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『新潮』2018年6月号から その2

池田純一「映画から動画へーー「スター・ウォーズ」の40年史」(p173-187)

最近、どうもハリウッドの顔が見えない。

という書き出しで始まるこの論考。
「スター・ウォーズ」って、公開された順に初期の3部作は観ているものの、その後のシリーズの盛り上がりにはついて行けなかった身からしても、なかなか興味深く読んだ。

いろいろあるんだけど、最後の部分だけ、抜き出してメモ。

 近年、ディズニーはアニメーションスタジオとしての出自を思い出したかのように、擬態先であった映画ならびにそのリアリズムから、コンピュータが生み出す動画ならびにその幻想的創造力に舵を切っている。SWⅧでも、映画的ドラマ成分の代わりにゲーム成分が増加したような、一人称視点のシナリオが用意された。細部まで作り込まれたフィクション成分は減少し、鑑賞者任せのシミュレーション成分が増加したといえばよいか。だが、そのような鑑賞者の参加を通じて初めて完成する「仕掛品」のような作品であっても、ウェブを経験した世代は抵抗なく受け止める。それが参加型で没入型のソーシャルメディア時代のコンテントの標準的なあり方だからだ。ファン/視聴者による解釈の流布によって、作品のイメージ=重心も動的にその都度形成される。そのような多岐に亘る「読み」の可能性が予め埋め込まれている。一見すると、作り込まれた「フィクション」である映画として紹介されながら、その実、鑑賞者の解釈いかんでいかようにでも変容することが考慮された「シミュレーション」としての動画なのである。
(p187)



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by t-mkM | 2018-07-26 00:51 | Trackback | Comments(0)

『新潮』2018年6月号から

ひさしぶりに、「ちょっと前に出た雑誌から」拾った記事。

高村薫「小説の現在地とこれから」(p155-166)

どうやら、昨年の大佛次郎賞の受賞記念講演を活字化したものらしい。
第44回大佛次郎賞については下記のリンク先を。
https://hon.booklog.jp/news/osaragi-20171218

気になったところを以下にメモしておく。

…もとよりエンターテイメントから出発して、途中で純文学に移った人間ですので、両者の差異についてははっきり認識しているほうだと思います。認識しているのは、何が純文学で、何がエンターテイメントであるかといった色分けではなく、小説の書かれ方・読まれ方の差異であり、小説に求めるものの差異です。極言すれば、小説を書くということは、この差異にこだわることだと個人的には考えております。
(p159)

 文体とは、うつくしい文章とか気の利いた表現といったことではなく、日本語の並べ方そのものであるという意味で小説の内容と不可分のものであり、多くは内容と完全に溶け合って一ページのなかに存在しているものです。文体のない文章はないし、いやしくも小説であろうとする以上、文体に固執しなければならない。もっと正確に言えば、文体に固執するなと言われても固執せずにいられない人間が、小説家になるのだと申しましょうか。
(p162)

 この文体という代物は、一つの小説空間に結実して読者の目の前に立ち現れているのですが、料理と違って、作り方は誰にも分かりません。おそらく作者にも分からない。そういうものですから、教えることも教えられることもできない。私たちに分かるのは、谷崎の文体と古井の文体が明らかに違うということだけです。
(p163)

…小説に種々のストーリーを求める人びとに、行間に満ち溢れる声や音は無用でしょうし、意味と切り離された蝉の声はただの雑音でしかないという耳が増えれば、夏の日差しの下の身体も変わってゆかざるを得ません。身体が変われば、言葉が変わり、言葉が変われば、小説の姿が変わってゆきます。
(p165)





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by t-mkM | 2018-07-25 01:45 | Trackback | Comments(0)

印象に残った『ディレイ・エフェクト』

ちょっと変わった切口でかつての戦争と現代とをつなげて見せた、その描き方が面白かったので、ここにメモ。


『ディレイ・エフェクト』宮内悠介(文藝春秋、2018)


以下、アマゾンの内容紹介から。


いまの東京に重なって、あの戦争が見えてしまう――。
茶の間と重なりあったリビングの、ソファと重なりあった半透明のちゃぶ台に、曾祖父がいた。その家には、まだ少女だった祖母もいる。
あの戦争のときの暮らしが、2020年の日常と重なっているのだ。大混乱に陥った東京で、静かに暮らしている主人公に、昭和20年3月10日の下町空襲が迫っている。少女のおかあさんである曾祖母は、もうすぐ焼け死んでしまうのだ。
わたしたちは幻の吹雪に包まれたオフィスで仕事をしながら、落ち着かない心持ちで、そのときを待っている……。


上記は表題作の内容で、ほかに2編を収録した短篇集。この表題作は芥川賞の候補にもなったようだ。

すでにいくつかの文学賞を受賞しており、注目の作家ということになるんだろうけど、個人的にはいまひとつ、取っつきにくいというか、乗れる作品と乗れない作品の差が大きい、という印象の作家ではある。


オリンピックが迫る東京で、75年前の光景が重なってみえる現象が起こり始める。戦時下の生活が重なり、大混乱に陥る現代の東京。メンタルヘルスを損ねる人々も続出し、オリンピックは中止に。しだいに迫る3月10日東京大空襲の日。


物語は、あくまでも主人公とその家族に限定されていて、ほとんど外には向いていかない。

主人公の家族の暮らしのとなりで、75年前の曾祖父母や祖母の戦時下の暮らしが見え、会話も聞こえる。しかし、やりとりはできないもどかしさ。

そんな葛藤を抱えながらも、いまある家族と戦時下の家族とを「こんな視点もあったか」というエピソードで繋いでいくラストが印象に残るし、ちょっと「お見事」という感じ。


タイトルとも関連するけど、作者は音楽と録音機器にも詳しいようで、そのメカニカルな記述とこの物語がリンクしていくところも、凝っているなぁと思わせる。

マンガとかアニメにもなりそうなので、そんかメディアでも見てみたい気がする。



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by t-mkM | 2018-07-13 00:57 | Trackback | Comments(0)

失敗を科学する、ということ

ネットで強力にオススメしているサイトを見て、読んでみたところ、とても面白く、参考になった。

『失敗の科学』マシュー・サイド/有枝春 訳
(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2016)

以下はアマゾンの内容紹介から引いた文で、本書のカバー折り返しにも書かれているもの。

誰もがみな本能的に失敗を遠ざける。だからこそ、失敗から積極的に学ぶごくわずかな人と組織だけが「究極のパフォーマンス」を発揮できるのだ。オックスフォード大を首席で卒業した異才のジャーナリストが、医療業界、航空業界、グローバル企業、プロスポーツチームなど、あらゆる業界を横断し、失敗の構造を解き明かす!

サブタイトルが「失敗から学習する組織、学習できない組織」とある。
これは、冒頭に出てくる医療業界と航空機業界との「失敗」に対する姿勢の違いに、鮮明だ。

また、少し前に話題になったアドラー心理学について触れているところがあって、ナルホドと思ったので、以下に該当箇所を抜き書きする。

…アドラーの理論の中心となったのは「優越コンプレックス」だ。彼は「あらゆる人間の行動は、自分を向上したいという欲求(優越性の追求、または理想の追求)から生まれる」と主張した。
 1919年、カール・ポパーはアドラーに会い、アドラー理論では説明のつかない子どもの患者の事例について話した。ここで重要なのはその詳細ではなく、アドラーの反応だ。そのときのことを、ポパーはこう書いている。

 彼(アドラー)はその患者を見たこともないのに、持論によってなんなく分析した。いくぶんショックを受けた私は、どうしてそれほど確信をもって説明できるのかと尋ねた。すると彼は「こういう例はもう1000回も経験しているからね」と答えた。私はこう言わずにいられなかった。「ではこの事例で、あなたの経験は1001回になったわけですね」

 ポパーが言いたかったのはこういうことだ。アドラーの理論は何にでも当てはまる。たとえば、川で溺れる子どもを救った男がいるとしよう。アドラー的に考えれば、その男は「自分の命を危険に晒して、子どもを助ける勇気があることを証明した」となる。しかし同じ男が子どもを助けるのを拒んでいたとしても、「社会から非難を受ける危険を冒して、子どもを助けない勇気があることを証明した」となる。アドラーの理論でいけば、どちらにしても優越コンプレックスを克服したことになってしまう。何がどうなっても、自分の理論の裏付けとなるのである。ポパーは続けた。

 人間の行動でこの理論に当てはまらないものを、私は思いつかない。だからこそーーあらゆるものが裏付けの材料になるからこそーーアドラー支持者の目には強力に説得力のある理論だと映った。一見すると強みに見えたものは、実は弱点でしかなかったのだと私は気づいた。

クローズド・ループ現象のほとんどは、失敗を認めなかったり、言い逃れをしたりすることが原因で起こる。疑似科学の世界では、問題はもっと構造的だ。つまり、故意にしろ偶然にしろ、失敗することが不可能な仕組みになっている。だからこそ理論は完璧に見え、信奉者は虜になる。しかし、あらゆるものが当てはまるということは、何からも学べないことに等しい。
(p64-65)


ここに出てくる「クローズド・ループ」のほか、認知的不協和、講釈の誤り、進化プロセス、ランダム化比較試験、成長型マインドセット…、などなど、それら概念を駆使しつつ、失敗の事例を角度を変えながら分析していくところが、最後まで興味をひきつける。

でもまあ、組織風土として「失敗」や「過失」を外や上司に向けて(それこそ忖度なく)表明できること、これが組織として、個人として成長できる土台なのかもしれない。そんな印象を受けた。


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by t-mkM | 2018-07-05 01:57 | Trackback | Comments(0)