謹賀新年

新年 あけましておめでとうございます。
本年も、このブログともども、古本Tをよろしくお願いいたします。

昨日が仕事始め。
朝、まだだれも来ていない職場でPCを立ち上げ、まずはネットをうろうろしていて、何と言っても驚いたのは、原尞の新作が出る!という早川書房の宣伝だ。

https://www.hayakawabooks.com/n/ne98118a27458

「14年ぶりの新刊」だそうだけど、またも7文字のタイトル。
それにしても、このページにある写真を見ると、原尞もジイさんになったよなぁ、と思わざるを得ない。まあ、デビューが40歳、1988年。あれから30年なんだから、当たり前ではあるけど。

奇しくも昨夜、先日に図書館のリサイクル本でもらってきた『ハードボイルド』という文庫のエッセイ集を読んでいたところ。これを機に、彼の過去作品を読み返してみるとするか。



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# by t-mkM | 2018-01-05 00:31 | Trackback | Comments(0)

『PSYCHO-PASS(サイコパス)』アニメ・シリーズ1を見て

先日、小説『PSYCHO-PASS GENESIS』1から4巻を読んだというエントリを書いた。
http://tmasasa.exblog.jp/27855431/

で、気になっていたアニメ・シリーズの「1」を、22話すべて、遅ればせながらようやく見た。
いや、面白かった。見応えがあった。

まあアニメだし、人によっては物語に入る以前の段階で、登場人物の女性が少女マンガのように目がデカい(全員ではないが)など、キャラクターの描き方からしてついて行けない場合もあるかもしれない。当初、ワタクシもそんな気がしたが、見続けると、これはこれで登場人物のキャラ造形にも意味があるように思えてきた。
ま、その辺は見ていれば慣れるし。

後半になってP.K.ディックの名前が出てきたりするけど、このアニメでの都市の描写など、まるで映画「ブレードランナー」である。もっと言うと、今年公開された『ブレードランナー 2049』のLAの映像を、数年前に日本のアニメが先取り的に描いていた、とでも言えようか。

『PSYCHO-PASS GENESIS』との関連でみると、アニメで描かれるエピソードや全体的な世界観といったものを、『PSYCHO-PASS GENESIS』はうまく取り込んんだうえで、『PSYCHO-PASS(サイコパス) 』前日譚としてノベライズしていたことが、よく分かった。
…てなことを思っていたら、すでにfinalventさんがそのあたりを書評としてエントリ挙げている。今さら気がついたけど、ちょっと面白い指摘もあるので、以下にリンク。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2017/12/psycho-pass-gen.html

そうかぁ、やはり『PSYCHO-PASS GENESIS』の後半はアニメ・シリーズ2と関連しているのか。となると、『GENESIS』をすべて読んだ以上、これはアニメ・シリーズ2のほうも見なければなるまい。

ところで、finalventさんは上記の書評の最後で、日本国憲法をシビュラ・システムになぞらえて比喩的に語っているのだが、かつて加藤典洋が言ってさまざまな物議を醸した「国民として日本国憲法を選び直す」といったことを想定されているのだろうか?
突き詰めて考えると興味深い視点かな、と思えてくるけど、時間が無いのでこのあたりで。


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# by t-mkM | 2017-12-28 01:40 | Trackback | Comments(0)

シリーズ長編第5弾の『機龍警察 狼眼殺手』を読んだ

ぜひとも続きが読みたい! と思わせる数少ない小説のひとつ、『機龍警察』シリーズ。
その最新作である長編第5作を読んだ。

『機龍警察 狼眼殺手』月村了衛(早川書房、2017)

『ミステリ・マガジン』に連載されていたもの。
図書館に予約していて、ようやく回ってきた。(続きが読みたいなら買えよ、ってもんだけど…)
以下はアマゾンの内容紹介から。

経産省とフォン・コーポレーションが進める日中合同プロジェクト『クイアコン』に絡む一大疑獄。特捜部は捜査一課、二課と合同で捜査に着手するが何者かによって関係者が次々と殺害されていく。謎の暗殺者に翻弄される警視庁。だが事態はさらに別の様相を呈し始める。追いつめられた沖津特捜部長の下した決断とは――生々しいまでに今という時代を反映する究極の警察小説シリーズ、激闘と悲哀の第5弾。

このシリーズ、物語の背景として、国際テロ組織の日本国内への流入からはじまって、北アイルランドをめぐるテロ組織の抗争、ロシアンマフィアによる武器売買のブラックマーケット、チェチェン紛争の裏側などなど、リアルに進行する国際情勢とも絶妙にリンクしていて、それゆえか「至近未来小説」とも称される。

これまでのシリーズ長篇との最大の違いは、特捜部が擁する最新鋭の兵器、機龍兵(ドラグーン)による機甲兵装のアクション・シーンが全く出てこない、という点だろう。
アクション、というか戦闘場面については、後半からラストに至るなか、それこそ息が詰まるような死闘が描かれるのだけど、生身での戦闘シーンであって、機龍兵の出番はまったくない。それでも、物語としての密度、熱量、情報量は、シリーズ中でも白眉、いや、もっとも大きいと言ってもいいか。

なかでも驚きは、特捜部長である沖津の謎めいた部分の背景が、(少しだけ)明らかにされるところか。また、長篇2作目『機龍警察 自爆条項』につづいて、凄腕テロリストであったライザ・ラードナー警部の内面がさらに掘り下げられる箇所も読みどころ。とはいえ、特捜部の面々はそれぞれに活躍どころが割り振られ、さらに捜査一課、二課との合同捜査が展開するなど、群像劇としての警察小説という側面が強く出ていることも、今作で強く印象に残る。
そして、財務捜査官や国税庁の役人といった新キャラクターを登場させているのも、シリーズものとしてはなかなかニクい演出。この財務捜査官が、出納記録やらのデータ(数字)の山と格闘して容疑者の行動を洗い出すシーンは、これまでにないパターンだけどなじみやすくて、「こんな描き方もあるのか」と新鮮だった。

今回、「敵」の輪郭がさらに見えてきた感じではあるので、次作ではこの辺がさらに突っ込んで描かれることになるのか。
早く続きが読みたい。


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# by t-mkM | 2017-12-26 00:51 | Trackback | Comments(0)

『葛城事件』と『クリ-ピー 偽りの隣人』

このところ自宅で見たDVDのなかで、印象に残ったもの2つを書いておく。

まずは『葛城事件』。
以下はアマゾンにあるDVDの内容紹介から。

『その夜の侍』赤堀雅秋監督の待望の第二作目。人間の愚かさを描き、観る者の心を鋭く抉る濃密な人間ドラマ。
抑圧的で思いが強い父親。長男はリストラされ孤立。妻は精神を病む。
次男は無差別殺傷事件を起こし、死刑囚に。
そして、死刑反対の立場から次男と獄中結婚した女ー。
壮絶な、ある家族の物語。


たしかに「壮絶な、ある家族の物語」ではあるんだが、それはあくまでも結果であって、この映画で描かれる一家は、もうホントに、日本中どこにでもいる(いた)ような家族である。その家族が、どうしてここまで壊れてしまえるのか?
建て売りとおぼしき家族の一軒家を中心にすえ、時間軸を行き来しながら、説明的なセリフや映像ではなく、日常的なエピソードを積み重ねていって、家族が自壊していってしまう背景が描写されていく。

いやもう、ホント、イヤーな映画である。
「二度と見たくない」というコピーも、見終わってみれば、その通り! と思えるほどだ。
「いい人」が誰一人出てこない。登場する人物のだれもが、どこか欠落しているというか、良くも悪くも小市民的で、言ってみればゲスな感性がにじみ出てしまっており、自分自身の見たくない部分をあちこちで「これでもか」と可視化されているような感じで、居心地悪いことこの上ない。

主人公である一家の父親を演じるのは三浦友和。この、彼の演技がスゴイ。役者「三浦友和」を再認識させられる。タイトルの『葛城事件』というのは、つまり、この一家で起こることは、すべて父親たる彼の存在、言動に由来するものだ、ということなんだろう。(ま、でもこの家族、若かりし父親の意思とは裏腹に、初めから家族としての体を成していなかった、というのが明らかになってしまうところも、ホント、イヤーな感じで、見ていて辛いところでもある)

で、もうひとつ『クリーピー 偽りの隣人』。
こちらもアマゾンにあるDVDの内容紹介から。

黒沢清監督が手掛けた、西島秀俊、竹内結子、香川照之主演によるサスペンススリラー。犯罪心理学者の高倉は未解決の一家失踪事件を調査していた。ある日、高倉は最近妻と引っ越した家の隣に住む、奇妙な家族と事件の繋がりに気付いてしまい…。

結論からいうと、アマゾンにある両作品のDVD商品のカスタマー・レビューによる星の平均数とバラツキが、おおむねワタクシの感想を言い当てている。

黒沢清監督の映画を見るのは、じつはこれが初めてかもしれない(よく憶えてない)。黒沢清作品というのは観る人を選ぶのか、この映画も傑作であるという評価を聞くのだが、どうも「乗れなかった」のだ。
あくまでも映画なんだから、リアルな描写がいいとか望ましいとか、そんなふうには思わないのだが、それにしてもちょっと「これはどうよ!?」的な描写が目につく。筆頭は、出てくる警察があまりに無能であることか。また、サイコパスな謎の隣人に支配される、その隣家のありようや、その隣人の触手が主人公の妻にも及んでくるところなども、突っ込み所がいくつも目についてしまい、映画の初めから「乗れない」要因でもある。

ストーリーに絡む映像的な見所はいくつかあるとは感じられたし、所々で「絵」として語りかけるかのような描写も印象的。とりわけ、サイコパスな隣人を演じた香川照之の怪演ぶりは強烈でもある。またラストで主人公の妻(竹内結子)が号泣する場面も、相当な熱演だとは感じられるのだが、けれども、それまでの数々の違和感が解決されないので、いまひとつ響いてこない。

『葛城事件』と『クリ-ピー』、どっちも現代日本を描いている、と言えるように思うのだが、両者を強引にも比較してしまうと、『葛城事件』のほうが10倍はインパクトがあると思えた。


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# by t-mkM | 2017-12-20 01:15 | Trackback | Comments(0)

『PSYCHO-PASS GENESIS 1~4』を読んでみた

半月ぶりのエントリ。
時間が過ぎるのはあっという間だなぁ。

年度末あたりに職場の引っ越しを控えており、このところ移転に関連する契約など事務手続きがあれやこれやと降ってきて、それらに追われている。
自宅の引っ越しもたいへんだけど、職場となると、(あたりまえだが)自分だけでは完結しないし、それでなくても違った面倒がドッサリあって、ストレスではある。ま、でも、それらもようやく山を過ぎつつある。

そんな状況でも本は読むので、このところ連続して読んだ本について、ちょっと書いておく。

『PSYCHO-PASS GENESIS 1~4』吉上亮 原作=サイコパス製作委員会
(ハヤカワ文庫JA、2015~2017)

以前、finalventさんという、かつてのアルファ・ブロガー(ってすでに死語か)の方が、「PSYCHO-PASSが面白い」というツイートをしていたのを見て、「へぇ」と思い、アタマの隅に引っかかっていたので、ためしに図書館で借りだして読んでみた。

とはいえ、『PSYCHO-PASS サイコパス』はもともとTVドラマのシリーズもので、そちらは見ていない。そして『PSYCHO-PASS GENESIS』は、GENESIS=創世記ともあるように、TVシリーズの前日譚らしい。
そんな、予備知識がかなり不足しているなかで読んでも、はたして面白いと思えるのか?(じゃ、TVシリーズのDVDを借りて見ればいいじゃん、なわけだけど、面倒だし…。その点、本はお手軽だ)、やや不安ではあったけど、これがけっこう面白かった。

『PSYCHO-PASS サイコパス』について、説明していると長くなるので、ストーリー設定やあらすじなどはウィキペディアを見てもらうのが手っ取り早いかも。
https://ja.wikipedia.org/wiki/PSYCHO-PASS

『PSYCHO-PASS GENESIS』は、本編の舞台である2112年から遡り、21世紀半ばから末という設定。
前半の1、2巻が、本編シリーズにも登場する執行官・征陸智己(まさおか ともみ)が主人公で、『PSYCHO-PASS サイコパス』の主要な概念でもある「犯罪係数」に焦点をあてた、言ってみれば家族や絆の物語。
そして後半の3、4巻は、人間の精神状態や性格を数値化する「精神色相走査 サイマティック・スキャン」技術と、それをもとに社会を統治しようとする大規模演算処理ユニット「シビュラシステム」の正体をめぐり、主人公である厚生省の捜査官・真守滄(まかみ そう)と、テロ組織から切り捨てられた少女・衣彩茉莉(いざや まつり)とが絡みあいながら、展開していく。

後半に入ると、ストーリーの盛り上げ(煽りというか)が、ちょっと過剰でしつこい感じがしてくるものの、『PSYCHO-PASS サイコパス』を見ていないワタクシにも、その世界観というのか、倫理観の変遷とでもいったありようが、いまどきの現実世界ともリンクしているように思えて、いろいろな意味で興味深かった。

省庁間の覇権をめぐる争い、「PSYCHO-PASS サイコパス」=精神色相を安定に保つことを最優先とする社会、シビュラシステムによる「理想」の監視社会、等々。これらは今でも形こそ異なるものの、じつはすでに現実になりつつあるのではないか? 日々の様々なニュースに接していると、そんな感じを抱くのだが、どうだろう。このシリーズで、ストレスにさらされた人間の「色相が濁る」という表現がよく出てくるのだけど、これなど、「メンタルヘルスが悪化する」とほとんど同じだし。
そして、物語全体を通じてバイオレンスの度合いがじつに色濃いところなども、今どきではある。

本腰?をすえて、TVドラマのシリーズを見てみたい。


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# by t-mkM | 2017-12-14 01:04 | Trackback | Comments(0)

『すべての四月のために』@東京芸術劇場 を観てきた

ひょんなことから知り合いよりチケットを譲っていただいたので、21日(火)、池袋の東京芸術劇場で舞台を観てきた。
以下、webサイト「PARCO STAGE」からの記事を貼り付け。

『すべての四月のために』
公演日程:2017年11月11日 (土) ~2017年11月29日 (水)
会場:東京芸術劇場 プレイハウス
作・演出:鄭義信
出演:森田剛
   臼田あさ美 西田尚美 村川絵梨 伊藤沙莉
   小柳友 稲葉友 津村知与支 牧野莉佳 斉藤マッチュ 浦川祥哉
   近藤公園 中村靖日 山本亨 / 麻実れい

特設サイト→http://www.parco-play.com/web/play/subeteno/

これもPARCO STAGEから、舞台の説明。

……
 「焼肉ドラゴン」「パーマ屋スミレ」「たとえば野に咲く花のように」で、1950年代から1970年前後までの、在日コリアンの家族を描いてきた鄭義信が今回舞台にするのは、第二次世界大戦下の朝鮮半島近くに浮かぶ島。理髪店を営む朝鮮人一家(夫婦と四姉妹とその夫)と、彼女らを取り巻く、朝鮮人、日本人軍人たちの物語です。

戦時下という困窮した日常の中で、愛し、憎み、泣き、笑い、未来への道筋を何とか手繰り寄せようと愚かしくもがく人々の姿を描き、彼らの情けなくも愛おしい姿を通して、人間存在の本質をあぶり出し、時に重く、鋭く、人生、民族、時代を照射します。


森田剛という人を、俳優として認識したのは、相方が勧めてきた映画『ヒメアノ〜ル』。
(じつを言えば、この映画を観るまでは役者をやっていることはおろか、ジャニーズのV6のメンバーでアイドル、という"属性"すら知らなかった)
この映画での、連続殺人鬼である主人公を演じた森田剛の存在感は圧倒的で、強く印象に残った。そんなことがあったので、「今回の舞台チケットがあるよ」と知り合いから連絡をもらったとき、相方ともども手を挙げたのだった。

舞台は18時半の開演。
途中で15分の休憩をはさみ、前後半とも80分あり、ほぼ3時間なので終演は21時半。これほど長い舞台は、水族館劇場以来か。

どうしても森田剛にスポットが当たるのか、彼が主役という位置づけで舞台の紹介がなされているけど、この舞台での森田剛の配役は、あくまでも、理髪店の朝鮮人一家とその家族をとりまく人々を織りなす群像劇のなかの一人。存在感はあるものの、主役というほどではない(ただまあ、冒頭とラストで印象的な役柄を演じるけど)。どちらかというと、理髪店の四姉妹を演じる女優陣のほうがメインだろう。

母親、四姉妹の女優陣の演技が印象的だったけど、なかでも四女が繰り返し歌う、「春は梅・桃・桜で一杯~」という、酒飲みのお囃子とでもいった歌が耳に残る。そして、(上演中の舞台なので詳しく書けないけど)この四女が取る行動とその結末についても、戦時下の特殊事情があるだろうとはいえ、意外な設定で「へぇ」と感じた。

全体として暗いトーンになりがちな設定ではあるものの、随所で吉本新喜劇のような笑いやズッコケも入ってきて、笑わせる。冒頭、夫婦のやりとりはやや冗長に感じられたけど、家族をとりまく喜悲こもごものエピソードをじっくりと積み重ねてたどり着くラストでは、登場人物たちの感情が迫るものがある。

戦時中の、それも半島そばにある島の朝鮮人一家をめぐる話という内容なんだけど、観客はというと、若い人から中(高)年までの女性ばっかり。まあ、中高年男性もちらほらは見かけたけど、この舞台でこの客層には、ちょっと驚き。ジャニーズ事務所の集客力のすごさ、かなぁ。



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# by t-mkM | 2017-11-28 01:31 | Trackback | Comments(0)

IMAXで見た『ブレードランナー 2049』

またも1週間ぶりの更新である。
この土曜日、ひさしぶりに鎌倉へ行って、ヒグラシ文庫で委託販売している本の精算と補充をしてきた。
以前と比べると売れ行きはいまひとつ、というのは相変わらずなんだけど、ちょぼちょぼとは売れ続けているようではある。しばらく前から、カウンターの中に入る店の方々が様変わりしていることもあり、常連のお客さんも変わってきている感じ。そんなことも影響しているのかなぁ。ま、でも、たまにしか精算に行かない身としては、よく分からないが。

そして翌日曜日。
都内での公開が終わりつつある、というので、『ブレードランナー 2049』を見てきた。
2度目。前回はフツーの劇場だったけど、今回はIMAXで。

初回に見に行く前、前作『ブレードランナー』のファイナルカット版を安価で購入し、何度か見て"復習"した。さすがに細部は忘れていたし、続編を謳っている以上、前作を見ないことにはワケ分からんだろうと思ったので。
結果から言えば、これは正解。と言うより、前作を見ていない(憶えていない)と、『ブレードランナー 2049』の面白みは半減だろうと思う。しかもわりと長い(2時間43分)ので、映像はまだしも、ストーリー的には大半でついて行けないという事態になりかねない。

そして2回目。
3Dで、とも思ったのだが、すでにメインの劇場ではやっておらず、IMAX2Dにした。レプリカントである主人公Kの乗るクルマが疾走するシーンなど、3Dだとより臨場感あるようにも思うが、見終わって「まあIMAXで見る価値は十二分にあるが、3Dまでは要らないか」と感じた。

前作を"復習"したおかげもあり、そして2回目でもあり、とても楽しめた。というか、前作にひけを取らない傑作なんではないの? と思ったな。制作にリドリー・スコットが入っていることもあり、前作への多大なるリスペクトのうえ、制作陣の総力?あげて作られた正統で豊穣なる続編、とでも言うか。
とくに前作『ブレードランナー』への思い入れがあるわけではないんだけど、前作の舞台から30年後となる世界を、前作から地続きで、かつ今どきの世相を取り入れつつエリアを拡大して描いたビジュアルには、うなるほかない。
前作とのつながりで言うと、デッカード役のハリソン・フォードが出てくるのは物語もかなり後になってから。メインは主人公Kの話として進む。後半、レプリカントの反乱軍が出てくるんだけど、「大義に殉じた死」みたいなセリフがあり、現実世界でもくり返されてきたことがここでも…。まあ、全体的に暴力のトーンは色濃く、あえていえば戦争映画の一変形とも言えるか。
また、さまざまなガジェットや小物、映像の細部にも深読みをさそう描写があちこちにあって、その読み解きも興味をそそられ、繰り返し観たいと思わせる。

それから音楽。ノーラン監督『ダンケルク』でも音楽を担当したハンス・ジマーがクレジットされているせいか、映画の全編で重低音が響き渡っている。雨(酸性雨らしい)の降りしきるLAの街並みや、廃墟となった砂埃舞うラスベガスなど、沈んだトーンの風景の映像と組み合わされて強く印象に残る。

前作から実時間で35年、前作を見ていない人にはなかなか入り込めない(と思われる)ストーリーなので、制作には高いハードルがあったと思うけど、よくぞここまで作ったよなぁ。
この手のSFに少しでも興味があれば、前作を復習して見る価値は十分にあり、です。それも劇場、できればIMAXで。


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# by t-mkM | 2017-11-22 01:40 | Trackback | Comments(0)

世界市民とただの人、のありよう

あれやこれやと、降って来るコトをこなしているうち、すでに11月も半ば。
この間、『ブレードランナー 2049』は観たものの、これといった本にもめぐり会っておらず、書きあぐねてきた。
そんな中、ちょっと「おっ」と思わされた文章を目にしたので、備忘録的にメモ。

ちなみに、みすず書房の月刊誌(と言っていいのか?)『みすず』、どの書店でも手に入るような感じではないけど、いまある雑誌のなかで、面白さ(と安さ)では個人的には筆頭にくる、と感じているんだけど。

『みすず』2017年9月号(みすず書房)
加藤典洋『五月の「「戦後」再考」ワークショップを思い出す』より

 曰く、日本の護憲論(戦後平和思想)の構造は、二階建てになっている。二階部分は、論理整合的な憲法九条護憲論であって、立憲主義などをめぐる憲法学者、この問題について、さまざまに論じている。まだ多くの知識人が加害責任を論じている。しかし、これをささえる一階部分を作っているのは、「正義の戦争よりは不正義の平和がよい」「とくかく戦争はいやだ」という、被害者意識に染まった、戦争体験に根ざす、ただの人の非論理的で身体的実感的な平和思想(平和意識)である。しかし、この二つの全く異質なものの二階建て構造こそが、いま、日本の平和思想の力の源なのだと考えるのがよいのではないか。私の考えでは、この二階建て構造のうち、一階の身体的実感的部分が二階の知的確信的部分に負けないだけの力をもち、両者が生き生きした拮抗状態にあるとき、この思想は、力をもつ。現実の壁にぶつかったあと、この一階と二階のズレ、不整合の「破れ目」から、いわば二階の論理的整合性に亀裂を生じさせ、自己変成する力を作りだし、(従来の価値観から見れば)変節し、転向し、変態をとげ、別のものに変わり、新たな現実へ即応していく、というのがそこでの可能性の内実である。
(中略)
 さて、こう述べて、岩波講座で、私は、現在、同じく現実の壁にぶつかっている戦後の日本の護憲論の二階建て構造ーー精緻な平和論・立憲主義の二階部分と「とにかく戦争はいやだ」という一階部分からなるーーにとっても、この一階部分と二階部分の拮抗こそが、自己変革のカギとなる。そこでは、「とにかく戦争はいやだ」という一階部分の声に押されて、二階部分が仕方なしに変わる、ということが、ありうべき変革のカギになる、というか、「変節」は護憲論においてそのようかかたちでしか自己を貫徹する形では起こりえない、と述べた。
 これをワークショップの議論、世界市民とただの人をめぐる質問に戻せば、こうなるだろう。つまり、一方(世界市民)は、理論的な整合性に立つ知的な確信の主体であり、他方(ただの人)は、論理不整合の体験に根ざす身体的な実感の主体である。しかし、一つの信条、信念、論理、イズムのなかには、つねにこの二つの異質な力源がある。その二つのものの、異質性、相克、葛藤のうちに、信条、信念、論理、イズムが現実にふれて、相互に影響を行使しあうことの原理的力源が、あるだろう。
 世界市民とただの人が、一人の人間のなかに、あるいは一つの思想信条のなかに、共存することのうちに、いま私たちが手にしうる変革の可能性の糸口が、あるだろう。

以上、p28~30


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# by t-mkM | 2017-11-14 01:05 | Trackback | Comments(0)