ける。
上でも書いたように、ちくま文庫から出されたベスト・エッセイ集をこれまでに2、3冊読んだけれども、この開高健の本書が、もっとも読み応えがあった。

なかでも、本に関連して開高が書いていた一説が、昔のことならず、ミョーに現実感があって共感を覚えたので、やや長くなるけど引用しておく。
「民主主義何デモ暮シヨイガヨイ」というタイトルのエッセイ。最初から引用してみる。

 近頃私はめったに新刊書店へいかなくなった。新聞広告を見て、買いたい新刊書があるとそこを切りとって人にわたし、いっしょにお金をわたして、ついでのときでいいですからといって買ってきてもらうようにしている。いつごろからかそういう習慣になったのである。
(中略)
 新刊書店へでかけるのが億劫になったのは苦痛だからである。ピカピカ輝やく本が目白押しにならんで口ぐちにオレが、オレがと叫びたてている。その声が声なき叫喚の大渦となって眼と耳にとびこんできそうなのだ。それがイヤなのだ。おぞましいような、あざといような、いたたまれない感触が全身に這いあがってくる。ときには店内へ一歩入った瞬間に窒息しそうになることもある。若いときには得体の知れない不安と焦燥にとりつかれてわくわくおびえながら毎日をうっちゃっていたけれど、ときたま気力のあるときに新刊書店へいくと、モンマルトルの丘にたってパリを見おろしつつ、パリはおれに征服されるのを待っていると傲語(ごうご)したラスティニヤックのように、よし、これだけの本を全部読破してやるぞとふるいたったものだった。何かしら挑戦されたように感じて昂揚したわけである。
 しかし、いまはもうつきあいきれないという気持のほうがさきにさきにとまわって待ちかまえるようなので、私はしがない古本屋へ入っていく。薄暗い古本屋には特有のしめっぽくてカビっぽい匂いが漂っているが、それも子供のときからの懐しいなじみである。傷だらけで垢だらけの本の顔には辛酸をかいくぐってきた男の顔にときどき見かけるのとおなじものがあらわれている。転々とわたり歩き、転落に転落をかさねて、あと一歩で古紙屋に売られてパルプになるところを崖ぎわで一歩踏みこたえてそこにならんでいるが、あくまでも何食わぬ顔でいる気配がうれしいところである。ここではベストセラー作家も、派手な新人作家も、どえらい老大家もみなおなじである。無政府主義的なまでのその権威無視が私には愉しい休息なのである。傷と垢のなかでのびのびできるのである。これが何よりである。友みなの我よりすぐれて見ゆるとき、しかもなぜかしら花を買いきて妻とたのしむ気にもなれないときは、古本屋がいいですゾ。
(p286-288)




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by t-mkM | 2018-06-19 01:41 | Trackback | Comments(0)