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<< お知らせ>> 古本Tの活動、など

(通常の日記はこのエントリの下から始まります)

◆ 鎌倉「ヒグラシ文庫」での常設棚 ← 5/20で古本販売は終了しました。

 2011年5月末より7年間、どうもありがとうございました。
 (お店は変わらず、営業中。古本T以外の本の販売も継続中)


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by t-mkM | 2018-12-31 23:59 | Trackback | Comments(0)

印象に残った『ディレイ・エフェクト』

ちょっと変わった切口でかつての戦争と現代とをつなげて見せた、その描き方が面白かったので、ここにメモ。


『ディレイ・エフェクト』宮内悠介(文藝春秋、2018)


以下、アマゾンの内容紹介から。


いまの東京に重なって、あの戦争が見えてしまう――。
茶の間と重なりあったリビングの、ソファと重なりあった半透明のちゃぶ台に、曾祖父がいた。その家には、まだ少女だった祖母もいる。
あの戦争のときの暮らしが、2020年の日常と重なっているのだ。大混乱に陥った東京で、静かに暮らしている主人公に、昭和20年3月10日の下町空襲が迫っている。少女のおかあさんである曾祖母は、もうすぐ焼け死んでしまうのだ。
わたしたちは幻の吹雪に包まれたオフィスで仕事をしながら、落ち着かない心持ちで、そのときを待っている……。


上記は表題作の内容で、ほかに2編を収録した短篇集。この表題作は芥川賞の候補にもなったようだ。

すでにいくつかの文学賞を受賞しており、注目の作家ということになるんだろうけど、個人的にはいまひとつ、取っつきにくいというか、乗れる作品と乗れない作品の差が大きい、という印象の作家ではある。


オリンピックが迫る東京で、75年前の光景が重なってみえる現象が起こり始める。戦時下の生活が重なり、大混乱に陥る現代の東京。メンタルヘルスを損ねる人々も続出し、オリンピックは中止に。しだいに迫る3月10日東京大空襲の日。


物語は、あくまでも主人公とその家族に限定されていて、ほとんど外には向いていかない。

主人公の家族の暮らしのとなりで、75年前の曾祖父母や祖母の戦時下の暮らしが見え、会話も聞こえる。しかし、やりとりはできないもどかしさ。

そんな葛藤を抱えながらも、いまある家族と戦時下の家族とを「こんな視点もあったか」というエピソードで繋いでいくラストが印象に残るし、ちょっと「お見事」という感じ。


タイトルとも関連するけど、作者は音楽と録音機器にも詳しいようで、そのメカニカルな記述とこの物語がリンクしていくところも、凝っているなぁと思わせる。

マンガとかアニメにもなりそうなので、そんかメディアでも見てみたい気がする。



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by t-mkM | 2018-07-13 00:57 | Trackback | Comments(0)

失敗を科学する、ということ

ネットで強力にオススメしているサイトを見て、読んでみたところ、とても面白く、参考になった。

『失敗の科学』マシュー・サイド/有枝春 訳
(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2016)

以下はアマゾンの内容紹介から引いた文で、本書のカバー折り返しにも書かれているもの。

誰もがみな本能的に失敗を遠ざける。だからこそ、失敗から積極的に学ぶごくわずかな人と組織だけが「究極のパフォーマンス」を発揮できるのだ。オックスフォード大を首席で卒業した異才のジャーナリストが、医療業界、航空業界、グローバル企業、プロスポーツチームなど、あらゆる業界を横断し、失敗の構造を解き明かす!

サブタイトルが「失敗から学習する組織、学習できない組織」とある。
これは、冒頭に出てくる医療業界と航空機業界との「失敗」に対する姿勢の違いに、鮮明だ。

また、少し前に話題になったアドラー心理学について触れているところがあって、ナルホドと思ったので、以下に該当箇所を抜き書きする。

…アドラーの理論の中心となったのは「優越コンプレックス」だ。彼は「あらゆる人間の行動は、自分を向上したいという欲求(優越性の追求、または理想の追求)から生まれる」と主張した。
 1919年、カール・ポパーはアドラーに会い、アドラー理論では説明のつかない子どもの患者の事例について話した。ここで重要なのはその詳細ではなく、アドラーの反応だ。そのときのことを、ポパーはこう書いている。

 彼(アドラー)はその患者を見たこともないのに、持論によってなんなく分析した。いくぶんショックを受けた私は、どうしてそれほど確信をもって説明できるのかと尋ねた。すると彼は「こういう例はもう1000回も経験しているからね」と答えた。私はこう言わずにいられなかった。「ではこの事例で、あなたの経験は1001回になったわけですね」

 ポパーが言いたかったのはこういうことだ。アドラーの理論は何にでも当てはまる。たとえば、川で溺れる子どもを救った男がいるとしよう。アドラー的に考えれば、その男は「自分の命を危険に晒して、子どもを助ける勇気があることを証明した」となる。しかし同じ男が子どもを助けるのを拒んでいたとしても、「社会から非難を受ける危険を冒して、子どもを助けない勇気があることを証明した」となる。アドラーの理論でいけば、どちらにしても優越コンプレックスを克服したことになってしまう。何がどうなっても、自分の理論の裏付けとなるのである。ポパーは続けた。

 人間の行動でこの理論に当てはまらないものを、私は思いつかない。だからこそーーあらゆるものが裏付けの材料になるからこそーーアドラー支持者の目には強力に説得力のある理論だと映った。一見すると強みに見えたものは、実は弱点でしかなかったのだと私は気づいた。

クローズド・ループ現象のほとんどは、失敗を認めなかったり、言い逃れをしたりすることが原因で起こる。疑似科学の世界では、問題はもっと構造的だ。つまり、故意にしろ偶然にしろ、失敗することが不可能な仕組みになっている。だからこそ理論は完璧に見え、信奉者は虜になる。しかし、あらゆるものが当てはまるということは、何からも学べないことに等しい。
(p64-65)


ここに出てくる「クローズド・ループ」のほか、認知的不協和、講釈の誤り、進化プロセス、ランダム化比較試験、成長型マインドセット…、などなど、それら概念を駆使しつつ、失敗の事例を角度を変えながら分析していくところが、最後まで興味をひきつける。

でもまあ、組織風土として「失敗」や「過失」を外や上司に向けて(それこそ忖度なく)表明できること、これが組織として、個人として成長できる土台なのかもしれない。そんな印象を受けた。


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by t-mkM | 2018-07-05 01:57 | Trackback | Comments(0)

脱成長「左派」への強い違和感

先日、ネットで話題となっていた

『そろそろ<左派>は経済を語ろう』ブレイディみかこ、松尾匡、北田暁大
(亜紀書房、2018)

を読んだ流れから、こんな本にも手を伸ばしてみた。

『終わらない「失われた20年」』北田暁大(筑摩選書、2018)

以下はアマゾンの内容紹介から。

● 若くなくなったというだけで、忘れられてよい世代など存在しない、してはならない

「脱成長」を優しげに語り、
ロスジェネなど経済的に困窮した人々を放置する左派知識人たち。
いまなお猛威をふるうネトウヨ的世界観・政治。

希望はどこに?

隘路を突破すべく、「日本型ニューディール」を立ち上げよ!
人びとの切実なニーズをすくい取り、
精緻な設計図を携えたソーシャル・リベラリズムを起動せよ!
ネトウヨ化した政治と決別するための、渾身の書!


上野千鶴子氏への(かなり力の入った)批判からはじまり、上野氏との対談、かつて『現代思想』を率いた三浦雅士氏との対談、東京都内の格差問題を議論する橋本健二氏と原武史氏との対談など、けっこう盛りだくさんな内容。
でも根底に流れているのは、緊縮な経済政策に親和的で、耳に優しい物言いで脱成長を唱えてしまう「左派」な学者、知識人への怒りだろうか。

いろいろあるんだけど、「おわりに」にあった一説がミョーにツボだったので、引いておく。

…「受け皿としての野党がない」という議論に対しては、左派のなかにも、「とにかく自民と維新じゃなければいい」という志向が強いあまりか、小池都議選のさいの自民の敗北に喜々としているひとがいた。もうだめだ、この人、と思った。またちょっと前の話になるが、宇都宮健児氏を担いで臨んだポスト舛添の都知事選でも、なにを思ったか、宇都宮氏を掲げた梯子を外して、おおよそ政治家としての器があるとも思えず、また女性蔑視的な醜聞も流されたジャーナリストを推す学者たちもいた。自民を批判したいのわかるし、その点ほとんど私も異論はないのだが、「受け皿」を用意することもなく、醜聞や失言を心待ちにし、政治に意識をもった若者を誉めそやし、政策協議もままならない野党連携を錦の御旗のように掲げ、ひたすら安倍氏を悪魔化していく左派のあり方はどうみても no future に映った。
(p328)

もう一箇所。

…少々の経済的犠牲を払っても、「デモが当たり前」で「コンパクトシティ」で「エコ」で財政均衡的なドイツ型?社会がかれらにとっての桃源郷なのだ、と思うに至った。成熟社会論、コミュニティ論では三浦展氏、里山資本主義の藻谷浩介氏、そして成長なき社会での若者たちの不安−−どのような調査から出てくるのかわからないが−−が蠢いているという小熊英二氏、そして、ついには移民否定論まで繰り出すに至った上野千鶴子氏。いわゆる左派のど真ん中で、岩波朝日文化人の中核を担ってもらわねばならないひとたちが、揃いも揃ってどうにも悟りを開いてしまっている。もとからそうした精神論の傾向が強く、「常識」に抗うことをもって自己の論理を正当化する内田樹氏であれば−−いい加減に『ためらいの倫理学』でのフェミニズム批判について総括してもらいたいが−−諦めもつく。
(p330)

このあたりになにがしかの引っかかりのある人は、読んでみると得るところあり、と思います。


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by t-mkM | 2018-06-29 01:24 | Trackback | Comments(0)

トランプ大統領の言動の背景

なんとも過激なタイトルだけど、読んでみると、そう思わせるだけの思想史的な背景があるんだと分かる。

『破綻するアメリカ』会田弘継(岩波現代全書、2017)

以下はアマゾンの内容紹介から。

アメリカの白人中間層に蔓延する絶望感。マイノリティへの逆襲。過激化するアイデンティティ・ポリティクスへの反動。「ネオコン」の衰退から「オルタナ右翼」の台頭へ。輝きを見せていたアメリカン・ドリームは萎み、一九六〇年代までに築きあげた自由・平和・民主の伝統は、自壊への道をたどりつつある。選別と排除とを真正面に掲げて「アメリカ・ファースト」を叫ぶトランプ政権は、なぜ生まれたのか。分裂・混乱・破綻の様相を呈するアメリカの「大変動」はどこから来てどこに向かうのか。政治・経済・文化・思想史の四つの角度から掘り下げて明らかにする。

現状分析の本なのかと思いきや、そういう側面ももちろんあるけど、アメリカにおける左・右の両陣営(民主党と共和党、とも言える)に影響を与えてきた思想の変遷について、少し歴史をさかのぼって詳しく追っている。この辺、固有名詞が頻発することもあり、なかなかアタマに入ってこないようなところもあるため、要約し難い。けど、トランプ大統領の出現が、決して偶然の産物ではなく、この20~30年間におけるアメリカの紆余曲折を経た上でのものであるし、日本では「またか」といった感じで色物めいた報道をされがちな彼のトリッキーな言動すらも、根拠と背景がたしかにあるんだなぁ、と。

ひとつだけ印象的なところをあげておくと、元世界銀行の主任エコノミスト、ブランコ・ミラノビッチが作成した、1988年から2008年まで20年間の、世界の一人当たりの実質所得の伸び率を百分位で示したグラフ。

これを見ると、最上位の1%(ここは欧米の超富裕層)と中位の50/100あたり(この辺は中国、インド、タイなどアジアの新興国の中産階級にあたる)の伸び率がめざましい。一方で、80/100あたりは、この20年間、ほとんど所得が伸びていない。で、ここには日・米・欧など先進諸国の下層中産階級が相当するんだとか。
著者もあとがきでふれていたけど、この問題について、途上国へのしわ寄せなしにどうやって解決の道筋を見いだすのか。それは、一国の民主主義では難しい、だろうと。
つまりは日本も例外ではない、世界的な課題でもある。

国内に流通するマスコミ報道だけでは見えてこない背景が、いろいろと興味深かった。


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by t-mkM | 2018-06-26 01:45 | Trackback | Comments(0)

映画『ダンケルク』について、ネット上の評で

画家で評論家の古谷利裕のブログ「偽日記@はてな」に、クリストファー・ノーラン監督の映画『ダンケルク』について書かれたエントリが上がっていて、読んでいてつくづく「そのとおりだよなぁ」と感じたので、リンクはっておく。
(ちなみに、ワタクシは評論家としての側面しか知らないのだけど)

http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20180619

●ネットフリックスで『ダンケルク』を観たのだけど、これは映画館で観ないと駄目な映画なんだなあと思った。

まさしくその通り!
できれば、IMAXの劇場で、というところ。

クリストファー・ノーランは今まで、(これは、良くも悪くもという意味でだが)「知的なたくらみ」のようなものが基本にある(あるいは、まず前に出る)ような映画をずっとつくってきたと思うのだけど、この映画にかんしては、規模の大きさ、臨場感、技術のすごさが何よりまず前にでる。

なるほど。たしかに『インターステラ−』は"「知的なたくらみ」"が前面に出た作品の筆頭かと思うけど、この『ダンケルク』は、だいぶ違うかも。

●この映画は「兵士たちを救う」作戦---意思---を描く映画なのだが、しかし、そうだとしても全員が救われるわけではなく、何人もの兵士たちが「救われる」ことに成功せずに死んでいく。ここで、誰が生き残って、誰が生き残れないのかを分ける決定的な要因は偶然でしかない(作戦全体は「意思」であり、その意思が三十万人以上の兵士を救うのだが、個別の生死は「偶然」だ)。ちょっとした要領の良さや押しの強さなどが命運を分けることがあっても、それは決定的な要因ではない。主人公といえる二人---というより、たんにこの映画の「軸」としての役割を担うために大勢の兵士たちのなかからたまたまマーキングされた二人といった方がいいだろう---は、最後まで生き残ることが出来るのだが、それは偶然の積み重ねによってであって、彼らに特別な能力や才覚、あるいは何かしら作戦や特別なモットーや信仰があったからではない。

『ダンケルク』の、時間軸の異なる3つのエピソードをシャッフルしながら同時並行で見せるという仕掛けが、感情移入するような物語がほとんどないにも関わらず、ラストに向けて胸に迫る効果を上げている、とは感じた。

あらためて、映画館で見てみたいな。


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by t-mkM | 2018-06-22 01:10 | Trackback | Comments(0)

開高健の書店観

このところ近所の新刊書店に行くと、ちくま文庫から往年の物故作家によるエッセイ集が立てつづけてに刊行されるのを目にする。
田中小実昌、色川武大・阿佐田哲也、吉行淳之介、山口瞳、そしてもっとも最近に刊行されたのが、これ。

『開高健 ベスト・エッセイ』小玉武 編(ちくま文庫、2018)

開高健という作家は、個人的にはなんだか捉えにくくて、いまだに長篇小説にはあまり手を出せていない。とはいえ、膨大に書かれたエッセイやルポの類いならば、いくつかの本で読んだことがある。
本書のカバー裏にある解説には、

開高のエッセイからは、フィクションとノンフィクションの間にある不思議
な"揺れ"が見え隠れする。その鉱脈は広くて深い。


とあって、本書をパラパラと読んでも、そういう印象を受ける。
上でも書いたように、ちくま文庫から出されたベスト・エッセイ集をこれまでに2、3冊読んだけれども、この開高健の本書が、もっとも読み応えがあった。

なかでも、本に関連して開高が書いていた一説が、昔のことならず、ミョーに現実感があって共感を覚えたので、やや長くなるけど引用しておく。
「民主主義何デモ暮シヨイガヨイ」というタイトルのエッセイ。最初から引用してみる。

 近頃私はめったに新刊書店へいかなくなった。新聞広告を見て、買いたい新刊書があるとそこを切りとって人にわたし、いっしょにお金をわたして、ついでのときでいいですからといって買ってきてもらうようにしている。いつごろからかそういう習慣になったのである。
(中略)
 新刊書店へでかけるのが億劫になったのは苦痛だからである。ピカピカ輝やく本が目白押しにならんで口ぐちにオレが、オレがと叫びたてている。その声が声なき叫喚の大渦となって眼と耳にとびこんできそうなのだ。それがイヤなのだ。おぞましいような、あざといような、いたたまれない感触が全身に這いあがってくる。ときには店内へ一歩入った瞬間に窒息しそうになることもある。若いときには得体の知れない不安と焦燥にとりつかれてわくわくおびえながら毎日をうっちゃっていたけれど、ときたま気力のあるときに新刊書店へいくと、モンマルトルの丘にたってパリを見おろしつつ、パリはおれに征服されるのを待っていると傲語(ごうご)したラスティニヤックのように、よし、これだけの本を全部読破してやるぞとふるいたったものだった。何かしら挑戦されたように感じて昂揚したわけである。
 しかし、いまはもうつきあいきれないという気持のほうがさきにさきにとまわって待ちかまえるようなので、私はしがない古本屋へ入っていく。薄暗い古本屋には特有のしめっぽくてカビっぽい匂いが漂っているが、それも子供のときからの懐しいなじみである。傷だらけで垢だらけの本の顔には辛酸をかいくぐってきた男の顔にときどき見かけるのとおなじものがあらわれている。転々とわたり歩き、転落に転落をかさねて、あと一歩で古紙屋に売られてパルプになるところを崖ぎわで一歩踏みこたえてそこにならんでいるが、あくまでも何食わぬ顔でいる気配がうれしいところである。ここではベストセラー作家も、派手な新人作家も、どえらい老大家もみなおなじである。無政府主義的なまでのその権威無視が私には愉しい休息なのである。傷と垢のなかでのびのびできるのである。これが何よりである。友みなの我よりすぐれて見ゆるとき、しかもなぜかしら花を買いきて妻とたのしむ気にもなれないときは、古本屋がいいですゾ。
(p286-288)




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by t-mkM | 2018-06-19 01:41 | Trackback | Comments(0)

いつも人生に驚かされていたい

ネットで見かけて面白そうだったので、手に取ってみた。

『さよなら未来 エディターズ・クロニクル 2010-2017』若林恵(岩波書店、2018)

以下はアマゾンの内容紹介から。

「未来」の捉え方を変えることでしか、新しい未来は見えてこない――。テクノロジー、ビジネス、音楽、出版など、世界の最前線に触れてきた気鋭の編集者(『WIRED』元編集長)による、七年間にわたる思索と発信の軌跡を集成。人文知をコンパスに、勇気を胸に、地図なき未来によりよく迷うことを誘う、新しい時代と世界への予感の書。

たしか『WIRED』って雑誌の日本版が出たのは90年代半ば。けっこう鳴り物入りで宣伝されていたように思う、自分でも創刊号を買ったし。それに、まだいろんな雑誌があったし。

それから幾年月。
ネットの普及による影響もあって、雑誌の廃刊が相次ぎ、『WIRED』って雑誌もいろいろ紆余曲折の末、紙メディアでは休刊したことを本書で知った。そんな程度の関心しか持っていなかったワタクシで、じつは著者のことも知らないのだけど、この本はとっても興味深く、面白く読んだ。

500ページを超える辞書のような厚さだけど、多くは『WIRED』日本版に載った短いエッセイでもあり、ポップな装幀とも相まって(?)、読みやすい。が、そこで語られる内容それ自体は、思いのほか目からウロコというか、ふだんはモヤモヤしてスッキリしない感じが付きまとう事柄に対して、意外な角度から焦点をあてて思考をめぐらしていき、考える「ネタ」をあれこれ提供してくれる。

以下、いくつか目に止まった文章から。

 ことばはツールだとよくいわれます。ヒトがことばというものを使うのだ、と。けれども、事はむしろ逆で、ことばというものにヒトは使われているのかもしれません。ことばとはなにか、ということを一生懸命考えるときに、わたしたちがことばを使ってそれをやっている以上、わたしたちは囚われの身にすぎないのではないか。
(p253)

 自分がこうやって文章を書いているとき、ことばというものを通して自分のなかに入ってきた「社会」と対話しているのだ、と言われるとたしかにそうかもという気がする。特定の個人や、あらかじめ外在化された「社会」と対話するのではなく、「ことば」と対話することで自分のなかに「社会」が立ち上がってきて、それと対話する。カッコつけているように聞こえるかもしれないけど、それは、間違いなくなにかを書いているときの実感に近い。このときことばは単なる道具なんかではなく、対峙し対話すべき「社会」そのものなのだ。
(p257-258)

『ヒトラーに抵抗した人々』(對馬達雄、中公新書)は、ナチスの圧政に逆らってユダヤ人の逃走を手助けしたり、抗議運動をしたり、反ナチのクーデターを画策した「ふつうの市民」の姿を描いた本だ。そのなかに、教育者としてしられたアドルフ・ライヒヴァインという人物の、11歳の娘に宛てた手紙が紹介されている。ナチスに処刑される直前に書いたものだ。

 いつでも人に親切にしなさい。
 助けたり与えたりする必要のある人たちにそうすることが、
 人生でいちばん大事なことです。
 だんだん自分が強くなり、楽しいこともどんどん増えてきて、
 いっぱい勉強するようになると、
 それだけ人びとを助けることができるようになるのです。
 これから頑張ってね、さようなら。お父さんより

 本号で取材した英国のブリットスクールという音楽学校は、音楽の技術や才能なんかよりも、生徒たちの優しさを育むことがなによりも大事だとしている。「Be Kind, Be Original」がこの学校のメッセージだ。「優しさをもて、勇気をもて」、そして音楽がよりよいものとなるよう助け合い、冒険せよ。それが「学び」の価値であり評価の指標である、とそれははっきりと謳っている。
(p282~283)

 自分のニュースフィードからデータを読み取って「最適な情報」だけを取捨選択して吐き出してくれるサーヴィスがもたらす効果は「フィルターバブル」と呼ばれるが、そこで問題となるのは、自分に最適化された選択環境のなかでしか選択が与えられなくなることで、自分の志向や指向や思考が一定方向へと狭められ、そこから抜け出せなくなることだ。ビッグデータとアルゴリズムがはじき出した「予測」のもたらす作用を、手厳しい論者は「確率という名の牢獄」とすら呼んでいる。
(p485)
 最適化ということばには、現状をひたすら肯定し、ただ補強していくだけのような響きがある。未来の価値が現在との差分に宿るというのが本当なのであれば、「演算された未来」というフィルターバブルのなかには、薄まり先細っていく「現在」しかない。そこでは誰も、なにも成長しない。飛躍もない。驚きもない。未来そのものが奪われているのだ。
(p486-487)


ながなかと引用してきたけど、最後にもう一つだけ。

 そう。で、驚いたことにメジャー・レーザーのキューバ公演を追った『GIVE ME FUTURE』っていうドキュメンタリー映画を観てたら、映画に登場するあるキューバ人女性がまったく同じことを言ってるの。「わたしは人生に多くを期待はしない。むしろいつも人生に驚かされていたい」って。
−−へぇ、面白い。
 イリイチは晩年に「「未来」などない。あるのは「希望」だけだ」って言い遺しているんだけど、これも、なんだか似たようなことを言っているようにも思えて。未来に期待をして、予測をして、計画をしていくことで、ヒトも人生も、開発すべき「資源」や「材」とされてしまうことにイリイチは終生抗い続けたんだよ。
(p509-510)


ほかにもメモしておきたい箇所がいろいろあるんだけど、それはぜひ本書で。


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by t-mkM | 2018-06-08 01:42 | Trackback | Comments(0)

桟敷童子『翼の卵』観てきた

ヒグラシ文庫から引き上げてきた本、これがなかなかあって…。
せまいわが家にとって、この本たちを「そのまま」にしておくわけにはいかない。なので、これまで"お蔵入り"していた蔵書ともあわせて、せっせと片付け。

ン十年前の若い頃であれば、「これから読むかも」として取っておけた。が、しかし。
もはやこの年になってくると、同じ本を手にとっても「もう読まないだろうなぁ」という思いがよぎる本のほうがダンゼン多い。こういうところからも、年を取ったことを実感させられる。いやはや。
ま、もはやあんまり物欲もなくなっているせいか、「これを集めたい」とか、「あれを持っておきたい」なんてことは思わないので、それほど葛藤はないのだけど。

ただまあ、本は整理するにしても、現在と関わっていく心持ちまで処分しちゃうと、さすがにマズい。
ということで、劇団桟敷童子の新作を観てきた。
以下、ステージナタリーからのコピペ。
https://natalie.mu/stage/news/281745

劇団桟敷童子『翼の卵』
2018年5月29日(火)~6月10日(日)
東京都 すみだパークスタジオ倉

作:サジキドウジ
演出:東憲司
美術:塵芥
出演:原田大二郎、板垣桃子、原口健太郎、稲葉能敬、鈴木めぐみ、坂口候一、松本亮、鈴木歩己 ほか

本作は昭和時代の家族を描く回想録。頼子(板垣桃子)は、娘の恵子(大手忍)と共に、再婚相手の篠塚毅彦(坂口候一)に連れられ彼の実家へやって来た。そこにいたのは、陰鬱で無関心な篠塚家の家族たちと、土木業・浦部組の個性豊かな面々だった。その中の1人・常藤耕作(原田大二郎)と頼子たちの交流が始まり……。
なお劇団桟敷童子は昨年2017年に上演した「蝉の詩」と「標~shirube~」の舞台美術が評価され、第25回読売演劇大賞で優秀スタッフ賞を受賞。本作は受賞後初の本公演となる。


劇中、セリフに「昭和49年」と出てくる。となると1974年。
1972年に浅間山荘事件があり、その後、オイルショックを経て、物価高に直面していた頃か。舞台では篠塚家の三男が、8月の日付をカウントしており、ちょっと調べると三菱重工ビル爆破事件は1974年8月30日。すると、舞台はその前後となる。
はるか彼方の記憶をさぐれば、この頃、世相も暗かったような気がする。

冒頭、(この劇団にしてはまれだと思うけど)乱闘の暴力シーンで始まる。
舞台は九州、炭鉱のある町のそば。国のエネルギー政策で炭鉱も閉鎖され、人々の生活も変わらざるを得ない。
ストーリーは、頼子と娘の恵子を中心に、浦部組でアニキと慕われている常藤が絡んで進んでいく。
実家の実権をにぎる母親からはこき使われ、はては再婚相手からは暴力をふるわれる。不況による失業、先の見えなさ。娘・恵子もが…。

ハッキリ言って、ずいぶんと救いようのない話しの連続で、でもまあ、当時ではありふれた家族の話だったのかもしれない。そんな中で、頼子と恵子がくりかえし口にする詩が、耳に残る。
(この詩、会場で配布されたチラシにもある)

なめくじがかたつむりの子供だと思っていたころ…

ああ、わたしは翼をもっていたんだよ

くわがたとかぶとむしが兄弟だと思っていたころ…

ああ、わたしは翼をもっていたんだよ

かたてにぴすとる、くちびるにちゅーいんがむ

失敗と失望と、ふんだりけったりをくりかえし

じゅん愛と打算と、恥知らずをくりかえし

卑怯と狡猾と、口だけに成り下がり

逃避と怠惰と、見て見ぬふりの臆病に成り下がり

ああ、わたしは翼をもっていたんだよ

ああ、わたしは翼をもっていたんだよ

さらば世界よ…

けっこう陰惨なシーンが続き、「この舞台、どうやって着地するんだ?」と思っていたら、最終盤、頼子と常藤とが対峙する場面(この張りつめた緊張感はスゴかった)、いやー、この舞台セットをそうやって使うかぁ、という「押し寄せる感」はハンパなかった。ラストでの過剰とも言える演出とも相まって、一気にグッときた。
「さらば世界よ」か。

原田大二郎、その存在感は大きく、さすが。でも、客演の役者はもちろん、劇団の役者陣もそれぞれにウマい。とくに頼子を演じた板垣桃子、劇団の看板女優ではあるけど、今回、あらためて「すげえな」と思いましたね。

この日、終演後に談話会があり、客演した原田大二郎と鈴木歩己、そして東憲司の3名に司会が劇団で舞台にも出ていたもりちえ、という面々で15分ほど。原田大二郎、74歳だとか。いやぁ、若いね。

すでにチケットは完売らしいけど、オススメ。


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by t-mkM | 2018-06-06 01:38 | Trackback | Comments(0)

ヒグラシ文庫での古本販売を終了

昨日は午後から鎌倉へ。
ヒグラシ文庫へ行って、精算と本の撤収作業。「在庫一掃セール」はいまひとつだったようで、ダンボール2箱に本をつめて、郵便局から発送した。

以下、店内に掲示してきた文面を、ここにも貼っておきます。



7年間 ありがとうございました

古本T 店じまい



 ヒグラシ文庫(鎌倉)がオープンした直後、2011年5月末より店内で古本を販売してきましたが、このたび、諸般の事情により、古本の販売を終えることにしました。
 この7年間、歴代の古本担当の方々をはじめ、ヒグラシ文庫のスタッフの皆さんにはたいへんお世話になりました。
 そして、古本Tの棚からお買い上げいただいたすべてのお客さまに、あらためて感謝いたします。
 7年間、ありがとうございました。

 末筆ながら、ヒグラシ文庫のますますの繁盛を祈念いたします。


2018年5月20日
 古本T






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by t-mkM | 2018-05-21 01:59 | Trackback | Comments(0)