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 (お店は変わらず、営業中。古本T以外の本の販売も継続中)


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# by t-mkM | 2018-12-31 23:59 | Trackback | Comments(0)

映画『ボヘミアン・ラプソディ』観てきた

先週末、なぜか連れ合いがつよくプッシュしているため、公開早々の映画を観てきた。

『ボヘミアン・ラプソディ』監督:ブライアン・シンガー 135分(20世紀FOX、2018)

以下は「映画.com」にある解説から引用。

世界的人気ロックバンド「クイーン」のボーカルで、1991年に45歳の若さでこの世を去ったフレディ・マーキュリーを描いた伝記ドラマ。クイーンの現メンバーであるブライアン・メイとロジャー・テイラーが音楽総指揮を手がけ、劇中の楽曲には主にフレディ自身の歌声を使用。「ボヘミアン・ラプソディ」「ウィ・ウィル・ロック・ユー」といった名曲誕生の瞬間や、20世紀最大のチャリティコンサート「ライブ・エイド」での圧巻のパフォーマンスといった音楽史に残る伝説の数々を再現するとともに、華やかな活躍の裏にあった知られざるストーリーを描き出していく。「ナイト ミュージアム」のラミ・マレックがフレディを熱演し、フレディの恋人メアリー・オースティンを「シング・ストリート 未来へのうた」のルーシー・ボーイントンが演じる。監督は「X-MEN」シリーズのブライアン・シンガー。

冒頭に流れる20世紀FOXのロゴのシーンからして、いつもとは異なるアゲアゲの伴奏で、「音楽映画だよ、面白いよ」という雰囲気満点な感じで始まる。

クイーンの映画なのかと思っていたけど、解説にあるとおり、これはフレディ・マーキュリーの映画だ。ただ「伝記映画」とまで言えるのかは、どうなんだろう? 「ちょっと出来過ぎなんじゃ?」と思うような麗しきエピソードが各所で見られるので、「ホントか?」という気にさせるのだが。
まあでも、そういう細かいことを吹き飛ばすくらい、画面と音楽には惹きつけられる。

まず、なんといっても、クイーンのバンドメンバー4人が、ホンモノそっくり!
よくぞここまで似た人を見つけてきた、というか似せることが出来たね、というくらい。特にブライアン・メイ(G)なんて、普段のしぐさからしてそれっぽくて、驚きである。
そして、流れるクイーンの楽曲の数々が、もちろんヒット曲ではあるわけだけど、強く耳に残るものばかり。そしてまた、曲の歌詞が当時のフレディ自身の葛藤を表現したものでもある(だろう)ことが浮き彫りになっていくところなど、演出の妙とは言え、いまさらながらに「へぇ、そうだったの」と感じた。

また「ボヘミアン・ラプソディ」のレコーディング場面で、アナログな機材を駆使して、時に体をはって録音しているところなど、いかにも70年代で、微笑ましい。ゴダールがローリング・ストーンズの「Sympathy for the devil」録音シーンなどを撮った『ワン・プラス・ワン』を思い出させる。

圧巻はラスト。20世紀最大の音楽イベントと言われた「ライブ・エイド」で、ウェンブリー・スタジアムを埋めつく観客と一体となってフレディが「レディオ・ガ・ガ」や「ウィー・アー・ザ・チャンピオン」などを熱唱するところ。このイベント自体、よく知らなかったけど、この「ライブ・エイド」でのクイーンのパフォーマンスは有名らしい。
その昔、バンド中期のアルバム『ジャズ』を輸入盤で買い、その頃からこっち、巷で流れる彼らのヒット曲をリアルタイムで聞いていたものの、特にクイーンのファンってわけでもないし、フレディ・マーキュリーという人についてもそれほど知らないワタクシだけど、このラストのシーンになる頃には涙腺が緩んだ。

自身のセクシャリティに由来するフレディの孤独が、どういうふうにバンド内部での軋轢を起こしていくのかなど、もう少し掘り下げて欲しかったような気もする。けどまあ、観終えてみると、フレディの伝記というより、セクシャル・マイノリティの立ち位置に焦点を当てた、いまだからこそ制作されたLGBT的な映画、と言えなくもないか。

いずれにせよ、クイーンの音楽を存分に楽しめる”ロックな映画”である。できるだけ、大画面で音響のいい劇場で見ることをオススメします。



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# by t-mkM | 2018-11-16 01:08 | Trackback | Comments(0)

最近の雑誌から

少し前に出た雑誌から、興味深かった記事を紹介しておく。
みすず書房のPR誌である月刊の『みすず』2018年10月号から、以下の記事。

「東京論 2 保守化する東京の景観」五十嵐太郎 p20~31

冒頭、日本橋の上を通る首都高の地下化について、けっこう厳しく批判している。知らなかったけど、なんでも、今年7月に本決まりとなっているらしい。

…2020年の東京オリンピックの後に着工し、完成までに十~二十年はかかるという。高架橋の撤去や地下トンネルの掘削を含む事業費は約三千二百億円を見込む予定であり、首都高会社が二千四百億円、東京都と中央区が四百億円、そして日本橋周辺を再開発するビルなど民間事業者が四百億円を負担するという。
(p20)


で、その目的などについて、五十嵐はこう書いている。

 老巧化も一因だが、ほんとうの目的は美辞麗句を並べた景観ではなく、オリンピック後に冷え込むことが確実な建設業の需要を刺激するという経済効果が大きいのではないかとおもう。ゆえに、まじめに景観論を軸に批判することはドンキホーテのようなふるまいかもしれない。だが、場所や規模の視点から東京の未来を考えるうえで無視できないプロジェクトである。
(p21)


この後、「日本橋地域ルネッサンス百年計画委員会」(なんという名称!)が作成したイメージ図について、主に景観の視点から批判していて、「むかしはよかったという後ろ向きの意識である」と痛烈だ。
まあ、確かに五十嵐の言うように、無駄に懐古趣味に走るようなプロジェクトである感じが濃厚であるし、一から再検討されてしかるべき、と感じる。

一方、「二十一世紀の東京では、過去の景観を再生するプロジェクトがめだつようになった」として、特に東京駅を含む周辺の高層ビル群について言及されているのだが、この記事でほぼ唯一、積極的に評価されているのが、三菱一号館美術館である。
四十年前に取り壊されたオフィスビルを、同じ場所で新築し復元したのだが、なんでも、「三菱地所設計が可能なかぎり失われた実物の正確な再現を試みている」そうで、

…ビルを外壁の表層だけでなく、素材や講法のレベルで全体の復元をめざしたものである。つまり、人目に触れないところも1894年に建設された当時の方法でつくっているのだ。
(p23)


とのこと。
この三菱一号館美術館は、超高層ビルを含む丸の内パブリックスクエアの再開発に含まれているのだけど、五十嵐曰く、

…おそらく多くの人は、背後にそびえ立つ高さ170メートルにおよぶ丸の内パークビルディングの姿をあまり記憶していないだろう。このビルはランドマークとしての主張はせずに、むしろ足元の赤煉瓦に歩行者の目をひきつけているからだ。穿った見方をすれば、再開発で巨大建築をつくることと過去に名建築を壊したことに対する贖罪のようでもある。
(p24)


と書いている。
この場所、よく近くを通りかかるけど、たしかに背後のビルは目立たないし、あんまり覚えていない。記事中の写真を見て、「こんなにデカいビルだったっけ?」と思ったくらい。

またこの三菱一号館美術館、「いったんむかしのオフィスとして復元してから美術館に転用している」そうで、

…たとえば外観からのみ開口部に見える偽の窓をつくれば、すぐに展示に使える壁を増やせるが、きちんと窓をつくってから、それを塞いで壁にしている。また以前のデザインを踏襲しながら、現行の法規で定められた高さの手摺を最初からつくれば楽だが、復元としては嘘になってしまう。ゆえにオリジナルの低い手摺を復元したうえで、わざわざ別の素材を付加して必要な高さを確保している。
(p25)


といった、相当に凝ったことをやったうえで、美術館に転用しているらしい。
つまり、「もし三菱一号館が解体されず、使いつづけられ、後に美術館として転用されたら、おそらくこうなったというデザインがなされたのだ」ということのようだ。五十嵐はこのプロジェクトを指して、「解体されなかったパラレルな歴史を想像させる、時間を操作する建築」と書いている。
こんな中身になっているとは、全く知らなかったので、機会があれば中に入ってみたいなぁ。(とはいえ、いつも企画展で混んでいるようだけど)

あと、東京駅も復元されたけど、その費用についても「へぇ」と思ったのでメモ。

 ところで五百億円という復元にかかる莫大な費用は、国が創設した特別容積率適用区域制度によって東京駅の空中権、すなわち上空で使えたはずの容積率をまわりのビルに売却することで賄っている。つまりアクロバティックな方法でお金が捻出された。その結果、もう丸の内ビルディング(2002年)や新丸の内ビルディング(2007年)などは登場していたが、さらに周辺の高層化を促進し、景観を激変させ、駅のはす向かいにたつすぐれたモダニズム建築、吉田鉄郎が設計した東京中央郵便局(1931年)も開発の波にのまれることになった。
(p26-27)


まだ紹介したい箇所があるんだけど、長くなったので最後。
映画『シン・ゴジラ』のラストに言及して、五十嵐はこんなことを書いている。

…通常、ゴジラのラストは海に帰っていくが、今回は都心で仁王立ちしたままの状態で映画が終わったのは特筆すべきことだろう。なぜか。都市論的に分析すれば、もはやアイコン建築なき東京ならばゴジラがみずからランドマークと化したのではないか。(中略)これまでランドマークを破壊してきたゴジラが、今度は都心において巨大な仏像のように立ちつづけるのだ。
(p31)


なるほど。
今の東京には、ゴジラが破壊するにふさわしいようなランドマーク的建築は無いんだな。


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# by t-mkM | 2018-11-08 01:42 | Trackback | Comments(0)

『2001年宇宙の旅』IMAX上映を観て

公開50周年を記念して、『2001年宇宙の旅』70mmフィルムのニュープリント版が京橋・国立映画アーカイブで特別上映される、ということを知ったのはいつだったか?

「こりゃ観に行かねば」と思ってはいたものの、気がつけば、計6日間の上映期間の前売券はすでに売り切れており、当日券しか残っていなかった。(なんでも、各回200枚の前売券は、発売開始数分で売り切れたとか! まあ、それじゃ到底買えなかったろうな、と思ったしだい)

特別上映の後半が始まる10月11日、ちょうど外で仕事があり、しかも11時過ぎには終わるので、「午後は休暇とって京橋に行ってみっか」と算段し、当日、行ってみた。
が、(前もってネットで得た情報から、かなりの確率で無理だろうとは思っていたけど)11時半過ぎに会場に着いてみると、「本日の当日券は完売した」との掲示が。平日は開館が11時で、オープンと同時に整理券を配るとアナウンスされていたのだが。念のため窓口の人に聞いてみると、すでに9時の時点で250人(!)ほどの行列で、開館を前倒しで10時半にオープンして整理券を配布したとか。1日2回の上映で、各回100人分の当日券だから、まあ11時半に来ているようでは「お話にならない」わけだ。いやまぁ、スゴイ盛況ぶり。
あとでネットを見ると、当日の整理券を求めて全国からファンが来ていたそうだから、さもありなん。

しかたがないので、このあたりで昼飯を、とウロウロしたあげく、「松若」というトンカツ屋へ。
2階へ上がる階段に行列していたので、並んでいると、程なくしてタイミングよく「一人様なら1階へ」ということでカウンターだけの1階に案内される(2階はテーブル席)。かつコロ定食という、トンカツとコロッケの組み合わせランチ1100円を注文。
長らくやっている店のようで、サラリーマン御用達といった感じだけど、豚汁にあっさりした漬物もついて、カツもボリューム十分でウマかった。
https://tabelog.com/tokyo/A1301/A130101/13024987/

どうでもいいけど、隣でトンカツ・オムレツのセットランチを食べていた40代とおぼしきサラリーマン、付け合わせのキャベツにも漬物にも全く手をつけず、「ごちそうさま」と帰って行く。もったいない…。浅漬けの漬物、うまいのにねぇ。


それで。
この前の日曜、10月21日(じゅってんにーいち、だ)、『2001年宇宙の旅』のIMAX劇場上映が2週間限定で行われているので、これはぜひに! ということで、ミッドタウン日比谷の東宝シネマへ観に行った。
観たのは午前10時半からの回。座席は半分ほど埋まっており、いつもと比べて中高年男性の多さが目立つか(まさしく自分もそうなのだが)。

公開当時の上映スタイルを再現する、というコンセプトのようで、上映前に明かりを落として音楽が鳴っているところから、途中のインターミッション(休憩)15分、そして終映後にも音楽が流れるところまで、忠実に再現されているそうだ。

で、IMAX。以前にDVDで観たのとは全く違う!
さすがに昔に作られたので、画面上下までは広がっておらず、IMAXサイズ全面の映像ではないものの、映像そのものは思いのほかクリアできれい。そして、冒頭の「ツァラトゥストラはかく語りき」「美しく青きドナウ」やリゲティの音楽が、重低音まで大音響できちんと鳴り響くのは、この映画のかなり重要な要素であるとつくづく感じる。自宅でDVDをチマチマ観ているだけでは分からないよなぁ。
また、後半で時空を超える移動?をする場面が出てくるけど、そのシーンでの色彩の豊かさやイメージの奔流には圧倒される。

それから、他のいろいろな映画で見た数々のシーンが、この『2001年宇宙の旅』へのオマージュ(あるいはパクリ)なんだというのが、よく分かった。今回の70mmニュープリント版を監修したというクリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』はじめ、『オデッセイ』(原作は「火星の人」)『ゼロ・グラビティ』から『スター・ウォーズ』まで、「どっかで見たことあるシーンだよな」と思う箇所があちこちに。もちろん、製作年を考えれば『2001年宇宙の旅』がそれらシーンの原点であるわけで、後続への影響力の大きさを改めて感じさせられた。

まあ、すでにいろんなところでさまざまな方々によって語られてきた映画なので、内容についてはここでその蛇足を付け足すようなことはしない。でも、今回のIMAX上映を観て思ったのは、ホントに最先端で前衛、ブッとんだ作品は、50年経っても最先端だし前衛であり続けるんだな、ということ。議論になるラストの場面も、改めて見ると安易な読み解きを退けるかのような描き方で、それでいて多様な解釈にも耐えうるように撮られている、ように感じた。

映画史に屹立する1本であり、映画館という劇場空間に身を置いてこそ、その内容をほんとうに十全に堪能できる1本、でもある。機会があればぜひIMAXで。



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# by t-mkM | 2018-10-24 01:15 | Trackback | Comments(0)

映画『愛しのアイリーン』を観て

さる3連休で観た映画、けっこうなインパクトがあったのだけど、なかなかスケールの大きなものがあって、まとまった感想が書きにくい。
とりあえず、メモ的に。

『愛しのアイリーン』監督:吉田恵輔 原作:新井英樹 出演:安田顕、ナッツ・イシイ、木野花

観たのは日比谷。
休日の初回だったけど、座席は6割がた埋まっていたか。

原作のマンガは読んで無い。というか、すでに著名な漫画家らしい新井英樹の作品、(たぶん)みんな読んでない。監督が、あの『ヒメアノ~ル』を撮った人、ということで観に行ったようなところ。
以下は「映画.com」にある解説から。
https://eiga.com/movie/88623/

「ワールド・イズ・マイン」「宮本から君へ」など社会の不条理をえぐる作品で知られる新井英樹が、国際結婚した主人公を通して地方の農村が内包する問題を描いた同名漫画を実写映画化。新井の漫画が映画化されるのはこれが初めてで、安田顕が主演、「ヒメアノ~ル」の吉田恵輔監督がメガホンを取った。42歳まで恋愛を知らず独身でいた岩男が、久しぶりに寒村にある実家に帰省する。しかし、実家では死んだことすら知らなかった父親の葬式の真っ最中だった。そんなタイミングで帰ってきた岩男がフィリピン人の嫁アイリーンを連れていったため、参列者がざわつき出し、その背後からライフルを構えた喪服姿の母親ツルが現れる。安田が主人公の岩男を演じ、アイリーン役にはフィリピン人女優のナッツ・シトイを起用。そのほか木野花、伊勢谷友介らが出演。

…と引用してきても、なんだかサッパリ要点はつかめないように思うので、もう一つ、こちらは漫画の『愛しのアイリーン』wikipediaから。

「日本(の農村)の少子高齢化」「嫁不足」「外国人妻」「後継者問題」といった社会問題に真っ正面から取り組んだ作品。特に「国際結婚が内包している種々の問題」に対して丁寧に描写されている。終盤にかけては「夫婦の愛情」「母から子への愛情」などにテーマが広がっていき、最終的には「家族の愛」が描かれた。

で、映画だけど、このwikiの説明にある流れにほぼ沿って展開していく。
おそらく、かなり原作を忠実に実写映画化しているのではないだろうか。

全編で137分。wikiにあるように、いまどきの農村(というか田舎)の現実がこれでもかと可視化されてくるようで、失笑、爆笑させられる箇所は多々あれど、画面から目が離せないテンションが最後まで続く。また、主演の3人(安田顕、ナッツ・イシイ、木野花)の存在感には、常に目が離せない。

安田顕が演じる42歳の童貞独身男・岩男のどんづまり感、ナッツ・イシイ演じるアイリーンが体現するフィリピン(の田舎と思われる地方)の貧しさ、また岩男の勤めるパチンコ屋の職場での膿んだ人間関係、等々、どれもどよーんとした閉塞感が観ている側に執拗に迫ってくる。そして、抜きんでていたのは、木野花が演じる岩男の母ツルの、言動や行動のブレなさ、頑なさかなぁ。ある意味、岩男ではなく、ツルが主役の映画だとも言える。

最後の雪山の場面は、ちょっと「いきなりどこの原野に行ってんのよ?」という感が拭えないけど、胸に迫るラストシーンではある。(泣いている人もちらほら)
いろんな意味合いで、インパクト大の映画。見る際は悪酔いしないように。


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# by t-mkM | 2018-10-19 01:26 | Trackback | Comments(0)

ゴーゴー・ペンギン、ライブの衝撃

先週、10数年ぶり?くらいに渋谷のクラブ・クアトロへ行った。

イギリス・マンチェスターのピアノ・トリオ、ゴーゴー・ペンギンによる、日本で初めてとなるライブハウスツアーで、7月だったかにチケット取ったもの。


以前、ブルーノートから出た『マン・メイド・オブジェクト』を聞いて面白いと感じ、現時点で最新作となる『ア・ハムドラム・スター』もよかったので、久しぶりにクラブ・クアトロまで足を運んだ、というわけ。


スタンディングだし、若い人ばっかりかと思っていたけど、ジャズという括りだからなのか、おじさん・おばさんもそれなりに。とはいえ、そこはライブハウス。開演前に流れてたBGMは、まさしくそんな感じだったけど。

18時開場、19時開演。会場についたのは18時半をすぎていたか。すでに前列エリアは人で埋まっていた。結局、会場の真ん中あたりで聞いた。キャパは800人らしいけど、さすがにそこまではいないにせよ、会場は満杯。


メンバーの3人、ほとんど話もせず、しゃべるのはもっぱらベースの人。といっても、曲名の紹介などは最小限だし、黙々と演奏する。しかも、ほとんどの照明がトリオの後方から当たり、スポットライト的なものもないので、メンバーが相対的に闇に紛れているようになる。ちょっと意外。


そんなトリオの寡黙さとは裏腹?に、会場はのっけから盛り上がっていたなぁ。ま、たしかに”のれる”曲ではあるけど。

ネットにある記事を見ると、


「踊れるジャズ」をアコースティック楽器でプレイするバンド・スタイルは、”アコースティック・エレクトロニカ・トリオ”と世界中で賞賛。
http://amass.jp/104713/


とある。

また、照明というか、ライティングが華やかなのにも、ちょっと驚いた。

曲に合わせて変幻していくライトの群れに、最初こそ「ちょっとうるさいんじゃないの」とも思ったけど、目まぐるしく変調する楽曲にもちゃんと歩調を合わせて変化していたし、トリオのメンバーだけでなく、ライティングのスタッフも連れてきているのか? と思うくらい。


この日、最新作である『ア・ハムドラム・スター』からの曲が多かったように思ったけど、CDで聞くよりもテンポが上がり、特にドラムの手数が多いように感じられた。

ちょうど正面に見えていたのがドラムだったこともあるけど、ドラムの人がとにかくスゴイ。その手数の多さに圧倒される。つっかかっていくような叩き方というのか、リズムの流れを微分して、その間にもスティックを叩いている、とでもいうか。


また、よくあるジャズのピアノ・トリオと比べると、ベースの音が大きく響いていると思う。しかも、よく”歌う”。弓で効果音のような音を出す使い方をよくするし、弦を弾く音とともに、低音でのメロディの響きが耳に印象的だ。


ゴーゴー・ペンギンの曲はどれもそうだけど、トリオ3人が過不足なく前面に出て演奏している。もちろん、ソロをとったりする曲もあるけど、ピアノ、ベース、ドラムが均等に響く。概ね、そういう感じ。また、黙々と演奏を続けるだけなんだけど、見ていて面白い。メンバー3人とも、決してイケメンではないし、格好だってラフでリラックスしているけど、絵になる。


ラスト、鳴り止まない拍手に応えてくれて、2度目のアンコールで1曲演奏してくれた。

ゴーゴー・ペンギンの三人、最後まで淡々と疲れも見せずに演奏するさまは、なかなか強烈な印象。久々のスタンディングで、ちょっと足が疲れたけど、世界はまだまだ広いよなぁ、と、改めて感じさせる一夜であった。


ちなみに以下、ゴーゴー・ペンギンの作曲などに関する興味深いインタビュー記事を見つけたので、メモしておく。

https://www.cdjournal.com/main/cdjpush/gogo-penguin/1000001425


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# by t-mkM | 2018-10-12 01:07 | Trackback | Comments(0)

最近読んだ本から

まとまった感想を書けていないけど、このところ読んだ本の中から、印象に残ったものを。


『新復興論』小松理虔(ゲンロン叢書、2018)


東浩紀が主宰する株式会社ゲンロンの叢書第一弾。

在住する福島県いわき市小名浜で、震災の復興に関わってきた著者による、400ページにおよぶ著作。「食と復興」「原発と復興」「文化と復興」の三部からなり、それぞれが同分量で展開される。

被災地の現場で活動してきた著者ならではの視点による、興味深い論点や記述にひかれる。とはいえ、研究者による理論を引用するなど、小難しい話しは一切出てこない。あくまでも、現場からのリアルな目線による、いまだからこそ書かれた”批評”で、試行錯誤しながらのエピソードなど、読んでいて面白い。

以下は最後のほうで書かれていた箇所から。


…地域づくりに必要な人を「ヨソモノ・ワカモノ・バカモノ」と言う。この三つを言い換えれば、そのまま「外部・未来・ふまじめ」になる。当然、被災した土地の未来は、そこに暮らす人たちが決めるべきだし、怪しいコンサルの話しを聞く必要もない。しかし、地域の決断は、「今この私」と「外部・未来・ふまじめ」を何度も何度も往復した末にあるべきだ。未来と外部を切り捨ててはならない。なぜなら私たちの地域は「今この私」だけのものではないからだ。これは、小名浜という地域で、地域づくりや食に関わる私の、実践者としての信念でもある。偶然に移り住むかもしれない人たち、震災のことなんて分からない未来の子どもたち、本当は関心を持っていたのに言葉を発するのをためらっていた人たち、そして、膨大な数の死者たち。そのような人たちを切り捨てた復興であってはならないのだ。そう思えばこそ、愛する地元との間に適度な余白ができる。愛するでもなく、すべてを憎むでもなく。まるで観光客のように地域と関わることができると思う。
(p382-383)


『うどん キツネつきの』高山羽根子(創元SF文庫、2016)


最新作である『オブジェクタム』が、なんだかよくわからないけどちょっと面白くはあったので、以前の作品にも手を出してみた。

5つの短篇が収録され、タイトルにもなった短篇で創元SF短篇賞佳作を受賞した、とある。受賞作が最初に収録されているけど、後になるほど物語の世界観が広がっていくようで、「おやすみラジオ」「巨きなものの還る場所」といった作品のほうが、より印象に残ったかな。

これがSFか? 読みながらそういう思いがよぎるが、読み終わると「ほー、まさしくSF」という感じ。


『地球星人』村田沙耶香(新潮社、2018)


『コンビニ人間』で芥川賞を受賞した著者の、受賞後2年ぶりの長篇。

アマゾンなどには「衝撃のラスト」なんて書かれてるけど、まあ、そんな煽りは脇において読むのがいいのではないか。

『コンビニ人間』ほどにはリアル感があるわけではなく、ストーリー展開も「果たしてどこに行くのやら」と思わせられながらの読書ではあったけど、たしかに「えっ!?」という驚きの結末には、「ここまで行っちゃうのか」という感もある。主人公たちとその周囲の人物たちとの間には、はじめから虚実の被膜みたいなものがある。ただ、話が進むにつれて、その”膜”がしだいに曖昧になってきて、ラストに向けて虚と実が浸透しあうかのようにたたみかけてくる、そのあたりがなんとも言えずにムズムズするような感じ。

なんというか、アプローチの方向が異なればSFということにもなりえるんだろうけど、それにしてもこの先、どこに行くのか? どこまでを描くのか? ちょっと注目である。



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# by t-mkM | 2018-10-05 01:27 | Trackback | Comments(0)

読んだ本からメモ

タイトルとカバーイラストの"ギャップ"にひかれて手に取った。

『過去と和解するための哲学』山内志朗(大和書房、2018)

エピソード的で一話完結な論考?が続いていくのだが、なかなか核心に近づいていかないように思われて、途中からナナメ読み。
とはいえ、いくつか目に止まる記述もあったので、2つほど写経した。
せっかくなので、以下にメモしておく。

 政治的次元においては、合理的な思考がなされるとは限らない。合理性や理性は人間行為の最高原理とはならない場合が多い。しかもそれは人間の愚かさの徴ではない。権力は、政治的な大きな制度の上に成り立つものばかりではなく、他者や周りの共同体の水準と自分自身の水準を常に比較しながら、自己を上げるか、または他者を下げるかによって、均衡を取ろうとする。それは権力構造の<基本文法>の一つである。相手が強いか自分より高くあれば、自分が高く上がることは仲間を増やすということによるのでなければ、即時的な対応は難しい。したがって、通常は仲間を増やすことで、相手を攻撃し、相手から力を奪い、均衡化を図る。
 倫理学ではしばしば隣人愛や利他心は美しいものとして語られてきたが、それは常に政治的に思考する者が、それらを悪用したり、自分の精力を強めたり、相手の防御壁を破るために利用してきた。政治的思考においては目的は手段を正当化するから、人間の弱さを徹底的に攻撃する。政治的思考において、最も有害なのは「愛」なのである。つまり、政治的思考で最強の存在者は悪魔である。権力を握ろうとする者は悪魔を崇拝した方がよい。だから、悪魔を崇拝する者はかなり多いはずだ。
(p89-90)


「差別」と「区別」は異なるという議論が良くされる。「差別」は価値的な序列をつけているが、「区別」は価値的な序列を含まず、等しく扱っているとはよく語られる。しかし、なぜ「区別」するのか。区別するのは、ある一部を取り出すためであり、その一部の方が価値的に優位であるからこそ、区別がなされるのである。完全に価値的に等価であれば、実は区別などしない。
(中略)
 テロリストの憎悪を正義の理念が踏みつぶせると考えるのは、正義の傲慢であろう。テロリストをいくら殺戮しても、浜の真砂が尽きることがないように、憎悪の種が消えることはないのだから。正義は正しく理解されない限り一つの憎悪を破壊しても、それと同時に二つ以上の憎悪を世界の中に作りだしてしまう。
 世界史の大きな流れ、激しい戦争や闘争や革命の底には、途方もなく大きく深く強く黒い憎悪の河が流れている。その流れを知らないで倫理を語るとすれば無邪気であると私は思う。
(p103-104)






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# by t-mkM | 2018-09-28 01:06 | Trackback | Comments(0)